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2007年12月30日
人はなぜ戦うのか
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いよいよ今年もあとわずか!皆さんいかがお過ごしでしょうか?
今日は「人はなぜ戦うのか」日本考古学者・松木武彦さんの本から内容を抜粋して紹介します 😀
精神学的・考古学的観点からの分析の対比等、面白い内容になっているんで是非読んで下さい 😉
■闘争本能説にみる戦争の起源
1932年、国際連盟からアインシュタインにこんな依頼がなされた。「今の文明で最も大事だと思われる事柄をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わして下さい」この時、アインシュタインが取り上げた事柄が『戦争』であり、意見交換した相手がフロイトだった。
当時、二人の見解は「人間には攻撃的本能があり、この性質を取り除くことは出来ないだろう」つまり、人間・更にいえば動物には闘争本能があり戦争はなくならないだろうというのが意見交換による二人の見解だった。
しかし、20世紀後半、人間の闘争本能・ひいては戦いという根源を解明しようとする作業が動物学・心理学の分野で進むなかで、「本能的な攻撃の衝動が動物にある」という説は疑問視する声が多い。攻撃もまた、生き延びて子孫を残すため、様々な選択肢の中の一つという説が有力なようだ。
つまり、闘争本能説では戦争を説明することは出来ないというのが一般的な説ではないだろうか。では、考古学的アプローチでみる戦争の起源はどうだろうか。
■考古学的アプローチにみる戦争の起源
考古学的観点からアプローチする時、どのようなものが出土したらそこに戦争があったと認定できるのだろうか?
国立民族博物館館長の佐原真氏は、戦いの「考古学的証拠」として次の6つを挙げている。
①武器・・・動物を狩るのではなく、人を殺める専用の道具。そしてそれから身を守る防具。
②守りの施設・・・バリケードなどをめぐらした集落や都市。
③武器によって傷つけられた遺骸。・・・剣ややじりによる傷の残っているもの。
④武器を備えた墓・・・戦士の身分や階層があったことの証明となる。
⑤武器崇拝・・・武器を飾りたてたり拝む対象としているもの。
⑥戦いをあらわした芸術作品・・・絵画やレリーフ、戦士の人形など。
③に関しては、武器以外での傷、個人的な争いによるものの可能性も十分にある。③以外の5つは、闘争が組織化されて集団間の戦いが始まり、社会の中で認知されて始めて痕跡として残り始めるもの。よって、上記③以外の証拠が発見された時にはそれをもって考古学的な「戦争の証拠」とすることが出来るだろう。
日本でいえば、上記の「戦争の証拠」は縄文時代には発見されていない。「農耕社会」が成立した弥生時代以降である。これは世界的に見ても同じことが言え、一部の例外を除いて「戦争の証拠」は農耕社会が成立した後に現れる。
なぜ農耕社会では戦争が起き、狩猟・採集社会において戦争はおきないのか?先ずはその違いを押えてみましょう。
■狩猟採集社会
縄文時代においても農耕は存在した。しかし、ドングリを採ったり、鹿やイノシシを狩ったり、魚・貝をとらえたりといった様々な食料源の一つであり、それ一つに依存できるような収穫源ではなかった。様々な収穫源がある一方、農耕に比べて安定しないというのが特徴。
■農耕社会
逆に農耕社会は森林を切り開き、農地を耕すことで、安定した収穫を得る。うまくいけば、人々が食べてもまだ余る食料の余裕が出来る。これはそのまま貯蔵されるにせよ、他の品物と交換されるにせよ富が生まれる。
■戦争の起こる要因とは?
この問いについて歴史学の世界では、
「戦争が起こる一つの要因として富が生まれることによる奪い合いが激化して戦争が生まれるということが考えられる。」という説が古典的になされてきた説明です。
これに対し人類学の観点では
「安定した収穫により人口の急激な増加、それに伴い広大な農地が必要となる。しかし、農地拡大には物理的な限界があり、そのまま人口が増えれば食料が追いつかない状況は訪れる。そこに台風や洪水といった自然災害が起これば人々はたちまち飢餓の危機におそわれる。農耕社会のような単一の資源に大きく依存し、環境の変化に対する耐性の少ない生産システムでは乗り切れない状況が戦争を引き起こした」と考えられている。
いずれにせよ、大陸では縄文時代の中頃に当たるBC5,000~4,000年には戦争が始まっており、縄文時代の終盤には中国は動乱のまっただ中であった。その余波はかなり早くから朝鮮半島にまで迫っていたことは考古学的にも明らかになっているが、縄文社会はそれを受け付けた気配がない。
固有伝統を守り続ける傾向の強い縄文の人々が稲作農耕社会を「拒絶」したことが、結果的にそれと表裏一体の関係にある戦争の導入をも阻む結果につながったのでは?ということも想定できそうです。
戦争の起源はいまだ明確に解明されていない領域ではあるが、考古学的アプローチから史実を紐解くことで確実にその起源へと迫ることできそうです 🙂
投稿者 dai1028 : 2007年12月30日 TweetList
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コメント
投稿者 さーね : 2008年1月13日 13:47
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonD.htm
↑東京都埋蔵文化財センター(東京都多摩市)主催の「土器作り教室」
みたいなものもあるようです。縄文土器の創り方だけでなく様々な情報が得られる可能性もあるので、機会があればアプローチしてみて下さい!
実際に土器を創ってみることで縄文人の心境にどこまで同化出来るか、楽しみにしてます!
投稿者 ダイ : 2008年1月17日 21:13
縄文人も試行錯誤を行い成果品にたどり着いたはず!
mukaiさんの試行錯誤の投稿期待しています!
投稿者 mrran : 2008年1月24日 22:14
さーねさん、
ダイさん、
mrranさん
コメントありがとうございます。
陶芸の先生に聞いたら、土を探すのはかなり手間が
掛かるようです。
粘土ならおおよそ使用できるようですが、土にあった温度を
探し出すのに試し焼きの繰り返しだそうです。
現在のような技術も縄文からの試行錯誤の蓄積から
出来上がっているのだと思います。
縄文人に同化し工夫思考でいろいろ挑戦してみます。
投稿者 mukai : 2008年1月24日 22:52
縄文土器をつくっている人はネット上でもおられますね。
しかし、縄文人の意識に迫るっ!っていうのは、なかなかないですよねー
まずは、縄文土器ってどうやってつくったの?あたりから調べてみると良いと思います。
期待してます!