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2009年04月21日

 武士の起源は「俘囚」=蝦夷か?                 

この間、東国に関して追及してきましたが、より実態に近づきたいと思い、武士の起源も併せて追求していきたいと思います。
「武士」とは何者なのか?
日本人の基層をなす縄文人とは、どのような関係にあるのか?
こうした視点で、追求していきたいと思います。
今回は、武士の誕生に深く関わりがある「俘囚」に関する記事を紹介したいと思います。
社会実情データ図録引用

武士の起源に関するかつてと異なる新しい見方として、律令国家の収奪に対して開発所領を守るために武装した在地領主が武士になっていったのではなく、こうした在地領主が律令国家の乱れに乗じて得た既得権益を国政改革から守るため起こした地方の反乱・蜂起を国家が鎮圧するための勢力として位置づけた武装スペシャリストから武士が生まれたとする考え方があるが、こうした武装スペシャリストが学んだのが「俘囚」の戦い方や精神だったという訳である。武士のはじまりとしては超人的な武芸の伝説を有する平高望、藤原利仁、藤原秀郷(俵藤太)が名高いが、かれらの数代前の祖先が「俘囚」とともに活動したと見られる。

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俘囚とは、奥州における蝦夷征服戦争の中で生じた大量の帰服蝦夷を指し、当時、国は、これら俘囚を強制的に全国各地に再配置(内国移配)し、税を免除し生計費(俘囚料)を与えて扶養していた。これは、第一に教化による公民への同化のため、第二に、地方の受領の傭兵的な武力として、郡司富豪層の中で乗馬が巧みな「勇敢者」「武芸人」と称された者とともに、群盗海賊鎮圧に当たらせるためであった。平将門や藤原純友の乱が起こった10世紀には、政府の俘囚奥州帰還政策により俘囚は奥州以外では見られなくなった。

肥後(熊本)が722人で最も多く、近江(滋賀)、下野(栃木)、常陸(茨城)が437人、416人、416人で続いているが、ほぼ全国に分布している様子が分かる。地域的には、関東・山梨と四国・九州にややまとまりが認められる。関東武士、肥後もっこす、土佐いごっそうなどとの関わりも気になるが詳しいことは分からない。

この異民族集団がのちの武士の精神的な源であったと考えられる(私見では血縁的な源であったことも否定できないと思われる)。例えば、律令国家の直刀ではなく、俘囚戦士の疾駆斬撃戦に適した「柄反り」のある蕨手刀が日本刀の起源となった(下図参照)他、俘囚のライフスタイルである非農業定住民特有の「野性」、発達した上半身と華奢な下半身という体型まで生んだ乗馬と騎射の習俗も、上述の「武芸人」や後の武士に引き継がれたといえよう。

馬はどのように入手したのか?
彼らは、乗馬と騎射の技術をどのように獲得したのか?
といったあたりが、疑問点として残りますね。
引き続き、追求していきたいと思います。

投稿者 naoto : 2009年04月21日 List  

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コメント

こんばんわ~。
大天狗の持っているのは「蒲葵扇」ですね。

投稿者 高塚タツ : 2009年5月29日 20:11

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