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聖徳太子の功績は捏造か

歴史家の中には、聖徳太子の実在を疑う人が少なくありません。その代表者が、大山誠一氏です。
大山氏は厩戸皇子(厩戸王)の実在は認めています。しかしその厩戸皇子が
1.冠位十二階を定めて、門閥主義を排し、有能な人材を登用した
2.十七条憲法を制定して、天皇中心の国家理念と道徳を提示した
3.小野妹子を隋へ派遣し、隋と対等な国交を開くことに成功した
4.『三経義疏』を述作し、蘇我馬子とともに国史の編纂を行った
という属性を持つ聖徳太子であったことを否定しています。要するに、厩戸皇子は実在しましたが、聖徳太子は実在しなかったということです。聖徳太子は、ヤマトタケルと同様に、『日本書紀』が捏造した、たんなる神話的存在に過ぎない。なぜなら、聖徳太子の実在を保証する、信頼に足る史料が何もないからだと言うのです。
今回は「聖徳太子の功績は捏造か」について調べました。
~永井俊哉ドットコムより抜粋引用しています。
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【遣隋使の責任者】

『隋書倭国伝』には、裴世清が倭王(天皇)と会話を交わしたことがはっきり書かれている。「大門(みかど)」は「大きな門」ではなくて、「天皇」と理解すべき。さらに、この時、倭王と思って言葉を交わした相手は、『隋書倭国伝』によれば「タラシヒコ」であるから、女性である推古天皇ではない。では、この倭王と称する謎の男は誰なのか。
候補は二人しかいない。蘇我馬子か聖徳太子かのどちらかである。『日本書紀』は、参列者に関しても詳しく述べているが、「皇子・諸王・諸臣」が参列しているのに、「臣」より上の「大臣」(蘇我馬子)も「皇子」より上の「皇太子」(聖徳太子)もいないということになっている。しかし、隋使謁見の儀のような重要なセレモニーに、この二人がともに姿を見せないということは考えられない。
いったい、遣隋使の責任者は、馬子ではないだろうか。2年後に新羅使が来日した時も、『日本書紀』の記事には、推古天皇と蘇我馬子大臣は登場するが、聖徳太子は登場しない。やはり、外交の主導権を握っていたのは、厩戸皇子ではなくて、馬子だったのだ。『日本書紀』に登場する「大門(みかど)」が馬子であることは、馬子の屋敷が「御門(みかど)」とよばれていたことからも裏付けられる。
ところで、なぜ馬子は、隋に対しては自分が大王だと詐称し、新羅に対しては推古天皇が大王であることを隠さなかったのか。それは、中国では、女性が天子となることが論外だったのに対して、新羅では、善徳や真徳といった女王が擁立されたことからもわかるように、女王に対する抵抗感は少なかったからだ。後に、唐の太宗は、新羅の善徳女王にたいして、女性を王にすると、周辺諸国から軽蔑されると警告している。日本を隋と対等な文明国として認めてもらおうとした馬子は、隋に対しては、女性が天皇であることを隠そうとしたのだ。もう一つの謎、即ち、当時の日本の天皇は、推古天皇という女帝であったにもかかわらず、隋側は、男王と記録している問題も解決する。

【冠位十二階の制定者】

冠位十二階であるが、実は、『日本書紀』にも、聖徳太子がこれを始めたとは書かれていない。「始めて冠位を行ふ」と主語なしの文で書かれている。冠位十二階という制度は、日本を訪れた隋の使者も言及していることから、当時存在したことは間違いない。では、誰が制定したのだろうか。
もし聖徳太子が、冠位十二階を制定したとするならば、なぜ、当時の最高権力者、蘇我馬子が官位を授与されなかったのかが説明できない。しかし、もしも蘇我馬子が制定したとするならば、自分で自分に官位を与えることはナンセンスだから、馬子が対象外になったことが説明できる。
馬子が冠位十二階の制定者であったことは、その動機からも説明することができる。厩戸皇子は、父が用明天皇で、母が欽明天皇の娘だったのに対して、馬子は、父が先祖不明の蘇我稲目で、母が当時すでに没落していた葛城氏の娘だった。厩戸皇子の血統が高貴だったのに対して、馬子の方は、かなり格が低かった。だから、馬子は相当な血統コンプレックスの持ち主だったと推測される。
馬子は、一方で高貴な血に憧れていたからこそ、娘を皇族に嫁がせ、天皇の外戚になろうとしたのであり、他方で、血統のランクがものを言う社会に反感を持っていたからこそ、冠位十二階の制度により、有能な人材を出自とは無関係に抜擢しようとした。これに対して、高貴な出自の厩戸皇子は、冠位十二階を制定する動機に欠けている。

【十七条憲法の制定者】

十七条憲法に関しては、『日本書紀』は「皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ」と、聖徳太子の作であることを明言している。だが、十七条憲法には、古くから偽作説がある。後の律令制度を先取りしたような規範が含まれていて、氏族制であった推古朝の時代にはふさわしくないからだ。特に、第十二条に登場する、大化改新以降の官制である「国司」が、問題視されている。
聖徳太子、即ち厩戸皇子は、強力な命令を有力豪族に対して発することができるだけの権力を持っていたのかどうかである。例えば、第十二条にある「国に二(ふたり)の君なし。民に両(ふたり)の主なし」は、推古天皇に勝るとも劣らない権力者であった蘇我馬子に対する当てこすりと受け取られかねない。実は中大兄王もこれと似たようなセリフを吐いている。中大兄王が大化の改新でやったように、蘇我氏の有力者を武力で排除でもしなければ、このような天皇親政の理念を口にできなかったのではないだろうか。
十七条憲法は、第三条において、天皇家とそれ以外の豪族との間には、絶対的な君臣関係があると主張している。曰く、「詔を承りては必ず慎め。謹しまざれば自らに敗れなむ。」 厩戸皇子は、これから有力豪族の支持を得て、天皇になろうとしているところである。それなのに、天皇になる前から、「自分が大王(天皇)になったら、お前たちに絶対的な服従を求める。命令に従わなければ、身を滅ぼすことになるぞ」と有力豪族たちに脅しをかけることができただろうか。そのようなことを言えば、天皇になれないどころか、命すら狙われかねない
聖徳太子は皇太子だから、天皇になることは確定していたし、摂政の地位についていたのだから、馬子以上の権力を持っていたのではないかと反論する向きもあるかもしれない。しかし、厩戸皇子は、摂政でもなければ皇太子でもなかった。『日本書紀』では、「よりて録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ」というように、「摂政」という言葉は動詞として使われており、地位を表す名詞としては使われていない。最初に摂政の職に就いたのは、藤原良房で、858年のことであり、それ以前には、摂政などという官職はなかった。また、立太子制度は、689年の飛鳥浄御原令において初めて採用された制度で、「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とす」という『日本書紀』の記述は間違っている。
厩戸皇子は、当時多数いた次期天皇候補の一人に過ぎなかった。そのような弱い立場にある厩戸皇子が十七条憲法を公表できたとは考えられない。十七条憲法は、『日本書紀』が編集されていた当時、支配的だった律令国家の倫理を、飛鳥時代に投射することにより捏造した偽作とみなすことができる。

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