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ユダヤ人にとって天国だったオランダ

こんにちわちわわです。
チームユダヤも大詰めを迎えてきましたが、今回はオランダにスポットを当ててみます。
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日本が鎖国していた時代に唯一西洋で交易が許されていたのがオランダです。それまで家康の時代にも交易のあったスペインやポルトガルは、キリスト教の布教に熱心だったために家光の時代に交易を絶ちました。
逆に、オランダは布教に熱心でなかったということです。
オランダは立憲君主制http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E5%90%9B%E4%B8%BB%E5%88%B6 [1]の国で、王の力がそれほど強くなく、もともと毛織物や海上貿易で栄えていたところ、スペインに植民地化され、カソリック教による重税政策に反発して独立戦争により独立した商業重視の国家でした。地理的にはプロテスタント圏なのですが北部のプロテスタントと南部のカソリックとに分かれており、ユダヤ教が共存するのに適した国でもありました。
オランダにいたユダヤ人は、いわゆる聖書に出てくるヘブライ人であり、イスラエル人でした。
紀元70年にローマ帝国によって滅ぼされたユダヤ人は東西南北に散っていき、南はエチオピアから南端の南アフリカのヨハネスブルグまで、北はイスパニアのグラナダとリスボンへ、西はエジプトのアレキサンドリアへ、そして東はペルシャのシラズへと散っていきました。
イスパニアのグラナダに住んでいた彼らは、その後のイスパニアがカトリック教を強力に推進する中で、再び移動を余儀なくされ、北の果てのオランダにまでやって来たのです。そして彼らの同朋が南アフリカで発見したダイヤモンドの原石をオランダへ運んで加工する商売を始めました。それがアムステルダムであり、その中心地ダム広場を彼らが独占したのです。
これまで、迫害を受け続けてきたユダヤ人にとって、オランダは天国のような国だったのかもせれません。ここで、得意の商業と金融業で力を発揮し、世界初のオランダ東インド会社という株式会社を設立し、17世紀にはオランダの最盛期を築きます。
アメリカのニューヨークは、元はニューアムステルダムといい、アメリカに渡ったオランダのユダヤ人がダイヤモンドの商売をしている町でした。英欄戦争でイギリスが奪取し、ニューヨークに改められました。
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ユダヤ商人のあゆみを分かりやすくまとめたサイトがありましたので転載します。
目で見る世界史http://history.husigi.com/VHv2/koneta72.htm [4]
中世のユダヤ人
「ヴェニスの商人」が英国で初めて上演されたのは16世紀末。すでに「高利貸し」ユダヤ人のイメージが広く流布されていたようです。ユダヤ人はなぜ「高利貸し」にならなければならなかったのか。そのルーツを中世に探りましょう。
ユダヤ人たちは1900年前、ローマに敗れてエルサレムを追われました。「ディアスポラ」の始まりです。しかしそのローマ帝国(西)がゲルマン人の侵入で崩壊し、7世紀にアラビア半島からイスラム勢力が勃興すると、地中海沿岸に離散したユダヤ人にチャンスが巡ってきます。
豊かなイスラム世界との交易は欠かせないものでしたが、誕生間もないゲルマン社会の窓口としてイスラム商人と直接交渉したのはユダヤ人でした。シャルルマーニュは8世紀末にバグダッドのカリフに使者を送りましたが、ガイド役を務めたのはユダヤ人。独自のネットワークを生かして西アジアの諸都市から香料や絹を輸入し、逆に黒海北部の奴隷(slave=スラヴ人)などをイスラム世界に輸出しました。
2つの世界の境界線上にあったイベリア半島ではとりわけユダヤ人の活躍が目立ちました。カスティリア王アルフォンソ6世(1040-1109)は財務に明るいユダヤ人たちを擁して、イスラムからトレドを奪い返しました。トレドは学芸文化の中心になり、「12世紀ルネサンス」の舞台に。アラビア文字のギリシャ古典が盛んにラテン語に翻訳され、アリストテレスの名が初めて知られるように。翻訳作業の中心になったのはもちろんユダヤ系知識人でした。
中世の転換点となった11世紀、商工業が発達し、新興の商人層が台頭してくると、ユダヤ人は一転して逆境に。ギルドは守護聖人への誓約の上に成り立った組織ですが、これはユダヤ人を排除する良い口実に。第一回の十字軍(1096年)の遠征では、リヨンやマインツ、プラハなどの豊かなユダヤ人街が真っ先に襲撃され、その富が奪われました。以降ヨーロッパ全域に迫害が広がっていきました。 金貸し業はそれまで教会や修道院でも行われていたようですが、時間的余裕ができるという理由でユダヤ人に好まれた仕事でもありました。しかし1215年の第4回ラテラノ会議で、(キリスト教徒による)キリスト教徒への利息付き金貸しが厳禁され、ユダヤ人が全ての公職、ギルドから追放されると、「高利貸し」はユダヤ人の専業に。ペスト流行の時などには多数のユダヤ人が虐殺されましたが、「借り証文」が一緒に焼かれたことは言うまでもありません。イギリス、フランスに次いで、レコンキスタの完成した(1492年)スペインでもユダヤ人は正式に追放されました。
イベリア半島を追われた25万のユダヤ人たちは比較的寛容なオスマン=トルコやネーデルラント、イタリアの諸都市に逃れていきました。ダイヤ加工(アントウェルペン)や珊瑚加工(イタリア)などを除けば、やはり金貸し業に流れる人が多かったようです。「ゲットー」は16世紀初めのヴェネツィアで生まれました。これらのイベリア半島出身のユダヤ人たちは特に「セファルディーム」と呼ばれていますね。17世紀のアムステルダムで世界貿易に活躍したユダヤ人もこの一派。オランダ東インド会社は世界最初の株式会社でしたが、この株式の売買に最も熱中したのはユダヤ人でした。投機がピークに達した18世紀には株式の4分の1がユダヤ人名義であったとか。
一方、イディッシュ語を話す「アシュケナジーム」と呼ばれたユダヤ人のグループはドイツから東欧に拡散し、現代ユダヤ人の主流に。やはり零細な金貸し業を生業とする者が多かったようです。しかし彼らの能力を最も高く評価したのは、三十年戦争で破産寸前に陥ったドイツの諸侯たちでした。彼らは有能なユダヤ人に財産管理を任せたばかりか、徴税を請け負わせ、戦争が起これば武器、傭兵を調達させました。神聖ローマ帝国内の200近い領邦のほとんどでこうした「宮廷ユダヤ人」が活躍したといいますから驚きですね。
引用以上
オランダでのユダヤ人の成功が脚光を浴び、金融システムが世界に広がってゆくことになります。イギリスにもイギリス東インド会社が設立(株式会社ではないようですが)され、中央銀行もオランダの影響を強く受けているようです。
次回はそのあたりを追及してゆきます。

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