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日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか?

 つい最近まで、といっても40年くらいまえまで、人がキツネにだまされたという話は、身近でごくありふれたものだったらしい。
 著者の内山節さんは、日本各地を歩き、土地の人から聞きまわり、キツネや動物にだまされた話を聞いたという。
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 キツネのだましのパターンは、買い物や、釣りの帰り道に人に化けたキツネに誉められていい気分で油断しているすきに、おかずや魚を取られてしまうものや、山に仕事に出てお昼のちょっとしたスキに弁当を盗まれたり、饅頭をもらってうまいうまいと食べていると、実は馬糞だったり、道に女性が立っていておかしなことになってしまったり・・・・・・・。身近で、どこか笑えるお話が多いみたいです 😀 。
 著者の内山さんによると、概ね1965年(昭和45年)あたりを境にして、ひとがキツネにだまされたという新しい話が発生しなくなるという。それは何故か?というのが本書のテーマらしいです。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」

 ところで人間たちがキツネにだまされていた時代には、だますわけではないが、人びとはいまよりもっと多くの生命を山の世界に感じていた。たとえば群馬県上野村の、私の家の近くには天狗岩という山がある。いうまでもなくそこは、天狗が住んでいた山である。カラス天狗という鳥もいた。頭に烏帽子を被り、小さな下駄をはいて飛んでくるカラスである。川には河童もいた。もっともそれらの生き物たちを架空のものとして退けてしまうのは簡単である。しかし、次のことは記憶しておいてもよい。
 上流域の川を歩いていると河原に大きな岩があって、その上に小さな社が祀られていることがよくある。
日本では、自然物自体が神として祈りの対象になることがよくあるが、修験道では霊山といわれた山自体が「御神体」である。大木が神として祀られていることも、水自体が「御神体」であることもめずらしくはない。
神が降臨して宿ったのではなく、自然の生命それ自体が神であり、その「生命」が岩や、水、山として現れているのである。ここには天から神が降臨し、その子孫が神々になっていった「日本」神話とは異なる神々の世界がある。
山ノ神、水神、田の神・・・・・村の世界はさまざまな神々の世界であり、それとどこかで結びつくさまざまな生命の世界であった。自分の生きている世界には、「次元の裂け目」のようなものがところどころにあって、その「裂け目」の先には異次元の世界が広がっていると考える人々も多かった。その異次元の世界に「あの世」を見る人もいた。
可視的な、不可視的なさまざまな生命の存在する世界、それが、かって村人が感じていた村の世界である。
それが、人々がキツネにだまされていた時代の生命世界であった。

(引用以上)
なぜ騙されなくなったのだろうか?
著者は、いろんな人に聞いたことを分類してあげている。要約すると大きくは以下5つぐらい。
①高度経済成長の時代になって、人は経済的な価値しか見えなくなった。
②科学的真理が唯一の見方とする合理主義→科学で捉えられない世界をつかむことができなくなった。
③テレビの普及 →与えられた情報のみを事実として受け取るようになり、自然の情報を読み取る能力が衰退した。
④教育の変化 →村の教育体系が崩れ、村の中で生きていくための多様な教育から、受験のための教育に変ってしまった。
⑤死生観の変化 →生と死は自然と共同体という包んでくれるものがあってこそ成立していたものだった。ところが、包まれているものとともにあった信仰が、個人を救済するものに変ってしまった。

 ぼくは1961年の生まれで、どちらかというと山あいの農村育ちですが、概ね1960年代に農村がすっかり変って行った感覚があります。そして小さい頃村の人々や、いろんな生き物に囲まれていたという感覚が確かにあった。この感覚を言葉で言うのは難しい感じがするけれども、1970年ごろから上記の変化①~⑤が一気に訪れた。そして・・・・・何か包まれていたと感じていたものが無くなった。そんな違和感をずっと持っていて、それが何かよく分からなかったのだけど、この本を読んで、おぼろげに見えてきたような感じがする。
 そして、その包まれているものの感覚が消えて、それまで気にしていなかった、自分とか、学校の成績とかが気になるようになった。(順番は逆かもしれない。)
著者はさらに

村という言葉は、伝統的には、人間社会を意味する言葉ではなく、自然と人間の暮らす社会をさしている。とすれば、動物もまた村のメンバーであり、共同体の仲間である。
 実際村人は、動物を見る多様な視線を並存させてきた。ある種の動物は、ある場合では害獣である。しかしその前に村に暮らす仲間で、ところがその動物は冬の猟期には狩猟の対象にもなる。その一方で人間以上の能力をもった生き物として尊敬され、さらに神の世界への道筋を知っている霊力をもっているとあがめられることもある。

このように述べていくと、人間と動物の関係が矛盾しながら重なり合っていることに気づかれるであろう。仲間だといいながら、猟の対象ににもする。
もちろん、生きるために、ときに動物から畑を守り、ときに動物を獲って食べたり皮を得たりすることは許される。なぜ許されるのかといえば、自然の生き物もまたちもまたそうしているからである

(引用以上)
 キツネにだまされる能力とは、自然界の万物を含めた世界≒共同体との交信能力のを失ったということではないかと思う。その共同体とは、人間の共同体(村落共同体)を母胎にしてその周囲をさらに超越して取り囲む世界。それらに全的に包み込まれていた世界なのではないだろうか?。
 その包み込まれた世界・共同体との交信(期待や応望)が、キツネとのやりとりという一例で現れてきていた。(なにもキツネにだまされるばかりではなく、キツネの恩返しだってあった。)
 村落共同体という母胎を失った人間は、それを取り巻く自然界も対象化できなくなり、個人的な視点でしか捉えられなくなってしまったのではないだろうか。
 そして教育や環境問題も、さらには自己中も、すべて個人課題でしかとらえられないことが、根本の問題であるということを問いかけているような気がする。
(by Hiroshi)

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