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匈奴が広大な遊牧騎馬帝国を冒頓単于の1代で築けたのは何故か?

中国の統一はBC4000年~始皇帝のBC200年の登場までに多くの戦乱を経て実現されました。それに対して遊牧騎馬民族は、BC4000年辺りから遊牧部族が部族連合を形成しつつ広がり、BC1000年当りに遊牧騎馬民族となり、始皇帝の死後に以下のような秦より広大な地域を匈奴の冒頓単于が1代で統一しました。何故、冒頓単于の1代で統一出来たのか?を考えることで遊牧騎馬民族と中国の関係を考えてみました。鍵は「万里の長城」にありそうです。
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匈奴の拡大を「モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで」 宮脇淳子 刀水書房から引用します。
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以下引用①
(匈奴の拡大は、始皇帝の死後におこった項羽と劉邦の戦いの時期におこった。)東の遊牧民「東胡」を服従させ、西方では月氏を討って、モンゴル高原をはじめて統一した。その後の勢力は、東方は大興安嶺山脈を越えていまでは中国領になっている遼寧省、吉林省、黒龍江省一帯の狩猟民に及び、北方ではバイカル湖に、西方ではアルタイ山脈にまで及んで、モンゴル高原の遊牧民すべてを支配下に入れた。
引用終わり  ( )内は私の編集
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同じくモンゴル高原の様子を引用します。
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以下引用②
北方の草原は、決して豊かなところではない。漢北のモンゴル高原では年平均降水量は200mm程度で、冬には零下30℃~50℃にまでになる。
草もまばらにしか生えないので、一ヶ所に留まっていたのでは、家畜がすぐに草を食い尽くしてしまう。だから、人々は古来、フェルトで出来た帳幕に住み、水草を求めて移動する遊牧生活を送っていた。遊牧民は、一応自給自足の生活を送っている。夏は家畜の乳を主な食料とし、冬になる前に一定量の家畜を殺して、肉の保存食料を作る。衣服も毛皮やフェルトで作る。しかし、腹一杯なるためには穀物が必要だし、絹の肌着もなじめばずっと欲しい。それで、乳製品や家畜を、穀物や絹と交換しようとして南下するのである。
交換がうまくいかないと、遊牧騎馬民族は略奪に転じる。これが、中国史で怖れられる、北方の遊牧騎馬民族の襲撃の理由だった。匈奴が史上初めて遊牧帝国をつくったのは、秦の始皇帝が中国を統一したために、それまでのように、遊牧部族が個別に中国の農村を略奪することが難しくなったからだと私は思う。
モンゴル高原の遊牧部族の中でも、南方にいる部族程、中国製品を手に入れる機会が多く、それを交易にまわすことも出来て裕福になる。だから、北方から常に新たな遊牧民が南下し、南方の遊牧民はこれに襲撃されて、さらに南方か西方に移った。
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引用終わり
以下、「中国歴史奇貨居くべし」 [3]の中国的事件―特集― 秦:全国統一の道からの抜粋
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引用③
秦は西周時代、非子が周孝王に秦に封じ込まれたことに始まります。非子は馬の飼育を任じられたとされているので、たぶん秦は西方遊牧民族出身でしょう。ときには異民族にまぎれて、ときには中原に現れるといった民族でした。
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引用終わり
仮説ですが、引用②からは、モンゴルの北方の過酷な環境はそこに住む遊牧民に、その環境からの脱出⇒略奪による中国製品の入手⇒交易を通じて「裕福な生活」を追い求める「南下(中原)思想」を生起させたと思われます。
引用③からは、西方遊牧民である秦は遊牧民との交易から、北方遊牧民の「南下思想」の強さ(怖さ)を知っていた。だから中国を統一した始皇帝は中国史で怖れられる北方の猛威=「南下思想」を防ぐ為に万里の長城を築いたといえそうです。
しかし、万里の長城の構築は、その見方を変えれば始皇帝の「中国製品の独占」とも読み取れ、遊牧騎馬民族の交易の旨みを絶つことでその力を殺ぐことを意図していることも考えられます。よって、引用②の遊牧騎馬帝国成立の理由:秦の始皇帝が中国を統一したために、それまでのように、遊牧部族が個別に中国の農村を略奪することが難しくなったからだと私は思う。は、始皇帝の中国統一による「中国製品の独占」を、個別の部族毎で対応するのではなく、遊牧騎馬民族が一丸となり阻止する為。とは考えられないでしょうか?
略奪品を商品とした交易の道を絶たれることは、過酷な環境(外圧)に押し込まれる事を意味し、「南下思想」はそれを受け入れず、始皇帝の万里の長城構築による「中国製品の独占阻止」を共認軸とし、秦に対抗する為に遊牧部族連合は、縄張闘争の生き残りも賭けて遊牧騎馬民族帝国に皆が収束したと考えられます。このような共認(時代背景)があってはじめて冒頓単于が一代で統一を可能にしたのではないでしょうか。

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