2008.01.04
世界の農耕のはじまり。
三内円山遺跡で栗の栽培の跡とか見つかっていますが、世界の農業がどこでどんなぬうに始まったのでしょうか。農業は重労働を強いられる割に安定収穫は補償されておらず、カロリーも飛躍的に高いわけでもありません。
アフリカ南部に住むサン(ブッシュマン)という狩猟採集民は、栄養価のひじょうに高い(コメの5倍のカロリーの)モンゴンゴの木の実が主食であり、その他数十種の植物を食べる。食料を手に入れるための労働は短時間ですむ。女性の採集は毎日1~3時間、男性は1週間狩りをすれば2~3週間はなにもしない。集団内の4割の人は食料調達の仕事をしていないが、食料は全員に分けられる。それでも必要な栄養量はゆうに上回り、栄養不足はみられない。
働いていない時間は余暇であり、娯楽を楽しみながら暮らしている。あるサンは、「ふんだんにモンゴンゴの実があるのに、何でわざわざ作物を植えたりしなければいかんのかね」と語ったという。
1万年ほど前、氷期が終わり気候が温暖になると、人口が急増して400万人に達したといわれています。現在からすれば圧倒的に少ないですが、狩猟・採集で支えられる人口の上限だったのかもしれません。
続きを読む前にぽちっと!
posted by tiwawa at : 2008年01月04日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.03
「奥深き縄文ワールド」アンコール版
今週は「奥深き縄文ワールド」のアンコール版です
縄文アートの不思議さが一層深まります。出典はこちらのサイトです
人面獣(いわき遠野出土)
クリックお願いします
posted by ryujin at : 2008年01月03日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2008.01.01
縄文暦14000年!? 縄文ー古代ブログへの期待
新年あけましておめでとうございます!
今年は西暦2008年。“縄文暦”というのがあるとするとおおよそ1万4000年くらいでしょうか?日本は欧米や中華文明に比べても断トツで長い歴史を紡いできたとも言えます。
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posted by ihiro at : 2008年01月01日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.31
縄文ー古代ブログの3年目の探求に向けて
こんばんは。 😀 管理人のtanoです。2007年も最後の日になりました。
縄文―古代ブログも早いもので開設してから1年と3ヶ月が経ちました。その間の記事数は既に397回、ほぼ毎日の投稿を実践してきました。非常に更新数の多いこのブログですが、その秘訣は複数名の持ち回りで記事を書いているという事なんです。
そこで今年最後の縄文―古代ブログの記事は少しその裏話(記事の製作現場)を紹介したいと思います。
この縄文と古代文明を探求しよう!というブログは当初るいネットの衛星ブログとしてるいネットへたくさん投稿している人たちを集めて結成されました。その時に25人の主幹メンバーが構成されています。
るいネットとは何?って事ですが、
旧い私権という秩序がガタガタになった現在、社会を統合する為の新しい秩序が求められています。るいネットはその為に必要な認識を求めて集まっているネット上の認識形成の場です。(詳しくはるいネットTOPページ、るいネットの趣旨をご覧下さい。)
その上でなぜ、縄文時代や古代文明を追求するのかという事になるのですが、現在の閉塞している社会がこの3000年間でできた私権社会の結果であるとしたら、その根本原因が私権社会の成立構造にあるのではないか、であるとしたら私権社会に移行する前の社会を解明する事が次の新しい社会を作るヒントになるのではないか?このような問題意識があります。
今年は応援どうもありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
posted by tano at : 2007年12月31日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.30
人はなぜ戦うのか
画像の確認
いよいよ今年もあとわずか!皆さんいかがお過ごしでしょうか?
今日は「人はなぜ戦うのか」日本考古学者・松木武彦さんの本から内容を抜粋して紹介します 😀
精神学的・考古学的観点からの分析の対比等、面白い内容になっているんで是非読んで下さい 😉
posted by dai1028 at : 2007年12月30日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.29
やはり勾玉は胎児!
mrranです。
まずはこれ↓読んでください。
>厳しい自然外圧に晒されていた彼らにとって、集団の存続=種の存続が第一。出産や医療の技術もほとんど無に近い状態で、子孫を残すこと自体、大変であったと思います。だからこそ、子を想う気持ちも一段と強かったのでしょうなんで子を大切にしたか?
>生まれた子どもが元気に健全に育ってほしいという願い、産んだ女性が健全であってほしいという願い、そして子どもが生まれたことを皆で祝い、女性をねぎらう状況がうかがえます。
>未だ飢えと隣り合わせの縄文人にとって、集団規模を維持することすら大変なことだったはずで、子どもが生まれなかったり、育たなかったりすることは集団にとっての死活問題です。だから集団の維持は最上位の課題だったはずです。 縄文人、再生への祈り
縄文人の子を思う気持ちがひしひしと伝わってきますね。 😥
そこで勾玉。勾玉は腎臓、三日月信仰からくる三日月説、説胎児をかたどった胎児説等様々な解釈が存在しますが、私は縄文人の子を思う気持ちの強さから胎児説が有力であると考えています。
いつものようにクリックお願いします。
posted by mrran at : 2007年12月29日 | コメント (6件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.28
三内丸山は語る(2)
前回記事に続き三内丸山は語る~久慈 力氏の著書からの紹介です。
その前に当ブログでこれまで扱ってた三内丸山の記事を紹介します。
【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?
縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた
巨大噴火がひき起こした円筒土器文化
三内丸山のピーク時の人口は一般に500人程度、未発掘地域も含めれば1000人とみられているが、久慈氏はこの数字を多すぎると見ている。住居跡は各年代によって建て替えられ、重層的に利用したと考えられ、極端には一時期の人口が50人に過ぎなかったと見る人もいるが、せいぜい、多く見積もっても200人から300人程度ではないかと思われる。1000人以上になると確固とした農耕社会のようなものが形成され、プレ国家のような組織がないと継続しないが三内丸山には明確な農耕もなければ当然国家と呼べる組織もない。
縄文集落では200人という規模ですら他に例がない。ましてや500人や1000人という規模は単にセンセーショナルな情報で先進性と巨大さを強調しすぎているきらいがある。
縄文時代の生活領域は単一集落で普通、数キロの範囲に及ぶ。三内丸山の生活領域はそれよりはもっと広い範囲を生活領域としていたと考えられ、概ね10キロ程度が生活圏ではなかったかと推察されている。
三内丸山全景
続きを読みたい方↓クリックお願いします。
posted by tano at : 2007年12月28日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.27
三内丸山は語る(1)
三内丸山は何が解明されてきたか?
このブログで何度か断片的に取り上げられてきましたが、意外と知ってるようで知ってない。
良質で最大の考古学資料である三内丸山について少し腰を落ち着けて記事を書いてみたいと思います。三内丸山研究の第一人者である久慈 力氏が各学者の三内丸山評を総括して1冊の本にしていましたので、2000年出版の本ですが、そこから抜粋して三内丸山についての現在明らかになっている基礎的情報、そこから推測されている縄文社会について何回かに分けて掲載してみます。
三内丸山の存在した年代
現在、三内丸山の存在した年代として国立歴史民族博物館の辻誠一郎助教授は2度ほど修正をしている。
5100年前~3900年前の1200年間(98年3月)
5800年前~4100年前の1700年間(99年3月)
現在まだ発掘中であり、その年代がさらに早まる可能性はあるが、2007年の現時点では99年に発表された年代が最も最新の情報である。
その頃の外圧状況を見てみよう
三内丸山分化が始まったとされる5500年前は、縄文前期の中ごろにあたり、終焉されたとされる4000年前頃は縄文中期の中頃にあたる。つまり、縄文文化の成熟期に三内丸山文化は花開き、実を結んだのである。この時期は平均気温が2度も高く、海水面が現在より5mから6mほども高い。いわゆる縄文海進の最盛期にあたるとされる。
中でも5500年前は最も気温が最も上昇し、落葉広葉樹が繁殖し、陸奥湾が内陸まで侵入してきた時期である。山の幸、海の幸に恵まれた理想的な自然条件であった。現在はJR青森駅から4キロ内陸に入った三内丸山の地もこの頃は海岸線が集落から数百メートルの位置にあり、暖流と還流が交わる魚貝の宝庫に近接していた。また陸と海の間には海水と淡水が混じるラグーン(潟湖)があり、集落のすぐそばを沖館川が流れ、八甲田山系の森林の栄養分を運んでくる。
魚貝は豊富で、さば、ぶり、まだい、こち、さけ、にしん、いわし、アジなどの他くじら、いるか、オットセイなどの海獣類も捕っていた。カニやウニもとれる。植物系の食料はミズナラ、コナラ、クリの混交林が広がり、クルミ、トチ、クリなどの木の実、ニワトコ、ヤマブドウ、キイチゴ、ヤマグワなどの実、ヤマノイモ、クズ、ユリなどの根菜類がとれ、ヒエやクリの栽培もしていた。
イノシシ、シカなどの大型獣は少ないが、ウサギやムササビなどの小型の動物が捕れた。ガン、カモ、ハクチョウなども捕獲されている。動物性食料は豊かであったが、全体として植物性食料に依存していたと推察されているが、食糧事情は総じてかなり豊かであったことが想像できる。
周辺の地図
いざ、古代の青森へ↓ポチッと
posted by tano at : 2007年12月27日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.26
黒曜石の広がりは、交易か贈与か?
前回、 「弓矢の発明前夜、日本の黒曜石が大陸に運ばれた理由!」では、黒曜石によって縄文集団の生活が劇的に変化した、ことを書きましたが、では、黒曜石が産地から何百キロも離れたところで多く見つかっているのは、何故か?多くの考古学者は当時既に交易があったと述べていますが、本当に物流のネットワークが存在したのか?
るいネット「黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②」では、以下のような見方が提起されています。
>結論から言えば私は「贈与」によるものであると思う。
何故なら、まずこれだけの広域かつ多方面の広がりからみて、交易である事は考えにくい。何故ならば上記の物品(原石)が採掘できる場所は限られており、かつ仮に交易であれば、一般的に考えて特定の部族間でやり取りされるはずである。つまりこれだけの広域の広がりを説明できない。
逆に贈与であれば、潜在的な緊張関係のもとでかつ友好の意思を多方面に示す必要性が高く、広域に渡ることが説明がつきやすい。
●日本の代表的な黒曜石の産地
http://www.tiny.jp/~arugacom/suwakou/kokuyose.htmlより引用
今回は、黒曜石の産地と広がりについて紹介し、それは贈与か交易か?を探ってみたいと思います。
この先、知りたいっと思った方は、ポチッとお願いします!
posted by simasan at : 2007年12月26日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2007.12.25
縄文人、再生への祈り
😀 くまなです
前回の生きとし生けるものは循環している、という縄文人の世界観」で案山子さんから
「僕は縄文人やアイヌの人たちが生死を自然の摂理から学んで人は死んでもまた生まれてくると考えたのは微妙だなと思います。自然の摂理からいけば死ねば土に戻るわけで、土から生まれてくるのは植物でしかないからです。自然の摂理における生命の循環の発想とは食物連鎖であり、決して生まれ変わることではありません。」という意見を頂きました。
仏教でいう“循環”と縄文人の世界観は違うと思いますので、言葉としては循環ではなく“再生”の方がふさわしいかもしれません。それを今後、検証していきたいと思っています。
自然の摂理に対する意識のありようは、生死にどう接したかによく表れると思います。そこで、まずは縄文人の埋葬のやりかたから、縄文人の死生観に迫っていきたいと思います。
と思っていたら、さーねさんが、縄文:なんで子を大切にしたか?で、縄文における子どもの埋葬について記事をアップしてくれました。そこで、少し調べてみると、その中で語られている「胞衣(えな)」の埋蔵は、戦後まで縄文と同じように行われていたということがわかりました。※えな:胎児が生み出されたのち、排出された胎盤・卵膜など
胞衣(えな)信仰は、縄文と現代を繋ぐ習俗として、縄文の精神性を掴む糸口になるのではないかと思います。
興味を持った方は↓ポチッと
posted by kumana at : 2007年12月25日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList