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2007年12月23日
アステカの農業
アステカ文明では、よく生贄や戦争がクローズアップされます。このブログでも結構取り上げていますよね。そして最近では、戦争の起源なんかも、議論されました。物の本によれば、戦争の起源を農耕の発生に求める記述も多いように感じます。農耕が始まると、農産物の蓄積ができ、富の蓄積が戦争の原因になるという感じです。聞き流してしまえばそれほど疑問を感じないんですが、ちょっと立ち止まって考えると、なんとなくしっくりこないんですよね。
食物の蓄積ができるってことは「豊か」になってきたってことですよね。豊かさが戦争の引き金なのか、はたまた足りないことが戦いのきっかけなのか・・・・
そこで、まず手始めに、アステカの農業に着目して見ようと思います。とうもろこし、サツマイモ、じゃがいも、トマト、唐辛子など代表的な食物の発祥地はなんと中南米・・・アステカの人たちは、なにをどう作り、どんな食生活をしていたのかから紐解いていくことにします。
ラテンアメリカ原産の作物~トウモロコシ・トマト・ジャガイモ・サツマイモ・タバコ・カカオが有名です。中でもアステカの土壌は肥沃だったようです。一方で、水源の獲得が重要な課題であり、アステカ人は水源の確保に智恵を絞ったのです。
カカオについては、こんな記述を見つけました(熱帯果樹写真館より引用)
カカオの学名の属名 Theobroma はギリシア語で「神」と「食物」の2語からなる合成語で、カカオが如何に貴重な作物であったかを物語っている。また種小名の cacao は中央アメリカのアステカ族やマヤ族が用いたカカオの呼称に由来している。
カカオの神々しい学名は、カカオ利用の歴史と関係している。カカオの栽培は約4,000年前には熱帯アメリカ(インカ、マヤ、アステカ文明など)で行われたと云われている。スペイン人のコルテスが遠征したアステカ帝国(現在のメキシコ)では、磨砕したカカオ豆ペーストにトウモロコシ粉、バニラ、香料を加えた「チョコラトル(”苦い水”の意)」が強壮剤として王族、貴族を中心に消費されていたと云う。
コルテスはアステカからスペイン王室にチョコラトルを伝え(1528年)、スペイン王室では約1世紀間チョコラトルを王室極秘飲料とした。その後、17世紀にはヨーロッパ諸国に広まり強壮長寿をもたらす医薬品として研究された。17~18世紀のチョコラトルは医薬品として扱われた。当初チョコラトルは、”Chocolatl”と記されたが、スペインでの印刷ミスより”Chocolate”になったとの逸話がある。
こんなのもあります。
メソアメリカの三文明の農耕文化の比較(「NHKスペシャル 失われた文明」より)
中南米原産の作物として、トウモロコシ、ジャガイモ、トウガラシ、トマト、カカオなどがある。特にトウモロコシは数千年にわたって品種改良が進められ、穂軸と穀粒も大きくなり、徐々に主食になっていった。
【インカ】
トウモロコシをはじめとする作物の栽培法はそれぞれの文明により異なり、広い耕地を確保できなかったインカの高原部ではアンデネスと呼ばれる段々畑を切り開き、高度差にあわせたひな段耕作を行っていた。
【マヤ】
樹木を切り倒し、その跡地を焼き払って耕地とする焼畑農業が行われ、土地の生産力を保つために、1年間耕作した後は3年休耕地として放置する休耕農法が行われていた。
【アステカ】
チナンパと呼ばれる浮き島を利用した集約農法が開発された。チナンパは、湖や沼地の岸近くにアシやイグサでできたいかだを浮かべ、その上に泥を積み重ねてつくられる。この泥には養分が大量に含まれているので、新しい泥を供給すれば、肥料をやらなくても、肥沃な土壌が常に確保できた。また、アステカの湖は水中に塩分を含んでいるものが多く、チナンパに塩水が流れ込んで作物を枯らしてしまうのを防ぐために、堤防や水門を築いて、常に新しい真水だけを供給できるように処置していた。アステカの人々はかなり早い時期から貯水槽や水路を建設して灌漑(かんがい)農業を行っていた。
一方、水源の確保に関しては、こんな記述があります。
先アステカの大水路網(S. C. カラン/J. A. ニーリー )(日経サイエンス2007年1月号より)
先史時代,メキシコ南部の谷や盆地に定住した農耕民族は,長い間,奇跡を待ち望んでいたことだろう。
彼らの住む谷や盆地は土壌が肥沃で,標高2000m弱という高地にありながら熱帯性気候のため農耕に適しており,年の半分に及ぶ雨期が豊かな実りを約束してくれた。この恵まれた環境にあるメキシコ南部はトウモロコシの原産地でもあり,アメリカ大陸の農耕の発祥の地となった。しかし,1年の残りの半分は雨が降らない乾期で,作物の栽培ができない。水さえ年間を通じて供給されれば年に2度,うまくすれば3度の収穫が得られるはずだった。
結局のところ,彼らは奇跡を待つのではなく,自らの創意工夫で問題を解決した。貯水と送水の設備を造る,壮大な土木計画だ。初めは小さなものだったが,しだいに規模が拡大した。例えば紀元前750年くらいからテワカン盆地に築かれ始めたプロン・ダムは長さ400m,幅100m,深さ25m弱の大きさを持つ。人々は約264万m3(東京ドーム約2個分)の土を人の手で一度に数kgずつ運び出し,貯水池を掘った。おそらく18世紀に至るまで,南北アメリカ大陸で最大の人工貯水設備だったはずだ。
それだけではない。古代の技術者たちは,メキシコにヨーロッパ人が渡来する2000年も前に,何千kmもの用水路や水道橋を造っていた。それらは湧水や小川から水を引き,分水嶺を越え,峡谷を迂回して急な斜面を下り,水を導く仕組みだった。巧みな工夫で建物や広場からも雨水を取り込むなど,実にさまざまな水源を利用している。
集水・灌漑設備の主なものは1500年から3000年近く,良好な状態で機能し続けた。このことが設計と構造の優秀さを証明している。さらに彼らが金属の道具も,車輪による運搬技術も,牛馬,ロバなどの役畜も持たずに設備を築いたことは特筆に値する。先史時代の水管理システムはメキシコのあちこちで発見されているが,テワカン盆地の広大な水路とオアハカ盆地の段々畑の灌漑網を調べれば,古代の技術者の工夫がよくわかるだろう。
これらからわかるのは、アステカは、農業も盛んでそのための灌漑技術もそうとう進んだものがあったということですね。ある意味、結構豊かだったのかもしてません。このアステカ人が好戦的とよく言われる所以は豊かさと関係があるのでしょうか?益々興味が沸いてきますね。
投稿者 hiroshi : 2007年12月23日 TweetList
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コメント
投稿者 ブログ de なんで屋 @東京 : 2008年1月16日 02:47
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投稿者 匿名 : 2008年4月18日 20:20
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