- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

縄文土器の変遷 その3

縄文時代は土器の様式により草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分されています。
前回の「縄文土器の変遷 その2」 [1]では縄文初期である「草創期」のまだ文様のない時代の土器「隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)以前」を扱いました。
今回は「草創期」の終わり頃の土器「隆起線文土器」の生活様式に迫って見たいと思います。
(この投稿は主に 比較文化史 [2] というサイトから引用、要約させて頂きました。)
 
バナーをクリックしてランキングアップにご協力願います。
          
Blog Ranking [3]にほんブログ村 歴史ブログへ [4]


■ 文 様 の 原 点 (縄文心象 [5]より)
『文様は装飾のために機能し、同時に集団としての共通理念や価値基準を表現し、確認する機能を本来持っている。』
集団内に共通理念があれば共通の文様が存在するというわけである。
共通理念とは生活の中でどのような事を価値あるものとして認めるかという事であり、わかりやすく言えば「価値観・生活観」だ。それを支えているもの。その形を抽象化して表現したものが文様の出発点だ。

■ 縄文土器の変遷
%E5%9C%9F%E5%99%A8%E3%81%AE%E9%80%A0%E5%BD%A2%EF%BC%91.jpg
%E5%9C%9F%E5%99%A8%E3%81%AE%E9%80%A0%E5%BD%A22.jpg
写真では撚糸文の識別はむずかしいだろうが、よく見るとわずかに文様がある。
%E5%9C%9F%E5%99%A8%E3%81%AE%E9%80%A0%E5%BD%A23.jpg
(縄文時代研究事典 40p 戸沢充編 東京堂出版)
   施文具と文様の関係
上左・楕円押型文、上中・格子目押型文、上右・複合山形押型文
下左・山形押型文、下中・綾杉状押型文、下右・ネガティブな押型文模式図
 ・土器という記憶媒体
 縄文早期には、撚紐(よりひも)を押しつけて施文する押圧(おうあつ)縄文土器と、回転させながら文様をつける回転縄文土器が作られるようになる。やがて回転縄文が主流になっていく。回転が運動であり、時間の経過を表現することが意識されているなら、当然のことだろう。輪積み法もそうだが、こういった思想が土器に反映されることにより、土器製作過程を学べば、必然的に継承されていく。
いわば土器と製作過程そのものが記憶媒体であり、しかも縄文時代のほぼ1万年という長期にわたり間断なく継続する。これがわかれば、古事記が旧石器時代の終わりごろ、すなわち土器が出現する直前からはじまるのは、むしろ当然のことかもしれない。
 ・尖底土器と装飾
 縄文時代の埋葬法は、ほぼ全期間をとおして、手足を折り曲げた屈葬(くっそう)でおこなわれる。葬儀は生死観に関わる問題だが、いつごろ始まったのか正確にはわからない。ただ、手足を折り曲げるのは、出産直後の乳児とおなじ形態を模倣していることを意味する。死と再生ということであり、屈葬は再生のための準備であり、また、太陽とおなじように丸くなることでもある。
墓に赤いベンガラを振りかけるのは、夕焼けが赤いことを模倣することに他ならない。
  %E5%9C%9F%E5%99%A8%E3%81%AE%E9%80%A0%E5%BD%A24.jpg   
 ここを起点にすれば、北極星の発見により変質した世界観に、再生のプロセスが要請されるようになることは当然かも知れない。世界はぐるぐる回りながら、一点に収束していく。世界の死であり、それで終わりでは、誰でも困ってしまう。
 ・尖底土器と文化圏
 前述のように、この時期は関東の撚糸文(よりいともん)土器と西日本の押型文(おしがたもん)土器に大別できる。
 撚糸文土器は多縄文系土器群の手法を継承しながら成立したもので、井草(いぐさ)式・夏島(なつしま)式などといったように地域性が明瞭にでてくる。人口が増え、密度が高くなっていることが伺える。もうひとつは定住化の動きがはじまっていて、社会が安定化することにも要因がある。それらが地域性という形で表出したものと、読むことができよう。
 濃密な土器分布と土器形式の変遷が明瞭に読みとれることで、東京湾を中心に東北地方や中部地方まで広がっていくことがわかっている。また、撚糸文土器の後半期、稲荷台(いなりだい)式ごろになると竪穴式住居が普及し、東関東に限定されるが土偶が出現したりもする。ところが、東北に分布していた貝殻沈線文(かいがらちんせんもん)土器の影響を受けて、沈線文土器に移行してしまい、撚糸文土器は消滅する。
三戸・田戸式と呼ばれるもので、以降は、関東から北海道までの沈線文と、関東から九州(南九州を除く)までの押型文に分かれる。
 
一方の押型文土器は、撚糸文土器に後発し、近畿に成立する。成立過程についっりしないが、前半期に〝ネガティブな押型文〟をもつ大鼻・大川・神宮寺式の発生が関係したことが指摘されている。
このネガティブという考え方だが、すぐに双極の構造になっていることが理解できよう。
押型文と、ネガティブな押型文、の関係であり、前隆起線文土器文化期で説明した窩文と豆粒文の関係とおなじである。窩文(凹)を主眼にするなら、豆粒文(凸)は〝ネガティブな窩文〟
であり、豆粒文に足を置くなら、窩文が〝ネガティブな豆粒文〟ということになる。
 また前半期には、竪穴住居や竪穴炉も登場し、土偶も出現する。この土偶は、撚糸文土器文化圏のものとは系統が異なるとされているが、はっきりしたことはわからない。もうひとつ。押型文の成立には、撚糸文土器が関わっていることも指摘されている。
関東の撚糸文土器が関西に影響を与えて押型文土器を成立させる。つぎに東北で押型文土器が盛行して、貝殻沈線文土器が成立する。そして前述のように関東で撚糸文が、沈線文にとって変わられる。そういうプロセスがある。
    %E5%9C%9F%E5%99%A8%E3%81%AE%E9%80%A0%E5%BD%A25.jpg
 つまり、関東の撚糸文が太平洋ルートを通って関西に運ばれ、関西の押型文が日本海ルートを通って東北に運ばれ、東北の沈線文が太平洋ルートで関東に運ばれるということである。このことは背後に舟による文化的な交流が成立していることを暗示素る。
 もうひとつは、対岸と文化的な交流がある、ということであり、北海道南部と東北北部、瀬戸内海を中心にした近畿・中国・四国・九州中北部は文化を共有している。このことは舟による文化交流があることを裏書きする。

[6] [7] [8]