2011.12.21
「支配者から見た属国意識」~4.支配者が作り出した天皇主義2
十六弁八重表菊紋 古代朝鮮半島勢力図 伊勢神宮宇治橋大鳥居
天皇主義の詳細を解明するために、具体的な史実を解明してゆく必要があります。全号では、社会統合という視点で、支配者と被支配者の意識の収束先を見て来ました。こうした根源的な意識の収束が、日本人に特異な体質である民の「お上捨象」とお上の「民の生活配慮」を生み出し、天皇という権威を現在まで継承してきました。
さて、今回はもう少し突っ込んで見たいと思います。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
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posted by 2310 at : 2011年12月21日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.20
弥生時代の解明3~弥生時代は階層化していたのか?
前回記事、『弥生時代の解明2~倭人は、どのように縄文人と融合していったか?』で明らかにしたように、縄文人と江南人、そして呉越の民が融合して弥生人となり、弥生クニを形成していきました。
弥生時代は漁猟採取から稲作へ転換、集団統合のために階層化が行われていたと言うのが教科書的には言われてきました。
しかしながら、縄文人と江南人、そして呉越の渡来人は戦争を経ず融合したことと、墳墓に副葬品が登場したことは、一見矛盾しているように思えます。
弥生時代に本当に階層化が行われていたのでしょうか?
また、階層化が存在したとすれば、それはどのようなものだったのでしょうか?
再度、縄文人と江南人、そして呉越の民の流入から集団形成について見てみたいと思います。
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posted by yoriya at : 2011年12月20日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.18
「日本と中国は次代で共働できるか?」6~春秋戦国時代~秦・漢時代の支配・戦争の歴史
こんにちわちわわです。
今回は春秋戦国から秦・漢の時代の戦争・支配の歴史を扱います。
夏・殷・周は部族連合の国家でしたが、周末期には各部族の力が拮抗してきて、周の領土拡大が停止し、土地の切り売りによる細分化と村落共同体の解体が進んでゆきました。
こうした中、部族や農民を吸収再編して力をつけてゆく国がいくつか登場し、春秋戦国時代へと突入してゆきます。
おおまかに時代の流れを追っていくと、
周王朝の衰退(~B.C.770)
B.C.771第12代幽王の外交失策により、西方の遊牧民犬戎の侵入を許すこととなった周王朝の権威は縮小し、中国最初の戦国時代に突入する。
春秋時代(B.C.770~B.C.403)
春秋時代には、「斉の桓公」「晋の文公」「宋の襄公」「秦の繆公」「楚の荘王」という有力な諸侯が現れ、これを春秋五覇と言う。
後半になると、南方の「呉」「越」が力をつけてくる。
戦国時代(B.C.403~B.C.221)
B.C.403晋が韓・魏・趙に分裂、ここから戦国時代が始まる。
「燕」「趙」「斉」「魏」「韓」「秦」「楚」の七雄が残った。
秦の天下統一(B.C.221~)
戦国時代後半、燕・趙・斉・魏・韓・楚が“合従策”を結んで、力をつけてきた秦に対抗しようとするが、B.C.221始皇帝が本格的に東征してわずか10年弱で、天下は秦によって統一された。
おおまかにつかんだところで、これらの時代がどんな時代だったのか?細かくみてゆくことにしましょう。
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posted by tiwawa at : 2011年12月18日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.17
「支配者から見た属国意識」~4.支配者が作り出した天皇主義1
十六弁八重表菊紋 古代朝鮮半島勢力図 伊勢神宮宇治橋大鳥居
天皇主義を解明する目的は、【日本人はいつモノを考え始めるのか】という課題の答えを導く為であります。それは、社会のことを考えない=捨象している意識の根底には、私たちの「お上捨象意識」が存在し、お上捨象意識の根底には、縄文から弥生人に引き継がれた受け入れ体質と中国や朝鮮半島や騎馬民族が列島に持ち込んだ力の序列意識下の属国意識があります。縄文・弥生人のもつ受け入れ体質と渡来民からの属国意識が作り出す先端の統合観念が【天皇制】です。社会を正面から直視する=社会を考え始めるということは、このお上意識から抜け出すことです。
※この問題意識は、『なぜ、属国意識を解明していく必要が在るのか?~次代は庶民の変化にかかっている』参照下さい
1600年前、列島に支配目的で渡来した彼らは半島での属国意識(屈属意識)をどのような形で列島に持ち込んで来たのか?また、時間の経過とともに、それらの意識が、日本でどのように変わっていき、お上意識を生み出し、さらに、天皇制を作り出すことになったのか?を押えていきたいと思います。
いままでの記事の紹介です。
シリーズ「日本人はいつモノを考え始めるのか」~プロローグ
Ⅰ弥生時代の解明
1)弥生時代の解明1~倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか?
2)弥生時代の解明2~倭人は、どのように縄文人と融合していったか?
Ⅱ属国意識とお上意識の史的解明
Ⅱ-1)支配者から見た属国意識
1)「支配者から見た属国意識」~1.朝鮮支配者は日本に来てなぜ変化したか?
2)「支配者から見た属国意識」~2.朝鮮支配者が来る前夜の状況
3)「支配者から見た属国意識」~3.支配者層はなぜ庶民に配慮したのか?
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posted by 2310 at : 2011年12月17日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.09
「日本は中国と共働できるか?」5~中国の自然外圧は豊か?厳しい?
シリーズ「日本は中国と共働できるか」はこれまで主に古代中国を見てきました。
夏、殷、周の支配体制、市場の起源、思想史、大衆史と4つのジャンルで追いかけてきました。
1.国家形成前、夏・殷・周時代の支配・戦争の歴史
2.中国の市場国家の起源とは?
3.道教から中国の可能性を探る
4.中国の大衆史①母系から父系に転換したのは何で?~
中国の古代史を大きく捉えれば、比較的恵まれた自然環境の中、農耕社会が早期に発達し、それに並行して北方で遊牧部族が広域に広がる牧草地帯で生活を営む形態が長く続き、一旦、住み分け状態の中で安定していました。
ところが5500年前に始まる寒冷化の始まりが遊牧と農耕の住み分けが徐々に困難になり、やがて寒冷期の都度、遊牧民が農耕地帯に入り込み、保安や防衛と引き換えに食物を交換するという騙しによって農民から搾取していきます。やがてそれらが玉突きとなってひろがり、忽ち農耕民の邑は遊牧民の支配下に落ち、以後は遊牧民同士の縄張り争いが繰返されます。これが中国の歴史のパターンであり、寒冷期の度に戦乱が起き、西方、北方の遊牧民が交互に支配していきます。
しかしその寒冷期とは並大抵のものではなく、中国の南の河川まで凍りつく厳しいものでした。つまり、中国における歴史とは表が戦乱史であれば裏は自然外圧史なのです。
中国シリーズ第5回はこの中国が抱えてきた自然外圧を見ていきたいと思います。
中国の特殊な自然外圧を5つのテーマを追いかける事で明らかにしていきたいと思います。
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posted by tano at : 2011年12月09日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.07
「支配者から見た属国意識」~3.支配者層はなぜ庶民に配慮したのか?
質素な城と言われた江戸城の四谷門の様子
写真はこちらからお借りしました。
TPP問題や原発問題の対応など、日本の統合者の限界をいやと言うほど見せつけられるに従い、「日本人はいつものを考え始めるのか」を検証することが非常に重要であると感じています。
この問題意識に基づき、「支配者から見た属国意識」シリーズをこれまで2回お届けしてきました。
1.朝鮮系支配者は日本に来てなぜ変化したのか?
2.朝鮮系支配者が来る前夜の状況
さて、今回はシリーズ3回目として、
「支配者層はなぜ庶民へ配慮したか」=「支配層が下へ配慮」を追求していきたいと思います。
「支配者層の下への配慮」とは、聞き慣れない言葉かと思いますが、日本における支配者層の意識を理解する上で非常に重要な意味を持っているのです。
世界の文明史では、支配者層が大衆を一方的に強制支配することが常識であり、支配者層が長きに渡り大衆に配慮することはありません。
だからこそ大衆は救い欠乏から「あの世」を対象とした宗教に向かわざるを得ず、宗教は非常に大きな力と収束力を歴史的に、そして現在も有しています。
一方日本では、支配者層が大衆に配慮するという、世界では考えられないことが当然のごとく昔から行なわれてきました。この史実を通じて、日本における支配者層の意識の有り様を明らかにしていきたいと思います。
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posted by sinkawa at : 2011年12月07日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.06
弥生時代の解明2~倭人は、どのように縄文人と融合していったか?
前回の記事『弥生時代の解明1~倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか?』で明らかにしたように、避難して来た倭人たちは少数渡来でした。少数の渡来人が水稲稲作という安定した食料供給を背景に、高い人口増加率(≒寿命の長期化)を保持し、人口増および人口比の逆転をもたらしました。それは縄文系の集団と渡来系の集団とでは人口増加率が違うはずだという中橋孝氏の考え方を踏襲しつつ、国立民族博物館の新年代観を取り入れて試算された下記の図からも、読み取れます。
(サイト「日本人の源流を探して」 より)
詳細は当ブログ『「支配者から見た属国意識」~2.朝鮮支配者が来る前夜の状況』もご覧ください。
では、このように年平均50人~100人という少数で渡来した倭人たちは、どのように日本列島に広がっていったのでしょうか? 稲作の伝播状況から見ていきます
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ありがとうございます
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posted by mituko at : 2011年12月06日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.03
「支配者から見た属国意識」~2.朝鮮支配者が来る前夜の状況
前回の投稿では、朝鮮支配者が日本に来た時に、渡来前の武力による力の支配ではなく、大衆の共同体を活かした支配に変化したことを扱いました。
その背景には、朝鮮支配者が当時の日本(縄文体質の世界)に触れる中で、力による支配よりも、従順な弥生人を活かし既存の共同体に配慮した支配体制を敷くことで、争い無く支配を行うことが出来た、ということがあります。
そしてそれを後押ししたのが、朝鮮支配者と当時の弥生人との人口比です。武力を持ち、支配目的で渡来したとしても、圧倒的な人口差があればそう簡単に思い通りにはなりません。その中でうまくいく方法を考え出した結果が上記の支配構造に繋がったのではないでしょうか。
そこで今回は、当時の日本の状況、特に人口分布について明らかにし、朝鮮支配者が渡来してくる当時の状況を押さえ直したいと思います。
続きを読む前に、 こちら をクリック お願いします。
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posted by vaio at : 2011年12月03日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.01
シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」4~中国の大衆史①母系から父系に転換したのは何で?~
「日本と中国は次代で共働できるか?」シリーズ4作目
中国の大衆史の1回目です
今回のシリーズは「日本と中国は次代で共働できるか?」ですが、
現代中国人の、「他人のことはどうでもいい」という自己中さ(例:農薬入り餃子事件)やマナーの悪さを見ていると、本当に協働できるの 🙄 と思ってしまいます。
一方で、自己中といっても、西欧の個人主義とは違い、親族の結束は強いように見えます。
日本と西欧の中間ぐらいに位置するようです。
次代(共認社会)の可能性は、日本人のような集団性にあります。それは自己中とは正反対(真逆)です。したがって、協働の可能性は、集団性の残存度が深く関わっています
現代の中国の集団性(共同性)はどのようなものなのか。
いつ、どのように変わっていったのか。
中国の婚姻制や大衆(農民)の集団のあり方を、歴史を遡って追求することで共働の可能性を探っていきたいと思います
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posted by pingu at : 2011年12月01日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2011.11.30
「支配者から見た属国意識」~1.朝鮮支配者は日本に来てなぜ変化したか?
(5世紀頃の朝鮮半島の地図 画像はこちらからお借りしました。)
『シリーズ「日本人はいつモノを考え始めるのか」~プロローグ』を受けて、今回から「属国意識とお上意識の史的解明 支配者から見た属国意識」シリーズに入ります
初回の記事は、題して『朝鮮支配者は日本に来てなぜ変わったのか?』です
もともと、日本の支配者の支配体制は、天皇制の存続や、共同体の残存度も他国と比べて高いことから、支配者側の一方的な支配体制にはなっていないのではないか?という疑問をもとに、支配者のルーツを探るところから、記事をスタートさせていきます
朝鮮支配者が日本に渡来してきたのは、ちょうど今から1600年前ごろと考えられます
もちろん、それ以前にも、朝鮮や中国から日本にやってきた渡来人はたくさんいるのですが、彼らは、小規模かつ追いつめられての亡命者(ボードピープル)なので、征服の意図はなく、土着の縄文人・弥生人とは融和に努めた と考えられます。
しかし、1600年前ごろにやってきた渡来人は、明らかに支配目的で日本にやってきたと考えられます。その根拠は古墳の副葬から読み解くことができます。
1600年前の日本は古墳時代の真っ只中でしたが、約1600年前(古墳時代前期)の古墳の副葬は、平和的、祭祀的、農耕的なものが多く、祭祀色 が強いのです
対して、約1600年以降(縄文時代後期)の古墳の副葬は、戦闘的、騎馬的なものが多く、武装色が強いのです。
前者の古墳に祭られた支配者は、亡命してきた渡来人の可能性もありますが、縄文人と融和を図った上での支配者なので、完全に縄文体質を継承していると見てよいと考えられます。それは副葬品から見ても明らかで、支配者といっても、大衆の期待に応える共同体化した集団のボス(酋長)が祭られたと推定できます。彼らを一旦、『弥生系支配氏族』という言葉で固定化しておきます 😀
一方、後者の古墳に祭られた支配者は、副葬品に武力支配の色彩が強いことから、明らかに支配目的でやってきた朝鮮支配者が祭られたと推測できます 😡
恐らく、朝鮮半島での百済新羅統一で存亡の危機に陥った任那のツングース系の部族が、明確に侵略・支配・殖民の意図を持ち、主力軍を率いて日本にやってきたと考えられます。(その後、百済、新羅からも主力軍が日本に渡来 )
(仁徳天皇陵古墳 画像はこちらからお借りしました。)
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posted by marlboro at : 2011年11月30日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList