2007.12.24
交易文明トランス・エラムの商人がインダス文明を形成
古代メソポタミアで重宝された石にラピスラズリという石があります。瑠璃色のきれいな石ですが、この石を原産地のアフガニスタン北東部から、メソポタミアに運ぶ道が「ラピスラズリの道」と呼ばれています。その道は、ラピスラズリだけではなく、金・銀といった貴金属が運ばれたようです。
ラピスラズリの道 ヘラート/アフガニスタン ラピスラズリ(瑠璃)の原石
写真は(ラピスラズリ「天空の破片」より)
この道は、トランス・エラム文明と呼ばれる商人都市の交易ネットワークであり、このネットワークに連なる形でインダス文明や、海上ルート上にペルシャ湾岸の古代交易都市が開発されていったようです。
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posted by ihiro at : 2007年12月24日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.23
アステカの農業
アステカ文明では、よく生贄や戦争がクローズアップされます。このブログでも結構取り上げていますよね。そして最近では、戦争の起源なんかも、議論されました。物の本によれば、戦争の起源を農耕の発生に求める記述も多いように感じます。農耕が始まると、農産物の蓄積ができ、富の蓄積が戦争の原因になるという感じです。聞き流してしまえばそれほど疑問を感じないんですが、ちょっと立ち止まって考えると、なんとなくしっくりこないんですよね。
食物の蓄積ができるってことは「豊か」になってきたってことですよね。豊かさが戦争の引き金なのか、はたまた足りないことが戦いのきっかけなのか・・・・
そこで、まず手始めに、アステカの農業に着目して見ようと思います。とうもろこし、サツマイモ、じゃがいも、トマト、唐辛子など代表的な食物の発祥地はなんと中南米・・・アステカの人たちは、なにをどう作り、どんな食生活をしていたのかから紐解いていくことにします。
posted by hiroshi at : 2007年12月23日 | コメント (2件) | トラックバック (1) TweetList
2007.12.21
縄文:なんで子を大切にしたか?
縄文人は子供が亡くなった時 😥 大人とは別に、住居の近くなどに埋甕したそうです
逆位底部穿孔埋甕(うめかん)
住居の入口に逆さに埋められていた埋甕。不思議な文様がほどこされ、底には植木鉢のような穴が開けられている。内部から人骨は発見されなかったが、ミニチュア土器や土製円盤が発見されたものもあることから、赤ん坊の遺体を入れたという仮説が有力である。⇒出典
子を大事にした縄文人の想いが伝わってくる…子供への虐待や子育て放棄が横行する現代社会にとって、学ぶべき認識だと感じました。ぜひ読んでみてください 😮
byさーね
応援よろしくです
posted by sawatan at : 2007年12月21日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.20
「奥深き縄文ワールド」第3弾
縄文ワールド第3弾です
今回も縄文アートの奥深さを堪能下さい
「動物土偶①」
クリックお願いします
posted by ryujin at : 2007年12月20日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.18
山菜と日本人
こんばんは~ みつこ 😀 です。
さて、早速ですが、、、みなさん
これ なんだかわかりますか~?
はい、そのとおり、”つくし”です
今日は日本の野菜の元祖?! 山菜 について調べてみましたので、報告しまーす!
ところでみなさん、山菜っていくつ名前を挙げられますか?
みつこは、つくし、ぜんまい、みつば、ふきのとう、、、これくらいしか知りませんでした
山菜っていろーんな種類があるんですよ!今だって里山には生えてたりします
さて、クイズ。次の写真の山菜はなんでしょう~???
答えは、ポチっと応援の後で
ありがとうございます
posted by mituko at : 2007年12月18日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.16
中国文明:戦国時代への起点=西周王朝の衰退過程
以前、etoさんが投稿された「中国文明のなんで?」の疑問。
”戦国時代、一度に大量の学者(諸子百家)が発生したのはなんで?”
恐らく、戦国時代に突入したことが、彼らに活躍する場を与えたという直感があるのですが、
では、戦国時代に突入したのはなんで?
調べてみると、どうも西周王朝の衰退にその起点がありそうです。「古代中国 貝塚茂樹・伊藤道治著 講談社学術文庫」の中で、こう述べられています。
「この新しい動きは春秋時代にわたって徐々に進行し、時代を転換させるのであり…」
byさーね 😮
西周王朝時代の中国地図…実は、これだけ国があるんですよね。
しかも、戦国時代には実は200も国があった
応援よろしくです
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posted by sawatan at : 2007年12月16日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.15
中国への仏教の普及
シルクロードから中国に伝わったものに「仏教」があります。
今回は、中国への仏教の普及を調べてみました。
yokoyamaさんのホームページ 世界史ノート 六朝時代の文化から、紹介(引用一部省略)します。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/53-china13.html
🙄 中国にはいつごろ「仏教」が普及したのだろう?
魏・晋・南北朝時代に、中国において仏教が社会一般に普及しました。
仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67)、二人のインド僧が中国に仏教を伝え、洛陽に白馬寺が建てられた。」とされてきましたが、最近は「紀元前2年に長安の前漢の朝廷へ大月氏王(クシャーナ朝)の使節がやってきて、仏陀の教えについて語った。」という記録から、年表等にも前2年と書かれています。いずれにしても紀元前後の頃に西域から伝えられたと考えてよさそうです。
しかし、最初の頃は一部の人々の間で外国趣味として扱われたか、シルク・ロードを通ってやってきた西域の人々に信仰されていたにすぎなかったはずです。
後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱・戦乱が続くどうしようもない状況のなかで人々は否応なしに死について考え、救いを求めました。こうした状況の中で仏教が人々の心を捕らえ、4世紀後半から民衆の間にも広まっていきました。
posted by norio at : 2007年12月15日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.13
礼文島の民は三内丸山から流れてきた!?
縄文時代に市場取引はなかった。これは正しいと思う。
しかし一方で三内丸山にあるように多くの物資の移動は行われてた。
また、3500年前の礼文島では船舶遺跡と呼ばれるようにヒスイや琥珀など多くの各地の名産が集まっており、逆に貝のアクセサリーをアスファルトと交換にサハリンを越えて大陸へと運んでいた。
それらの物資の移動を一言で交換市場と対比させて贈与と呼んでいいものだろうか?
以下はるいネットで扱われている市場と贈与の定義である
【市場】交換取引は、武力闘争(およびその帰結たる身分制度による私権拡大の封鎖)からの抜け道として登場した。それどころか、最初に交換関係が登場した動機は、額に汗して働くよりも、(相手にこの品物が大きな可能性を与えてくれると信じ込ませることさえ出来れば)交換によって得る益の方が、ずっと大きいからである。
実際、古代市場も、女の性的商品価値を一層高めてくれそうな宝石や絹や毛皮を主要な交易品として、拡大していった。(なお、近世→近代も、呉服や毛織物やレースが起点になる。)それに対して日常の主食品(米や麦やイモなど)に対しては、その様な幻想的な可能性など描き様がない。
【贈与】共認原理に基づく友好の証
・他集団との接触によって生じた緊張圧力を相互の贈与によって回避。
・双方とも私有意識・自集団第一の意識は存在せず、友好の証として各々の集団が最も貴重と考える品を交換条件なしに贈与し合う。
礼文島の広域交易を贈与と呼ぶべきなのか市場の萌芽なのか・・・それとも・・・。
今日は縄文時代中期以降に頻繁に移動した物資の流れ=交流とはいったいなんだったのか?について徹底追求してみます。
posted by tano at : 2007年12月13日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.11
森の民にとっての精霊
漁撈・採取を生業としてきた縄文人ですが、彼らの活力源でもあった「精霊」とは、どのようなものだったのでしょう?
今回は、ボルネオの先住民を通じて、縄文人の精霊観に迫ってみたいと思います。
森をめぐる直観【参照】
同じボルネオ島の先住民でありながら、焼畑稲作民カリスと狩猟採集民プナンの森に対する態度は、ずいぶんとちがう。
カリス人は、夜と森をひどく畏れている。夜と森には、精霊が跋扈するからである。精霊は、人を、人の魂を魅惑したり、誘拐したり、攻撃することを方向づけられた存在として知られている。魂が精霊との関係の諸相に入ると、人は病気になったり、死んだりするとされる。夜、一人で歩くことができるのは、精霊と戦うことができる「バリアン」と呼ばれるシャーマンくらいのものだと、カリスはよくいう。森のなかを歩いて隣村にいくときには、カリスは、数人で連れ立って歩いてゆくことが多い。森のなかで会った人が無言であることを心配する。無言の人物は、精霊の仮姿であり、出会った人(たち)は、近い将来、厄災をこうむるはずだ。森のなかでは、精霊が跋扈しているので、食べ物を食べないし、食べ物に関わる語彙は、別の言葉に置き換えなければならないとされる。食べ物や飲み物に対する決まった作法を怠ると、魂が精霊に捕らえられて、病気や死に至ると考えられているからである。
そのように、カリスの人びとに深く浸透する精霊感覚。その延長線上に、彼らは、人間と自然の関係を、人間と精霊・神の関係へと置き換えて捉えているように思われる。彼らは、自然からの純粋な恵贈(米、森林産物、獲物・・・)を、神や精霊からの贈り物へと置き換えて、観念しようとする。それは、例えば、開墾、火入れ、収穫などの焼畑の作業を開始する前に必ず催される、精霊を呼び出して食べ物と飲み物を捧げる見返りに収穫をもたらすように祈願する儀礼において、顕著に見られる。祖霊や地縛霊などの精霊こそが、収穫と安寧をもたらす存在として観念されるのである。
マオリ人は、「ハウ」という概念を持つことで知られる。それは、「人にだけ憑くのではなく、動物、土地、森、そして村の家にさえ、憑いている。だから森のハウ、生命力、ないし生産性は、それ独特の祭式によって、きわめて慎重に保護されなければならない」とされる。
それは、マオリ人が生み出した、自然の恵みの根本原理とでもいうべきものである。モースが、『贈与論』のなかで、マオリ人にとって、贈り物には、贈り手の「ハウ」が憑いていて、つねに、その贈り手に帰りたがると説明していることはよく知られている。ところが、「ハウ」の本来の意味とは、「ハウ」が、マオリ人がつくり出した「概念」であり、そのような概念としての「ハウ」が、人間に与えてくれる贈与というものを想定して、人間が、儀礼などを行って、返礼をするということなのである。
自然からの純粋贈与、自然との交渉を「ハウ」という概念を用いて捉えようとするマオリ人のやり方に照らせば、カリス人は、自然からの純粋贈与、自然との交渉を、人間と精霊との交渉へと置き換えた上で、それを操作しようとしているのだと見ることができるのではないだろうか。そこでは、精霊や神こそが、特大の価値を与えられることになる。
他方で、プナン社会には、上のカリス社会とは、たいへん異なる森への態度が観察される。プナン人は、森を、精霊が跋扈する場として、畏れの対象として知覚するということは、ほとんどない。彼らは、今日に至るまで、狩猟や採集など、森に重度に依存しており、森は恐怖の対象ではなく、むしろ、熱帯の灼熱から離れて、生きるための糧と清涼を提供してくれる、生の場として意識されている。
さらに、プナン人は、カリス人のように、人間と自然の関係を、人間と精霊・神との関係を通して理解しようとするようなことはない。精霊や神こそが、人間に恵を与えてくれるというふうには、考えない。かといって、マオリ社会のような、自然の恵の根本原理のようなものを幻想して、それに対して、返礼を行ったり、あるいは、感謝の気持ちを表わしたりするようなこともない。わたしは、プナン人たちが、いったい自然からの恵に対して、どのような意識をもっているのかについて、いろいろと調べてきたが、プナンには、自然の恵に対する明白な意識がないということが、彼らの自然観の大きな特長であるというようなことしか、これまでのところ分からない。森に対して、自然に対して、動物に対して、感謝や祈りを唱えるということは、わたしが知る限り、プナン社会では行われていない。
カリスの人々の精霊は、観念操作のたまものであり、言葉は悪いが、「霊感商法」につながるような感覚があります。
一方の、プナン人の精霊=自然観は、極めて朴訥です。
彼らは、どのように、感謝や祈りを表すのでしょう?
知りたいと思った方は、応援よろしくお願いします 🙄
posted by naoto at : 2007年12月11日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.11
人類にとって戦いとは
戦争の起源がホットなテーマになっていますね。私もちょいと読んだ本を紹介します。
人類にとって戦いとは
1.戦いの進化と国家の生成
編者 福井勝義・春成秀爾 出版:東洋書林
この本が興味深いのは、国立歴史民族博物館が監修して、学際的な探求の成果を本にした点です。つまり、執筆者は、霊長類学、形質人類学、考古学、歴史学、文化人類学の領域にまたがっているのです。二人の編者は前書きで、「これほど学際的な視点から『人類にとって戦いとは』にアプローチした試みは、日本は無論、世界的にも私は知らない。」と自負しています。確かに、観念の世界の探求としてでなく、様々な視点からの事実を持ち寄り、そこから真実を探求しようとする試みは、可能性を感じるものでもあります。
で、結局何が書いてあるのってことですが・・・、皆さんもいろいろと論じているように、戦争が人類の本性のようなものなのか?それとも人類の歴史の中では、農耕などが発達してきたごく最近のできごとなのかという素朴な問題意識を学際的に探求しようというものです。
私としては、「戦争の起源」という議論が、いまだに答えの見つからない難しい問題なんだということ自体が、新鮮でもあります。確かに、自分でもそんなことを本気で考えたことはなかったですね。
まず、読むに当たって、この本では戦争の定義を「異なる政治統合を持つ集団間における組織的武力衝突」といったんは捉えていますが、それを考古学が対称にする遺跡など「もの」から検証していくのはきわめて困難であるとも言っている。様々な分野の事実と知見を集めてどこまで解明できるのでしょうか?
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posted by hiroshi at : 2007年12月11日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList