現代人と天皇制について |
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2012年01月09日
弥生時代の解明4~神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立
シリーズ前回投稿では、弥生時代の墳墓をみることで、「弥生時代は階層化していなかった」との結論が得られました。さて、今回は、集団統合の祭祀の場として重要な「神社」を扱います。
神社というと、正月にお参りするし、(また、歴史的には天皇家と関係が深そうで)多くの日本人は、日本古来のものと思いがちですが、実は起源は大陸にあります。参照るいネット
そして、今回のテーマに繋がりますが、大陸由来である神社にも2系統の神社があり、中国(江南)系の神社と朝鮮系の神社があります。
出雲大社(上)と伊勢神宮(下)
上段の大きな注連縄があるのが中国(江南)系、そして下段の注連縄の無いほうが朝鮮系の神社です。中国(江南)系の神社には大きな注連縄があり、それは、蛇が絡み合いながら性交する様子を象徴しているといわれ、より原始的な神社信仰を象徴しています。(実際、神社信仰の「原型」は、江南地方起源とされています。)
前回投稿まで、中国・江南人が日本列島に渡来、大きな争いも無く、縄文人と緩やかに融合し弥生人が形成されていく過程がレポートされました。その後、現天皇家につながる朝鮮系渡来人がやって来て支配体制を確立することになるのですが、今回のエントリーは「中国系神社」「朝鮮系神社」の分布や歴史をみることで、朝鮮系部族による支配体制への移行過程に迫ろうと思います。
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出雲の国譲り
では、神社分析に入りますが、その前に、江南系弥生人の時代から、朝鮮系支配への移行の歴史はどのように考えられているか見てみます。(それを押さえた上で、後段で神社分析と突合せ、検証します。)
古事記や日本書紀を分析することにより、およそ以下のような、出雲系(江南系)から天孫系(朝鮮系)への転換があったと考えられています。古事記、日本書紀で「国譲り」とされている所です。(もちろん実際は、譲ったのではなく、武力を背景に譲らせたことは明らかと思われます。) 以下は出雲の国譲りとはより引用。
このように『出雲国風土記』では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。
これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。
もともと出雲を中心に江南系・出雲族(おそらく江南から朝鮮南部を経由してやって来た越人)が列島に広がっていた。そこへ、朝鮮系・天孫族(恐らく満州から朝鮮を経由して南下した扶余族)が入り日本を支配するにいたった、そのように考えられています。
中国系神社と、朝鮮系神社の分布、展開の歴史
では、いよいよ、日本における江南系神社、朝鮮系神社の分布とつき合わせ検証してみます。「八雲ブログ」に、記紀分析と神社分布を検証しており、そこから引用します。
結論から言えば、神社の分布は上記、「江南・出雲系→朝鮮・天孫系への転換」の仮説を裏付けるものになっています。
現時点での全国の神社の主祭神がどうなっているのかを調べてみました。「平成祭データ CD-ROM」は現在の神社の本社・末社の主祭神、配神、合祀などを検索できますが、今回は全体の傾向を見るということで、本社に祀られている神を主・配・合祀も含めた数でカウントしています。
合計ではアマテラス(天孫・朝鮮系)が11692社に対して、スサノオ(出雲・江南系)は9315社ということで、アマテラスが多いのですが、圧倒的に多いという訳ではありません。
さらに地域別で見てみると、アマテラスは東日本地区で強く、東北開拓が進んだ頃にはアマテラスが主祭神として扱われていたことが伺われます。ただ、関東地区ではスサノオが多く、武蔵國の開発には、出雲地区からの移民が多く携わったということが文献上にも見られるのですが、数の上からも伺えます。
注目すべきポイントその2は、伊勢すなわち三重県でのスサノオの神社の数です。伊勢といえば、アマテラスを祭る伊勢神宮がある土地ですから、当然アマテラスを祭る神社の方が多いと思われがちですが、結果は逆になっています。つまり、伊勢、三重県でもアマテラスを祭る神社である伊勢神宮ができる以前にスサノオが多く祀られていたと考えるほうが自然です。
さらに注目すべきポイントその3は、琵琶湖から西の地域でのスサノオを祭る地域の多さです。大和國と言われる地域である近畿地方において、アマテラスの神社よりもスサノオの神社が多く見受けられます。
歴史的にも、スサノオとアマテラスでは、スサノオ系の人たちが古くから近畿すなわち大和の土地を治めていたと言われており、アマテラス系の人たちが近畿を治めたのは後年になります。
日本書記・古事記が書かれた頃にはアマテラス系の人々が大和の地を治める時代になっており、それ以後はアマテラスを祀る神社が多く立てられたと推測されます。にもかかわらず、これだけスサノオを祀る神社が多いということは、日本書記・古事記に書かれた歴史とは異なり、日本はかつてスサノオすなわち出雲の人たちが日本という国を作り上げて行ったのではないかと考えられます。
以上見てきたように神社の分布は、記紀分析から導かれる中国系(出雲系)→朝鮮系(天孫系)の転換に完全に符合していることが分かります。私たちの日常の中にある「神社」からも裏付けられるということで、古代の大転換がすごくリアリティーをもって感じられてきす。
朝鮮系神社=天皇システム、すなわち徴税制度の確立
さて、このように、出雲系(江南系)から天孫系(朝鮮系)への転換により神社も朝鮮系のそれへと塗り変えられていきますが、それは神社の性質を根本的に変質させるものでした。
もとより、江南系→出雲系の民族は支配体制をもっておらず、集団統合は集団間を結びつける祖霊信仰=祭祀統合によって行っていました。そして、それを司る空間として神社が用いられました。
そして、天孫系・朝鮮系の転換に伴う神社の転換の本質は、祭祀統合の場でありながらも、序列を示す関係となり、大衆から徴税する為の地方拠点へと変質したという点です。
(なお、神社はもともと露天に鳥居があるだけの施設でしたが、おそらくこの頃、神社造りの「家屋」が生み出され、蔵→徴税拠点にも用いられるようになったと思われます。)
神道祭祀をつかさどる神祇官は、豊年祈願の祭りのほか、祈年祭や収穫を祝う新嘗祭を行うにあたって、まず全国の神社の神官を中央に集め、神に捧げ物(幣帛:へいはく)をした。その後、この捧げ物(幣帛)を地方の神官に配る。天皇が稲穂などの幣帛を、穀物の実りをつかさどる神に捧げるからこそ、神の加護を得られ、これを種籾として農耕に励むことで、豊作が約束される、というのである。言葉を換えると、捧げ物をしなければ豊作も約束されないわけだ。
るいネット「神社ネットワークから徴税制度へ」より引用
中央から地方へと広がる神社ネットワーク、あるいは徴税システムが整備され、中央のみならず地方諸国(の倉)にも、一定の生産物が蓄積されていく。神社や諸国の倉に貯蔵された生産物=米は、「貸し出される」ようになった。これが『出挙』と呼ばれるものである。
最初に獲れた初穂は神に捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。この蔵の初穂は、次の年、神聖な種籾として農民に貸し出される。収穫期が来ると、農民は蔵から借りた種籾に、若干の神へのお礼の利稲(りとう:利息の稲)をつけて蔵に戻す。
るいネット「徴税制度によって市場の基盤が出来上がる」より引用
当初の利稲は実際に農民からのお礼であったかもしれない。しかし、神社システムネットワークが整備され、そこから生まれた『出挙』は、やがて、律令時代には利息は50%にもなることもあったよう。高利貸しなみの租税です。ここに至っては根本的に変質したと言わざるを得ません。
支配を正当化するための神話
このように神社は、本来の機能に付加させた徴税機関となりますが、この転換はどのように成し遂げていったのでしょう。また、弥生人たちは朝鮮系による支配をどのように受け入れたのでしょうか。
そこで必要とされたのが、つまり、「国譲りの神話」ということでしょう。先にもおおよその構成を書きましたが、もう少し具体的にストーリを「スサノオと国譲り神話について」より紹介します。
所謂「国譲り神話」の中身、筋書きに関する事柄です。極々大雑把に「神話」を纏めると、まず、もともとカミサマの世界に住んでいたスサノオは、そこで、大変、乱暴な振るまいをしたので、神々が相談の上人間の世界(舞台は出雲)に追いやられた。
スサノオは毎年高志(こし)からやって来て人々を困らせているヤマタノオロチを退治し自分の娘にオオクニヌシという婿を迎えて(彼にオオクニヌシに成れ、と言って)国の運営をまかせた(国を譲った)オオクニヌシはスサノオの六世の孫であると言う前段(一度目の国譲り、スサノオからオオクニヌシへ)があり、続いて、肝心のアマテラスとオオクニヌシの「国譲り」に場面が移ります。
その理由は、誰が考えても唐突に思えるのですが、スサノオの姉であるアマテラスは、スサノオから国の運営を任され「出雲」に居るオオクニヌシに使者を送り、この国は、もともと私の子孫が治めるべきものである、だから、貴方は速やかに国を明渡すべきである。との要求を突きつけ、再三に亙って使者を送り続け、最終的には「武力」でオオクニヌシ(正確には、彼の子供たち)を屈服させ、その支配権を獲得するのです。
弥生人たちが信じていた神「スサノオ」を、カミサマではあるが、乱暴もので人間の世界に追い出された「駄目な」カミサマと描いているところが味噌かと感じられます。スサノオをまるごと否定したり無視したりせず、その上に、より偉いカミサマがいるのだという話になっている。実際、弥生人が信仰していた「スサノオ」の神社はそのままでもあり、その上にさらに偉い(?)神さま=天皇がいるのだという話で納得させられていったのでしょう。
補足すると、このように(自らの信仰を押し付けるのでなく)先住の民族の信仰をそのままに、それを利用する形で潜りこむように君臨するのは、天皇家につらなる騎馬民族の典型的な統治手法で、受入れ体質の縄文人や弥生人は簡単に取り込まれていきました。
まとめに
さて、天孫族=朝鮮系支配民族は、ここまで見てきたように、(弥生人の風習を利用しつつ)徴税のための支配体制、徴税ネットワークを構築しました。
ここで、本シリーズの最終的な問題意識、「日本人はお上意識や属国意識からいつ目覚めるか」という点に立ち戻ると、重要なポイントが含まれているように思います。
天孫族は支配しましたが、あくまで弥生人の信仰、スサノオ信仰、スサノオを祭る神社を残したまま行われました。つまり徹底的に力づくで支配することはありませんでした。(天孫族のほうが圧倒的な武力を持っていたはずですがこうなったのは、迎えた縄文人、弥生人が従順で、素直、受け入れ体質であったからとしか考えらません。)
このように、縄文人、弥生人の共同体や信仰をそのまま残しつつ支配したことが、その後の、日本人に特有の「お上意識」や「天皇主義」に繋がっていったのではないかと思われます。この点は継続追求テーマとなります。
投稿者 fwz2 : 2012年01月09日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2012年10月12日 01:21
マヤ文明発祥の起源を4000年前としている根拠
青山和夫著「マヤ文明」で先古典期をBC1800年開始としている。
実松克義著「マヤ文明~聖なる時間の書」ではBC3000年頃に本格的に発展しBC2000年以降をマヤ文明のピークとしている。
マヤ暦の始まりはBC3114年とされている。
以上から総合的にBC2000年をマヤ文明の発生時期と設定した。