2008.01.28
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか?
つい最近まで、といっても40年くらいまえまで、人がキツネにだまされたという話は、身近でごくありふれたものだったらしい。
著者の内山節さんは、日本各地を歩き、土地の人から聞きまわり、キツネや動物にだまされた話を聞いたという。
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posted by ihiro at : 2008年01月28日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.27
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史②~内陸部への進出の足跡
こんにちは。
前稿では、中国西北部にいた遊牧民族の古代羌族が、中原に進出、あるいは南進した概要をお伝えしましたが、今回は、具体的にどのような足跡を残したのか、紹介していきます。
ここで再び中国の地図を紹介。
(古代で遊ぼさんよりお借りしました)
>青海から甘粛にかけての地域に、馬家窯文化と呼ばれる新石器時代(4000-5300年前)の遺跡が発掘されている。これらの主は古代羌族と考えていいだろう。
>青銅器時代(3000-4000年前)になると、斉家文化(甘粛から青海にかけて)やカユエ文化(青海湖東の湟中県)、寺ワ文化(甘粛)、上孫家寨類型(青海大通県)、辛店文化(甘粛)、諾木洪文化(青海都蘭県)などが次々と登場するが、どれもやはり古代羌族と考えられる。土器表面の紋様を見るかぎり、高度な文明をもっていたことがうかがえるが、中原の漢族の影響や交流も同時に感じられるのである。
>チベット高原の東部、チャムドでは、カロ(Kha rub)遺跡(4000-5300年前)という謎めいた大規模遺跡が発掘されている。古代羌族はこんなにも早くチベット高原にたどりついていたのだろうか。出土物からは西域やカシミールとの交易も考えられ、古代はわれわれの想像よりはるかに交流が活発に行なわれていたのかもしれない。
>中国の学者は、古代羌族の南下のもっとも早い例は、4、5千年前の雲南・四川にまたがる大敦子および礼州遺跡ではないかと見ている。
近年注目を浴びている四川盆地の「超古代文明」、三星堆遺跡の主は古代羌族と血縁関係にあると思われるが、より具体的にはテイ族の一種、巴人ではなかろうか。テイ族は低地に住むようになり、遊牧から農耕へと生活をシフトしていった羌族とみられている。(以上、「送魂路」さんより引用)
どうやら、古代羌族は5000年前(BC3000年)くらいに黄河上流や長江上流へと進出し、遊牧から農耕へと転換し、定住化しては高度な文化を築いたものと思われます。
また、BC3000年頃においては、下の図に見るように、各地の文化間の交流があったようなのです。
(中国的こころさんよりお借りしました)
>B.C.3000年代は、黄河中・下流域の龍山文化のほかに、黄河上流域の斉家文化、長江中流域の屈家嶺・石家河文化、長江下流域の良渚文化が並存し、それぞれ自立的な発展をたどりながら、地域間の交流が活発になって、地域をこえた共通性が現れるようになりました。
>山東・湖北で産する豆形土器は、中国西北部の山西龍山文化に伝わりました。
良渚文化で産する玉琮・玉璧も山西龍山文化に伝わり、さらに陝西龍山文化・斉家文化に達しました。
>山東龍山文化で産する玉璋・玉斧・玉刀も山西龍山文化に伝わっています。
一方、西北部から河南・山東地域には鬲形土器や羊の飼育、卜骨の風習が伝わっています。
>これらを見るに、相互に生産物や風習が交流されていたことがわかります。それは隣接する地域の間を少しずつ伝わっていき、しかも各種ある生産物のなかから一部だけが選択的に受容されていったものであり、各地の生活方式を一変させるようなものではありませんでした。つまり生産物を輸出する側に主体があったわけではなく、あくまでも受容する側に主体があったのであり、強い強制力はそこに発生したとは考えにくいのです。
(以上、「中国的こころ」さんより引用。)
この“交流”とは一体なんなのでしょうか?
古代羌族が黄河上流につくった斉家文化には下流の山西龍山文化の影響が見て取れるし、長江上流につくった三星堆遺跡からは下流の良渚文化の影響が見て取れる。 “交流”というからにはその逆があって然りなのですが、しかし逆方向は無いのです。
これは何を意味するのでしょう?
仮説ですが、中国西北部の高地にいた古代羌族は黄河上流へ、長江上流へと進出し、さらに下流へと進出していくなかで、下流の高度な文化を手に入れては持ち帰った。このようなことが何度も何度も行なわれては上流に定住するようになり、一方の下流域においては遊牧民から守るために環濠集落を構築していった、のではないかと思われます。
良渚文化、山東龍山文化、石家河文化、山西龍山文化などの下流域の文化はB.C.3000年代末のほぼ同時期に崩壊しています。それは洪水なのでしょうか?それとも、、、遊牧民の仕業なのでしょうか?
そしてその後、中原においては夏王朝と想定される二里頭文化が生まれるわけです。
、、、良渚文化などが一斉に滅んだのは何故でしょうか?
、、、そして、二里頭文化(夏王朝)の主は誰だったのでしょうか?
また疑問がでてきました、引き続き追求していきます。(by eto)
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posted by nishipa at : 2008年01月27日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.26
ナイル川とアスワンハイダム
突然ですがみなさん、ナイル川ってご存知ですよね 🙄
ナイル川といえばエジプト文明
当時ピラミッドの建設に従事した人々は、実は奴隷ではなかったという説が最近有力なようで、ピラミッドは、ナイル川氾濫で農作業ができない期間の公共事業だったそうです。
その証拠にピラミッドで働く人たちの出勤簿が見つかっていて、中には欠勤理由が「家庭的な事情 」や「二日酔い 」なんてのもあるそうな。
とても奴隷とは思えないですね 😉
ところで、このナイル川の氾濫ですが、実はなくてはならないものだったようです
毎年決まった時期に氾濫が起きて上流から肥沃な黒土をもたらし、肥料を全く使わずに農業を営む事ができたのです。まさに氾濫は「天からの恵み 」「ナイルの賜物 」と考えられていたのです
しかし、近代に入って首都カイロが飛躍的な発展を遂げ、人口が集中したことによって、安定的な農業用水と電力が必要になり、1902年アスワンハイダムが建設されます
これによって、ナイル川の氾濫はなくなるのですが・・・・ダム建設が仇となり自然のサイクルが壊れていくのです
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posted by pingu at : 2008年01月26日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.26
アステカの信仰と国家(集団)統合様式の関係
現代の社会は政治も経済も市場もすべてが国際情勢に影響されるグローバル社会です。しかし、考えてみれば、そのほとんどの主導権は西欧文明の価値観に支配されてきたと言えます。一方、市場縮小や環境問題などに代表されるように、この西欧の文明支配はいたるところで、ほころびを生じ、そろそろ限界が見えてきました。
これからは、現代の統合様式に変わる新しい社会統合の可能性を模索する時代と言えそうです。
そもそも、社会の統合様式は何によって決まってくるのでしょう?
現在では、まだまだ謎の多いメソアメリカの古代文明の中には、西洋・東洋と違う何かがありそうです。
今回は、その中でも、人々の意識と密接な関係がある信仰にスポットを当てて見たいと思います。「ピラミッドの風景写真」より
posted by hiroshi at : 2008年01月26日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.25
アステカの統合は掠奪支配ではなく、部族の連合による秩序化だった。
14世紀にメキシコ盆地に文明を築き、1521年にスペインに滅ぼされたアステカ帝国は、血と生贄を好む好戦的なメシーカ族が圧倒的な軍事力で周辺諸国を支配した帝国だったように言われていますが、本当はどうだったでしょうか?
http://www.kufs.ac.jp/kufs_new/chalchuapa/terms.htm
京都外国語大学 エル・サルバドル総合学術調査プロジェクト 用語集より
PHOTO:「テレリアノ・レメンシス絵文書」にみる毛皮を着て弓矢をもつチチメカ人に攻撃される綿の服を着た文明人
アステカ帝国ができていったのは、メソポタミヤ文明の抗争のように、繰り返す掠奪闘争によってもともとの部族社会が完全に崩壊し、殺戮と支配が繰り返されるような状況だったのでしょうか?
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posted by nandeya at : 2008年01月25日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.24
縄文土器・模様の意味は!?
様々な模様が象徴的で有名な縄文土器。 縄紋土器の縄の模様で一般的に知られているのが単純に縄を撚っただけ、節が一つの「単節縄文」と言います。「複節」、「複々節」さらに、縄の真ん中を縛り、転がすと羽のような模様になる「羽状縄文」。また、棒状のものに巻きつけて転がして模様をつけたものがあるそうです。
余談ですが、縄にも右巻きと左巻きがあって、作った人の癖と言うか、古代の人が右利きか左利きどちらが多かったか分かるかもしれないですね。
模様をつける縄にも様々ありますが、模様の意味には色々な説があるようです。興味深いので少し調べてみましたので事例を挙げたいと思います !
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posted by dai1028 at : 2008年01月24日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.21
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史①~略奪の始まりは羌族か?
さーねさんの前作では、人間扱いされなかった「羌」や「南」の“異民族”のことが紹介されましたね。
この「羌」とは一体何者なのか? 調べてみました。
>羌という文字は甲骨文のなかに頻出する。商(殷)王朝と戦って捕らえられた羌人は人身御供、つまり祭祀の生贄とされたのである。(「送魂路」さんより引用)
>古代羌族(きょうぞく)は、陜西省から寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)にいた遊牧民族で、白狼を崇拝し、自らを白狼の子孫一族としています。
>羌族はチベット系民族ですが、その呼称文字の「羊」から知られるように、西アジア地域の遊牧民族で、やがて、中国西部に広く勢力を伸ばしてきます。三皇五帝以前より、度々中原に進出し、葛藤と同化を繰り返します。やがて同化し、漢民族とし漢水の上流にいる羌族を南羌族、青海周辺に居る羌族を西羌族と呼ばれます。
南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となります。その時代になると、南羌族のトーテムは「羊」に変わっています。「白狼」崇拝は、西羌族だけとなり、彼ら一族は、時に胡人とも呼ばれるようになります。(「レアメモリー」さんより引用です)・・・漢水とは長江の支流のことで陝西省の南部を指します。
>チベット高原の東端、四川省西部の山岳地帯は、かつて幾つもの古代民族が移動と興亡を繰り返した地域である。数千年前、中国西北部の古代民族「羌」の一部は故地を追われ、新たな土地をもとめてここを南下したという。現在、この一帯に居住するチャン族やギャロン、白馬、ナムイなどのチベット族および雲南のプミ族は、この古代「羌」の末裔と目される人々である。(松岡正子氏の論文より引用です)
ここで中国の地図を載せておきます。
青海湖辺りに西羌族、天水辺りに南羌族がいたわけですね。
(古代で遊ぼさんよりお借りしました。)
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posted by nishipa at : 2008年01月21日 | コメント (9件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.20
匈奴が広大な遊牧騎馬帝国を冒頓単于の1代で築けたのは何故か?
中国の統一はBC4000年~始皇帝のBC200年の登場までに多くの戦乱を経て実現されました。それに対して遊牧騎馬民族は、BC4000年辺りから遊牧部族が部族連合を形成しつつ広がり、BC1000年当りに遊牧騎馬民族となり、始皇帝の死後に以下のような秦より広大な地域を匈奴の冒頓単于が1代で統一しました。何故、冒頓単于の1代で統一出来たのか?を考えることで遊牧騎馬民族と中国の関係を考えてみました。鍵は「万里の長城」にありそうです。
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posted by sakashun at : 2008年01月20日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.19
中国文明:意識の源流を探る~「人間」ではなかった人々
最近、中国ネタの記事を読んでいて、ふと感じたこと。やはり、この国の人々の意識は何か違和感を感じざるを得ない 一体、どこに源流があるのだろうか
今までは、どうも支配する側の意識を追求しすぎていたと感じた。今日は、支配する側だけでなく、農民などの庶人の意識などにも視点を置こうと思います 😉
じゃぁ、どの時代か…やはり殷ではないかと考え、史実を改めて追ってみると…
これほどの扱いを受けると人間の意識はどうなるのだろうか?恐ろしさを感じた
byさーね
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posted by sawatan at : 2008年01月19日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.16
縄文人の死生観~埋葬のしかたの意味~
😀 くまなです
自然の摂理に対する意識のありようは、生死にどう接したかによく表れると思います。そこで、縄文人の埋葬のやりかたから、縄文人の死生観に迫ってみたいと思います。
縄文人の埋葬の特徴は、屈葬、ベンガラ、乳幼児甕埋葬、抱石葬です。
すべてを一貫して説明できるのは、再生への願い です。
(再生とは「誰かがよみがえるのではなく、誰かの魂が戻ってくるのでもなく、充足や活力が再生され(続ける)こと」です。前回の記事を参照してください。)
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posted by kumana at : 2008年01月16日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList