2009.04.20
縄文土器の変遷 その3
縄文時代は土器の様式により草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分されています。
前回の「縄文土器の変遷 その2」では縄文初期である「草創期」のまだ文様のない時代の土器「隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)以前」を扱いました。
今回は「草創期」の終わり頃の土器「隆起線文土器」の生活様式に迫って見たいと思います。
(この投稿は主に 比較文化史 というサイトから引用、要約させて頂きました。)
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posted by mukai at : 2009年04月20日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2009.04.19
大和誕生と水銀 ②宇陀の水銀
こんにちわ。 管理人のtanoです。
最近の縄文ブログ、かなり活性化していますね。 😀 コメントもたくさんいただき、この4月にはあたらに4名ほど会員が増えました。近々、会報の発信をする予定ですのでお楽しみに・・・。 8)
今日は、前回「大和誕生と水銀 ①大和の歴史」に続き水銀シリーズ第2弾をお送りします。
その前にこの水銀シリーズを始めるきっかけになった田中八郎氏の桜井のペンションの紹介を少しさせていただきます。前回のカナちゃん同様に行楽シーズンのこの5月にぜひ、桜井に行って歴史を堪能してきてください。
ペンションサンチェリー↓は全12室で宿泊費は1名8525円~となっています。
~
外観を見るだけで楽しくなりますね!
何より、このペンションに行けば田中八郎氏から大和のいろんなお話を聞く事ができるのです。
「桜井が大和誕生の地であるので、大和の原点を訪ねる歴史話をしましょう。夕食の時に「案内話を頼む」と注文すると、少し偏屈な親父が語ります。(体調不順な際は休みです)。真実から離れてしまった通例の大和史観と異なり、ユニークな大和古代史をお楽しみ下さい。その歩き方を案内します。」~サンチェリーHPより
私は仕事で手一杯でいけないのですが・・・・ 😥
さて、本題の水銀第2弾ですが、今回は宇陀と水銀の関係を明らかにしていきます。
その前になぜ水銀なのか?秘密は中国の漢方にありました。
日頃お世話になっている漢方薬とは水銀を使った不老長寿の薬だったのです。
今回も少し長いですが、頑張って読んでみてください。(田中八郎氏の著書「大和誕生と水銀」の中から抜粋していますが、田中先生の味のある大和訛りを省略させていただいています。先生すいません。
興味のある方はぜひ原文を読んでみてください。
その前に恒例のポチッをお願いします。
posted by tano at : 2009年04月19日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2009.04.18
アメリカ文明の基層を探る~最古のメソアメリカ文明[サン=ロレンソ]~
古代アメリカシリーズ中間整理にある「都市国家が出来たのはなんで?」がテーマです。
今回は、 「モンテ=アルバン」よりもさらに古い「サン=ロレンソ」遺跡を調べてみました。(どちらもメキシコです)
●文明以前のメソアメリカ
メソアメリカでは、5000年前位から住居跡とみられる遺跡があちこちで見つかっており、3800年前頃からは土器も見つかっている。住居は木と土で作られており、土器はヒョウタンの形をしたものが多く、地域や時期によって形態に違いがある。
日本の縄文時代と似た集団、社会構造だったのではないだろうか?
メソアメリカの土器
図版はこちらからお借りしました。
●3200年前~2900年前 オルメカ最古の「サン=ロレンソ遺跡」
ところが、これらの住居跡遺跡とは明らかに異なるものが遺跡がある。3200年前に「サン=ロレンソ」をはじめとしたメキシコ湾岸低地に興ったメソアメリカ最古の文明「オルメカ」である。オルメカの名は現地の言葉で「ゴムの地」に由来する事が示すように、一帯は熱帯雨林地域(ジャングル)である。
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posted by nandeya at : 2009年04月18日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2009.04.17
ユダヤ人が活躍できる場、それは立憲君主制の国である
こんばんは、カッピカピです。
今日は、世界初の中央銀行である「イングランド銀行」
にスポットライトを当ててみたいと思います。
サー・ジョン・クラパムの『イングランド銀行の歴史』によれば、イングランド銀行の株主の多くは、スペインとポルトガルのユダヤ人であったとされており、やはりイングランド銀行の設立には、ユダヤ人が大きく関わっていたと考えられます。
このことは、今の金融社会を牛耳っている国際金融資本家にユダヤ人が多いことからも、合点がいくところです。
しかし、これまで他民族から迫害され、追放され続けたユダヤ人が、政府と密着する中央銀行と深く関わることが出来たのはなんでなのでしょうか?
続きはポチット押してからどうぞ・・・
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posted by hi-ro at : 2009年04月17日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList
2009.04.16
ユダヤ人にとって天国だったオランダ
こんにちわちわわです。
チームユダヤも大詰めを迎えてきましたが、今回はオランダにスポットを当ててみます。
日本が鎖国していた時代に唯一西洋で交易が許されていたのがオランダです。それまで家康の時代にも交易のあったスペインやポルトガルは、キリスト教の布教に熱心だったために家光の時代に交易を絶ちました。
逆に、オランダは布教に熱心でなかったということです。
オランダは立憲君主制http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E5%90%9B%E4%B8%BB%E5%88%B6の国で、王の力がそれほど強くなく、もともと毛織物や海上貿易で栄えていたところ、スペインに植民地化され、カソリック教による重税政策に反発して独立戦争により独立した商業重視の国家でした。地理的にはプロテスタント圏なのですが北部のプロテスタントと南部のカソリックとに分かれており、ユダヤ教が共存するのに適した国でもありました。
オランダにいたユダヤ人は、いわゆる聖書に出てくるヘブライ人であり、イスラエル人でした。
紀元70年にローマ帝国によって滅ぼされたユダヤ人は東西南北に散っていき、南はエチオピアから南端の南アフリカのヨハネスブルグまで、北はイスパニアのグラナダとリスボンへ、西はエジプトのアレキサンドリアへ、そして東はペルシャのシラズへと散っていきました。
イスパニアのグラナダに住んでいた彼らは、その後のイスパニアがカトリック教を強力に推進する中で、再び移動を余儀なくされ、北の果てのオランダにまでやって来たのです。そして彼らの同朋が南アフリカで発見したダイヤモンドの原石をオランダへ運んで加工する商売を始めました。それがアムステルダムであり、その中心地ダム広場を彼らが独占したのです。
これまで、迫害を受け続けてきたユダヤ人にとって、オランダは天国のような国だったのかもせれません。ここで、得意の商業と金融業で力を発揮し、世界初のオランダ東インド会社という株式会社を設立し、17世紀にはオランダの最盛期を築きます。
アメリカのニューヨークは、元はニューアムステルダムといい、アメリカに渡ったオランダのユダヤ人がダイヤモンドの商売をしている町でした。英欄戦争でイギリスが奪取し、ニューヨークに改められました。
ユダヤしぶといと思った方↓↓ぽちっと
posted by tiwawa at : 2009年04月16日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList
2009.04.15
古代史を研究する意味
ないとう@なんで屋です。
山之辺の道で遺跡めぐりの記事を書いてくれているカナちゃんと一緒に、半年に亙ってネットサロンで『古代日本史の研究』を続けてきました。
その成果はコチラ⇒古代史年表
posted by staff at : 2009年04月15日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList
2009.04.14
弥生時代の遺跡~万葉集から慮る
こんばんは。
先日、会員になられた五節句さんより、青谷上寺地の出土品を題材にされた、ご自身が運営されていらっしゃるブログの記事転載・紹介依頼をいただきました。
同時に私のエントリーにもコメントをいただいており、これも何かの縁でもありますので、代理エントリーさせていただきます。
残念ながら、私の方は万葉集に関する知識をほとんど持ち合わせていませんが、五節句さんのブログを拝見させていただきました。
その中で、
>この中で、名工達は云っていました。
>この遺跡を作った人々は、木のことをよく知り、作ることを楽しんでいた
が特に印象にのこりました。
「木をよく知り~ 」は、木の性質、特性に合わせて、つまり自然の摂理に則って、木製品を製作していたということだと思います。そのことは、当時では、ごく当たり前のように行なっていたことでしょう。現代においても、その道に通じた者(名工達)には、時代を超えて、そのことがメッセージとして読取る事ができるということなのでしょう。
五節句さんは、万葉集との対比としてあげられていますが、想像するに、万葉集を作られた方も、植物や木のこと、つまり自然の摂理をよく知り、それを歌に折り込んでいったということなのだと思います。
青谷上時地の出土品と万葉集とに通じる心とは、まさに自然の摂理をよく知る人たちの心持ちのことをご指摘されているのだと思います。そして、その心が現代である私達にも通じているといことなのではないでしょうか。
五節句さんは、最後に、弥生文化にひっくり返され、縄文文化は消えてしまったと考察されています。ここは私の想像の域をでませんが、そういう意味では、自然の摂理を読取ることに長けていた縄文人とその文化は、弥生文化に取り込まれ、溶け込んでいった(=消えたように見える!?)と考えた方がいいのかもしれませんね。
以下は、五節句さんのブログからの転記です。
本文を拝見される前に、ポチッと応援、お願いいたします!!
posted by yuyu at : 2009年04月14日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2009.04.14
山之辺の道で遺跡めぐり
こんにちは
今回が3回目のエントリーになります カナです
実は私このブログが始まって、初のフィールドワークに行って来ました
行ったのは、日本最古の道 山之辺の道です
私自身も古墳とか遺跡に行くのは初めてだったので、ちょっと見方が良くわからなかったのですが、実際に古墳を見て、発見がたくさんありました
今のあったかい季節のピクニックに超おすすめな場所なんで、お休みがある方はぜひ読んで参考にしてくださいね
ポチっとクリックお願いします 😀
posted by kana0444 at : 2009年04月14日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2009.04.13
日本支配層の系譜3 日本:激しい戦争を経験せずに国家を形成
古代中国の戦国時代にしても、古代朝鮮の三国(馬韓・辰韓・弁韓)にしても極めて激しい戦闘を経て国家を形成した。部族と部族が存亡を掛けて争い、敵を皆殺し・殲滅しながら次第に強大な部族に統合されていく過程を踏み、最終的に頂点に立った部族(氏族)が権力を握り、近親部族を直下に配し、諸部族を力で統合する体制(序列国家体制)を形成する。
しかし古代日本においては、このような過程は殆ど見られない。3世紀後半に登場したヤマト王権も諸豪族の連合的な性格が強く、互いに相手を殲滅するような激しい戦いは全くといっていいほど見られない。
これは何故なのだろうか?そして、そのことが日本という国の性格や現在に何を与えているのだろうか?
続きを読む "日本支配層の系譜3 日本:激しい戦争を経験せずに国家を形成"
posted by ihiro at : 2009年04月13日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2009.04.11
聖徳太子の功績は捏造か
歴史家の中には、聖徳太子の実在を疑う人が少なくありません。その代表者が、大山誠一氏です。
大山氏は厩戸皇子(厩戸王)の実在は認めています。しかしその厩戸皇子が
1.冠位十二階を定めて、門閥主義を排し、有能な人材を登用した
2.十七条憲法を制定して、天皇中心の国家理念と道徳を提示した
3.小野妹子を隋へ派遣し、隋と対等な国交を開くことに成功した
4.『三経義疏』を述作し、蘇我馬子とともに国史の編纂を行った
という属性を持つ聖徳太子であったことを否定しています。要するに、厩戸皇子は実在しましたが、聖徳太子は実在しなかったということです。聖徳太子は、ヤマトタケルと同様に、『日本書紀』が捏造した、たんなる神話的存在に過ぎない。なぜなら、聖徳太子の実在を保証する、信頼に足る史料が何もないからだと言うのです。
今回は「聖徳太子の功績は捏造か」について調べました。
~永井俊哉ドットコムより抜粋引用しています。
クイックよろしくお願いします。
posted by norio at : 2009年04月11日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList