2008.01.15

良渚遺跡跡発掘で中国の王朝史は遡るのか?

こんばんわ。tanoです。 🙂
以下、2月号のニュートンに書かれていた記事の紹介です。中国ではかなりセンセーショナルな考古学ニュースのようで、中国探求グループが多いこのブログでもぜひ紹介しておきたいニュースです。下記の記事を読んで、当ブログの中国ファンの皆様ぜひ、この記事を元に良渚遺跡は果たして中国最古の王朝なのか意見を伺いたいと思います。
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>長江文明の良渚遺跡群で待望の城壁跡が発見された。
2007年12月3日、中国浙江省(チョーチアン省)杭州の良渚遺跡群で4300年以上前の巨大な城壁跡が発見されたと、中国共産党機関紙「人民日報」が伝えた。城壁内部の面積は約290㎡におよび、同国内で発見された最大級の新石器時代の集落跡と見られている。今回の発見により、同遺跡群は中国最古の国家である可能性が出てきた。
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posted by tano at : 2008年01月15日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2008.01.13

日本人の起源は北東アジアと判明!?

ゲノム解析で明かされる人類史の謎
ー人類史の起源は北東アジアと判明ー
これまで日本人の起源は旧人(縄文人)系と、北東アジアからの渡来人系との混血からなるという二重構造説が有力でしたが、最新のゲノム解析によると日本人の3集団はいずれも北東アジアに起源を持つということが判明したそうです。
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posted by ryujin at : 2008年01月13日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2008.01.11

縄文~弥生~現代の骨格変化:肉体破壊への道

考古の世界では、よく人骨が出土しますね。僕自身の実感ですが、この人骨を初めとする出土品というものから、どのようなことが得られるのか 考古素人の自分にとっては、なかなかその辺が構造化できていません
そんな迷いの中で、たまたま人骨に関する面白い説があったので、今日はそれを紹介してみたいと思います。
現代にも警笛を鳴らす、面白い説であると思います
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日本人の骨格は、2回劇的に変化している
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posted by sawatan at : 2008年01月11日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2008.01.10

縄文土器に挑戦!No.1

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 前投稿の『土器の起源を探る』はなかなか興味深い内容でした。
縄文時代の象徴でもある『縄文土器』は様々な形をしていてとても魅力がありますね。
穀物を貯蔵する器、煮炊きに使う器、食物を盛り付ける器、水やお酒を飲むための器など生活に必要なものとして作られた器から、どうやって作ったのか、何に使うのか理解しがたい器まで多種多様です。縄目をつけた文様と装飾性の強さにもドキッとさせるものがあります。
 この魅力に取り付かれた私としては縄文土器を実際に作ってみたいと言う思いが沸いてきました。縄文人の暮らしや食生活を支えた土器づくりを通じて、昔の人たちの知恵や文化が理解できるようになれば様々な「縄文の疑問」の答えに近づけるのではないだろうか。
と言うことで「火焔土器」に挑戦してみたいと思います。 
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posted by mukai at : 2008年01月10日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2008.01.09

土器の起源を探る

縄文時代を勉強していく中で、土器の起源について興味がわいてきたので、少し調べて見ました。
土器の起源については、新たに古いものが発見されるたびに、更新されていく状況にあるようですが、現在、世界最古の土器と言われているのは、中国で発掘されたもののようだ。
 
 
>中国における土器の起源については、暦年代2万~1万8000年前の最終氷期最盛期後半にまでさかのぼりうるものが発見されている。広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大龍潭遺跡では暦年代2万年前にまでさかのぼる土器が、さらに江西省万年県仙人洞遺跡・吊桶環遺跡、湖南省道県玉蟾岩遺跡(写真1)からは暦年代1万8000~1万7000年前にさかのぼる土器(写真2)が発見されている。世界最古の土器はこうした長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万~1万8000年前に誕生していたとみなしてよいであろう。
http://www.jiid.or.jp/files/04public/02ardec/ardec29/key_note3.htm
  p27%E7%8E%89%E8%9F%BE%E5%B2%A9%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%9C%9F%E5%99%A8.jpg
<玉蟾岩遺跡から発見された最古の土器>
>一方、日本列島北部からシベリア極東地域においてもロシアのガーシャ遺跡やフーミ遺跡、さらには青森県大平山元遺跡、中国河北省虎頭梁遺跡などから、1万6500年前にさかのぼる土器が発見されている。
 
 
さらに、日本国内に目を移すと、先の青森県大平山元遺跡(16500年前)の他、福井洞窟(吉井町)の隆線文土器や佐世保市瀬戸越町の泉福寺洞窟遺跡(12000~13000年前)の豆粒文土器が発見されている。
http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kotohajime/054.html
このように、南方の中国と北方のシベリアから土器が発見されていることと、日本国内においても、九州や青森といった南と北から土器が発見されており、土器の使用初期段階とは言え、結構広範囲にわたって分布していることが分かる。
寒い気候でもあった北方からも土器が発見されているが、まだ氷河期終盤の時代でもあり、寒い時代に使用された土器は、一体どのような使い方をされていたのだろうか。
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posted by yuyu at : 2008年01月09日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2008.01.08

洞窟から遊動、そして定住へ

未分類

漁撈採集民族だった縄文人。
彼らは、洞窟をでたあと、どのようにして定住化を図ったのでしょう?
弓矢の発明により防衛力が飛躍的に増加したとはいえ、洞窟を出るというのは、危険を伴う大きな決断が必要だったのではないでしょうか?
今回は、この問題を追及してみたいと思います。
       北極星と遊動から定住への変化より
中心点としての、動かない北極星の発見は、生活そのものに劇的な変化をもたらすことになる。
旧石器時代の行動様式は、遊動と移動の繰り返しだった。
ところが、北極星の発見は、運動と静止を再発見させることになる。

世界はぐるぐる回りながら北極星に向かっていく。そのように理解されたようだ。
sekai11.gif世界がそのように機能し、つくられていると理解すれば、人間もそのように行動しなければならない。
遊動と移動では、運動に偏る。
静止がなければ、ならない。
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posted by naoto at : 2008年01月08日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2008.01.07

漢民族の正当化観念“中華思想”の歴史

こんばんは、etoです。今年もよろしくお願いします。
以前、「中国文明のなんで?」にて、“なぜ中国人は自己中=個人主義が強いのか?”というテーマをあげ、いくつかの書込みをいただきましたが、今回は“中華思想”について勉強しましたので紹介します。
●中華思想を平たく云うと?
「中華思想」の「中華」ですが、これは「中」と「華」からなっており、「中」は「世界の中心」を意味し、「華」は「夏」-支那史上初の世襲王朝「夏王朝」を表し-転じて「支那」自体を意味しています。つまり、「中華」とは、世界の中心である夏(華=支那)と言った意味なのです。
「中華思想」では、支那の周辺諸国は「野蛮な異民族」とされ、その地理的(方位的)所在に合わせて、東夷(とうい-朝鮮・日本)・西戎(せいじゅう-チベット・中央アジア)・南蛮(なんばん-東南アジア・インド)・北狄(ほくてき-満州・モンゴル)に分類されています。(以上、リンクより引用しました。)
●どのように中華思想が形成されたのか?
中華思想は春秋時代に形づくられたとされる。そして、その形成には漢民族の形成と周の文化が大きく関連している。
●では、漢民族はどのように形成された?
紀元前二二一年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返した。そして、この興亡の中から漢民族が形成された。すなわち、漢民族とは、諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「夷」「戎」「蛮」「狄」の子孫であり、夏・殷・周もこれら夷狄によって作られた国である。
そして中華思想は、周王朝の実態が弱まり、権威が薄くなった春秋時代に生じたが、その時代は漢民族が前から引き続き、さまざまの民族の血を取り入れて構成されつつある時代でもあった。ところが、政治的に周王朝の実態、権威がなくなっても文化的まとまりをもってきた漢民族は、周王朝の存在を否定するものではなく、たとえ形だけになっても周王朝の権威を尊重していた。
●周の権威がなくなった後も、周を尊ぶのは何故か?それが、周の文化の中心である徳や礼のためであると考えられる。そして、中華思想では特に「礼」が大きく関係している。
●周の社会システムにおける「礼」の役割とは?
周王朝の最大の特色は、周室と諸侯、諸侯と群臣とが周室を中心にした巨大な分節社会(封建制)を形成していることであり、しかもこの社会は、同血族社会ではなく、異性の者が分封されていたこと。さらにこの社会は、周王―諸侯―氏(卿・大夫)……と下部に至るに順って、即ち、周室を本とし、その分派が末端に及ぶに順って、その所有する財産(例えば領土面積・人民数など)が次第に逓減する所に在る。
 
周において、国の秩序を守るために政治の力や刑罰によって規制するのではなく、「礼」を重んじることで、人民のほうから近づいて来ると考えられていることがわかる。周時代における「礼」は、分節社会(封建制)の秩序を構成するために重要な役割をしていた。
●儒教における「礼」とは?
春秋時代、周の文化を再現することを理想とした人物がいた。それが孔子である。
『孟子』滕文公上に、(吾夏を用て夷を變ずる者を聞く。未だ夷に變ずる者を聞かざるなり。)とある。ここには明らかに華・夷の差別が存在している。華・夷の別の出現、これが、中華思想が周を経て、春秋時代に形成されたと考える理由である。
周の時代、「礼」は社会構造の秩序を構成するものであった。それが、儒家の中では華・夷を区別する基準になっているのである。しかも、ここで重要なことは、華・夷の差別が種族的なものや血族的なものではないことである。すなわち、夷も華の「礼」を身につければ、華の仲間入りができるのである。
中華思想の特質について、地理的・文化的な要素から自国を世界の中心とする考え方は、中国以外の国(バビロニア・インドなど)にも存在していた。しかし中国には、他国とは明らかに違う要素が存在していた。それが、道徳的政治思想・王道政治という要素であり、この考え方は、他の国には見られないものである。
●中華思想とは?
中華思想は漢民族の形成と大きく関わっていた。つまり、中華思想は漢民族の持つ思想であると言っていいだろう。その漢民族を世界の中心とし、他の周辺民族を「東夷、西戎、南蛮、北狄」と分けて蔑視することが中華思想である。そして、中華思想における差別は地理的なものではなく、文化的なもの(礼)である。
中華思想の一面である保守排外の傾向は、「我々は世界の中心である」とする中華の自負心・自尊心が傷つけられた時に現れる。そして逆に、国家の自負心・自尊心が傷つけられる事がない時、開放博愛へと傾く。中華思想の保守排外の傾向が強いとき、自国と「夷・戎・蛮・狄」の差別は強烈になる。そして、開放博愛の傾向が強い時、夷狄との婚姻・盟約が行われる。簡単に言えば、自分が危険だと思ったならば自分を守り、自分が安全だと思ったならば仲良くする。こう考えると、中華思想はなんとも単純なもののように見えてくる。
漢民族が形成され、日常生活において礼の考えが重視され習慣となる。その漢民族の習慣は周辺の国とは違うものであった。自分と他者との文化の違いを見ただけならば、周辺の国と友好関係を保つことができたのかもしれない。しかし、周辺の国が中華を圧迫する。その時、自己を守る必要が生じた。そこで、自らの文化を自らが尊いとする事で、周辺国家との格差を作った。そこで生まれたのが、「夷・戎・蛮・狄」の存在だった。ここに中華思想の二面性の完成を見る。
昔の人が、自分の住む地域を「中心」と考えるのは自然であろう。中華思想は、簡単に言えば自己防衛の手段だ。攻められるから闘い、平和であれば闘うことは無い。ごく単純なのだ。
(以上、「清朝の中の中華思想」より引用しました。)
★簡単にいえば中華思想とは、自民族(漢民族)を第一とする正当化観念であり、周時代の支配体制における成功体験を母胎に、「礼」という序列規範を中心観念として春秋時代に形成されたもの、と云えるのでしょうか。
さて、気になったのは、>夏・殷・周も夷狄によって作られた国である<という点で、王朝成立以前の古代中国において、東夷、西戎、南蛮、北狄の諸民族がどのようにせめぎ合っていたのでしょうか。次回は、中でも西戎(羌族)の歴史について調べてみたいと思います。 (by eto)
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posted by nishipa at : 2008年01月07日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2008.01.06

中国文明:戦国時代への起点③=【番外編】敵をつくる観念

戦国時代の外圧を調べている中で、興味深いネタを見つけました
古代中国では、自国以外の周りの国あるいは部族を蔑称で呼んでいた…
こんな図解がありました
Chuuka.jpg
「夷」ウィキペディアより
確かに、この蔑称は中国の歴史書にも度々出てきます。
ちょっとした気付きでしたが、投稿してみたいと思います。
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posted by sawatan at : 2008年01月06日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2008.01.06

中国文明:戦国時代への起点②=春秋:遊牧部族による侵略の圧力

前回、中国文明:戦国時代への起点=西周王朝の衰退過程にて、周王朝の衰退過程を国の内部から分析しました。では、この時代の外圧は
「周室東遷の背後の北方民族の圧迫」古代中国 貝塚茂樹・伊藤道治著 講談社学術文庫より
春秋時代に、遊牧部族の侵入 😈 が本格的に始まったようです
byさーね
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歴代王が苦戦した屈強 の匈奴 😈
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posted by sawatan at : 2008年01月06日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2008.01.05

184年黄巾の乱後、中国人口の9割が死滅し、華北の人種が入れ替わった

未分類

 黄巾の乱は後漢の終わりごろ184年、道教の流れを汲む太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。
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posted by ihiro at : 2008年01月05日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

 
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