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三内丸山は語る(1)

三内丸山は何が解明されてきたか?
このブログで何度か断片的に取り上げられてきましたが、意外と知ってるようで知ってない。
良質で最大の考古学資料である三内丸山について少し腰を落ち着けて記事を書いてみたいと思います。三内丸山研究の第一人者である久慈 力氏が各学者の三内丸山評を総括して1冊の本にしていましたので、2000年出版の本ですが、そこから抜粋して三内丸山についての現在明らかになっている基礎的情報、そこから推測されている縄文社会について何回かに分けて掲載してみます。
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三内丸山の存在した年代
現在、三内丸山の存在した年代として国立歴史民族博物館の辻誠一郎助教授は2度ほど修正をしている。
5100年前~3900年前の1200年間(98年3月)
5800年前~4100年前の1700年間(99年3月)
現在まだ発掘中であり、その年代がさらに早まる可能性はあるが、2007年の現時点では99年に発表された年代が最も最新の情報である。

その頃の外圧状況を見てみよう
三内丸山分化が始まったとされる5500年前は、縄文前期の中ごろにあたり、終焉されたとされる4000年前頃は縄文中期の中頃にあたる。つまり、縄文文化の成熟期に三内丸山文化は花開き、実を結んだのである。この時期は平均気温が2度も高く、海水面が現在より5mから6mほども高い。いわゆる縄文海進の最盛期にあたるとされる。

中でも5500年前は最も気温が最も上昇し、落葉広葉樹が繁殖し、陸奥湾が内陸まで侵入してきた時期である。山の幸、海の幸に恵まれた理想的な自然条件であった。現在はJR青森駅から4キロ内陸に入った三内丸山の地もこの頃は海岸線が集落から数百メートルの位置にあり、暖流と還流が交わる魚貝の宝庫に近接していた。また陸と海の間には海水と淡水が混じるラグーン(潟湖)があり、集落のすぐそばを沖館川が流れ、八甲田山系の森林の栄養分を運んでくる。
魚貝は豊富で、さば、ぶり、まだい、こち、さけ、にしん、いわし、アジなどの他くじら、いるか、オットセイなどの海獣類も捕っていた。カニやウニもとれる。植物系の食料はミズナラ、コナラ、クリの混交林が広がり、クルミ、トチ、クリなどの木の実、ニワトコ、ヤマブドウ、キイチゴ、ヤマグワなどの実、ヤマノイモ、クズ、ユリなどの根菜類がとれ、ヒエやクリの栽培もしていた。
イノシシ、シカなどの大型獣は少ないが、ウサギやムササビなどの小型の動物が捕れた。ガン、カモ、ハクチョウなども捕獲されている。動物性食料は豊かであったが、全体として植物性食料に依存していたと推察されているが、食糧事情は総じてかなり豊かであったことが想像できる。

周辺の地図 [1]
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集落の様相について概観してみる。
三内丸山も前期―中期―後期では若干異なった様相を呈してくる。前期までは他の縄文社会とそれほど大きく異なる事はない。中期に入ると縦穴式住居の集落が50戸以上に増え、中央に大きな盛土ができ、独立柱建物が各所に建てられ、盛土の脇に、大型縦穴式住居と大型6本柱が建設された。

三内丸山の大型竪穴式住居は長さ10mを超えるものが10棟以上発掘されている。最大のものは長さ32m巾10mの楕円形で床面積は300平米に及び縄文時代最大の遺構である。共同祭祀場、共同住居、共同作業場などさまざまな推測がなされるがおそらく特定の目的ではなく多用途に使われたのだろう。
6本の大型掘立柱は直径2m、深さ2.7mで4.2m間隔で掘られている。
北側の端に立つ巨大木柱遺構は4千年前、つまり三内丸山社会の末期に作られているが、目的はいまだ謎である。幾つかの説があるが、天文台、見張り台、灯台説など諸説があるが、著者はシンボルではないかと言っている。特に縄文末期の外圧状況が高まったこの時期、集団の崩壊を食い止める為に巨大な神木を立てて儀式、祭祀を行う場所として作ったのではないだろうか?

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縄文的伝統のある長野県の諏訪大社の御柱祭りと関連づけて、これらの巨大木柱遺構が論じられている。「縄文人の時代」の中で勅使河原彰氏は次のように述べているが肯定できる考えである。
「この御柱祭は諏訪大社という神道の祭事であり、それをはるか縄文時代、しかも社会構成の違う時代の人々が残した時代の人々が残した遺構と、ただちにくらべることはできない。しかし、巨木の山だしから建立までに投じられる人手とそのエネルギーは、縄文のそれを彷彿とさせるし、何よりも祭事をとおして、一つの共同体という意識のもとに人々を結びつける重要な役割をはたしていたということでは相通じるものがある。」
1996年1月時点ではあるが以下が三内丸山で発掘された遺構件数である
住居跡 599、土抗(土抗墓含む) 848、埋設土器 803、縦穴遺構 12、独立柱建物跡 120、柱穴 11360、盛土遺構 3
続く 

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