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日本支配層の系譜3  日本:激しい戦争を経験せずに国家を形成

古代中国の戦国時代にしても、古代朝鮮の三国(馬韓・辰韓・弁韓)にしても極めて激しい戦闘を経て国家を形成した。部族と部族が存亡を掛けて争い、敵を皆殺し・殲滅しながら次第に強大な部族に統合されていく過程を踏み、最終的に頂点に立った部族(氏族)が権力を握り、近親部族を直下に配し、諸部族を力で統合する体制(序列国家体制)を形成する。
しかし古代日本においては、このような過程は殆ど見られない。3世紀後半に登場したヤマト王権も諸豪族の連合的な性格が強く、互いに相手を殲滅するような激しい戦いは全くといっていいほど見られない。
これは何故なのだろうか?そして、そのことが日本という国の性格や現在に何を与えているのだろうか?


日本支配層の系譜2 半島における倭国大乱→侵略部族が列島に舞い降りる [1]
の続きです。
★なぜ日本で激しい戦闘が起こらなかったか?
大きく2つの理由があります。
→ 1.半島からの侵略者が支配層を形成、連合政権としてのヤマト王権を運営した。
   2.大多数の原住民(縄文・弥生人)は、採集から農耕に転じた
   共同体的な部族であり争いより和を重んじた。
   (この気質の上に上記1が可能になった。)
2世紀後半、半島における倭国大乱で日本に渡来した侵略部族は、その約100年後には、纒向で巨大な前方後円墳を成立させ、ヤマト連合王権が誕生した。
これは侵略部族同士が手を握り、もともとの縄文人や弥生人を共同して支配することを取り決めたのだとも言える。
参照:前方後円墳は、出自の異なる古代部族の和合・合体の証し? [2]
その象徴的な動きが、2世紀末の各地の環濠集落の消滅、代わって支配者層の巨大な館と古墳がセットで、しかも全国的に成立したことだ。

各地で弥生環濠集落が解体し、土塁や壕・溝・塀などで方形に囲まれた首長層の居館が、同時進行で古墳時代以降に出現することだ。祭政を執り行う場である首長居館の出現は、クニ・国の王が民衆と一層隔絶した階級的支配者へと変貌したことを示し、彼を葬る古墳の出現とも表裏の関係にある。  『王権の誕生』より

 
     
↓豪族の居館の例(榛名山麓の三ツ寺遺跡)
%E4%B8%89%E3%83%84%E5%AF%BA%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%80.jpg [3]『大王から天皇へ』より
上記の図は5世紀でやや新しい事例ですが、豪族(元侵略部族)の居館のイメージを十分に伝えてくれる。

榛名山麓の遺跡群には、古墳時代のムラだけでなく、この地域の首長が住んだ居館と、その首長が死後葬られたとみられる古墳がセットで存在している。
居館部分は約86m四方の規模で四方の規模で、その周囲には巾30~40m、深さ3.5mの濠をめぐらせている。濠の斜面には河原石を石垣状に築き、要所には張り出し施設を設けている。さらに周囲に柵列も巡らせていて、防御機能を備えていた。居館内部は柵列によって南北2つの区画に分割されている。このうちの南の区画には大型の掘立柱建物を中心として、井戸、石敷きの祭祀遺構などがあり、首長が政治を取った区画と考えられる。

      『大王から天皇へ』 熊谷公男 より
環濠集落の消滅は、彼らが在地の集落を広域支配することで、環濠の必要性がなくなったということだろう。環濠に代わって新たに出現した居館・祭祀場と古墳は、彼らの巨大な館であり、原住民を統合するための祭祀場・古墳だったのだ。
この動きをみると日本の黎明期に全国で古墳が成立した理由が見えてくると思う。彼らは、原住民を巨大な古墳と祭祀で服属させたのだ。もともと精霊信仰の流れを汲む縄文・弥生人であり、巨大な古墳+降臨神話で原住民を騙し、反抗すれば武力で脅し服属させた。
※それが後に天皇制(実権の無い天皇に人々の期待を集約させ、実権は時の権力者が握り、人々をうまく操る道具として機能する。)という制度に収束していく。
支配層となった侵略部族たちは、小競り合いを繰り返しながらも談合し合い、原住民を支配管理してきた。その証が明治まで続いた氏(姓)を持つ氏族による支配体制。但しこの枠内で、出身地と系列に分かれて絶えず派閥闘争は繰り返えされている。
☆では、日本の支配層の対外的な意思決定はどこから?
 (アメリカへの従属、中国・朝鮮への感情的な対応など)
関連投稿:支配部族と被支配民の織り成す二階層国家:日本 [4]
(by Hiroshi )

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