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「支配者から見た属国意識」~2.朝鮮支配者が来る前夜の状況

[1]
前回の投稿では、朝鮮支配者が日本に来た時に、渡来前の武力による力の支配ではなく、大衆の共同体を活かした支配に変化したことを扱いました。
その背景には、朝鮮支配者が当時の日本(縄文体質の世界)に触れる中で、力による支配よりも、従順な弥生人を活かし既存の共同体に配慮した支配体制を敷くことで、争い無く支配を行うことが出来た、ということがあります。
そしてそれを後押ししたのが、朝鮮支配者と当時の弥生人との人口比です。武力を持ち、支配目的で渡来したとしても、圧倒的な人口差があればそう簡単に思い通りにはなりません。その中でうまくいく方法を考え出した結果が上記の支配構造に繋がったのではないでしょうか。
そこで今回は、当時の日本の状況、特に人口分布について明らかにし、朝鮮支配者が渡来してくる当時の状況を押さえ直したいと思います。
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朝鮮支配者が渡来した今から約1,600年前はどのような状況だったのか。
その当時、日本は古墳時代です。まずは、古墳の分布状況から当時の状況を類推している当ブログの記事を抜粋して紹介します。
「前方後円墳は、出自の異なる古代部族の和合・合体の証し?」 [4]

日本独特の古墳と言われる前方後円墳
これが三世紀後半に突然畿内を中心につくられるようになり、それが次第に周辺地域に広がっていく。
まずは日本の古墳の分布を見てください。
[5]
図版は“しまね遺跡探検”さん よりお借りしました。東北を除く日本中に前方後円墳が分布しているのが分かります。そして一部ですが方形の古墳も分布しています。
~中略~
前方後円墳は、このもともとの円丘墓と方丘墓が合体したものだと想像されますが、何の為だろう?また、そもそもの円丘墓と方丘墓とはどこからきたのだろうか?
~中略~
整理すると
●円丘墓
中国南部→朝鮮南西部(百済の地)→日本の瀬戸内、近畿
※おおよそ倭人といわれる人々の分布と重なる。
●方丘墓
朝鮮各地→北九州→東海以東の各地へ
※この墓の朝鮮以前の出自は?後の新羅系の分布と重なるようにも見えるし、それとも任那・加羅系?
●四隅突起墳丘墓
高句麗→出雲・北陸、長野へ
※北方騎馬系?
さらに付け加えると、以下の経過も並行して見られること。
・西日本では、銅鐸文化圏+銅矛文化圏→前方後円墳圏(三世紀後半)
・東日本では、方丘墓が合体した前方後方墳圏(三世紀後半)がまずひろがり、その後前方後円墳(四世紀中頃)に塗りかわって行く
以上のように、日本における古墳の形状と分布は、弥生後期に大陸・半島の出自を持つ部族がやってきた傍証となるものです。それぞれの部族が、日本にやってきた段階では、それぞれの墓形式を守っていた。それらが合体して三世紀後半に近畿地方で前方後円墳に発展する。
これは、大きく見ると円形(倭人系)勢力と方形(新羅・加羅系?)勢力の合体・和合を示しているのではないだろうか?その合体勢力が三世紀後半、近畿地方に大和王朝を開いた。その時期それとは別の勢力(方形の合体勢力)が東日本(東海・関東)が存在した。
この時代は、少し前に卑弥呼の時代(240年頃、魏志倭人伝)を経た後であり、邪馬台国と狗奴国の合体=大和合→大和(ヤマト)王朝の成立を示しているのかもしれない。そしてその前方後円墳合体勢力が、東にも勢力をのばしていく。しかし関東の一部と出雲には根強く方形勢力(新羅と高句麗系?)が残り続ける。

当時の日本は各地方に古墳を残せるほどの部族が存在し、その部族同士が連合を組んでいった様子がよく分ります。そして前方後円墳に象徴されるように部族の大連合が出来上がり、その後の大和王朝に繋がる一大連合を築いている状況が読み取れます。
もともと古墳は中国、朝鮮発の文化ですが、これは弥生時代から続く大陸からの漂着民からその技術を学び、自部族の古墳に反映していったのではないかと思われます。
そして、3C後半~4Cの古墳の埋蔵物は呪術的なものが多く部族の長である司祭者を祭った跡が見られますが、4C末~5Cになると武器などが多く、武力支配者を祭った跡が見られることからも、支配者層の変化がうかがえます。
このように朝鮮支配者が渡来する約1,600年前の日本は、西日本を中心に部族連合を築いていた状況になっていました。
その中で、日本(弥生人)の人口と朝鮮支配者の人口はどのような状況だったのか。
当時の人口増加率から類推した記事を紹介します。
「朝鮮支配民が来た時の人口比の推定」 [6]

なかなかその当時の人口についてはデータが無く掴みづらいですが、色々と推計しているサイトがありました。
特に弥生人に繋がる渡来人の推計は弥生時代を通じて100万人説から数万人説までありますが、るいネットの岡本さんの投稿「大量渡来か少数渡来か(1)」 [7]にもあるように、少数でも平均寿命の違いから人口増加の可能性は十分ありうる話しで、縄文気質が色濃く現在でも残っている状況を考えると、少数渡来の可能性が高いと思います。
その上で、渡来人の人口を推計しており、年に50~100人とのことですが、支配民が徒党を組んで来たとしても最大でも200人規模、それに対してその当時の日本の人口は60万人超と推定されます。
最大都市のヤマト王権?の人口推定もいりますが、十分に人口差があったように思われます。
サイト「日本人の源流を探して」~08.弥生時代の渡来人の規模 [8]
>>>
筆者はこの中橋の集団ごとに人口増加率が違うはずだと言う考え方を踏襲しつつ、歴博の新年代観を取り入れるとどうなるか、算出を試みた。それが次の表である。
[9]
 試算は次のように行った。
1.弥生初期と終期の地域別人口は小山修三の人口推定(参照)によった。小山の年代観は新年代観に近く、縄文晩期を弥生早期と読み替えるだけで整合性を持ち得た。
2.それぞれの地域の縄文系と渡来系集団の割合は、いろいろな研究成果を参考に表の数値のように、東日本ではそれぞれ40:60、西日本では20:80と筆者が定めた。
3.その結果、縄文系の集団の年平均人口増加率が自動的に算出された。ピンク色で示した数値である。東日本の縄文系の人口増加率は0.054と低く、西日本の縄文系の人口増加率は、中橋のいう0.1%を上回る0.157という数値となっている。
ただ、これも西日本の縄文人が、稲作の恩恵を東日本よりかなり多く受けていたとすれば、十分ありえたことでなかろうか。
4.渡来系集団については人口増加率を埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の0.2と0.3においてシミュレーションを行った。弥生時代の期間が埴原の100万人渡来説を唱えた時代と異なり、新年代観によってほぼ2倍の期間になったこともあって、中橋が許容した1%というような高率を適用しなくても、いずれのケースも納得できる渡来人の規模となった。
 1,100年間で列島全体で50,000人から120,000人、年平均50人から100人という渡来人の推定結果は、人類学会にも、考古学会にも受け入れられる数値ではなかろうか。>>>

日本の人口60万人に対して支配者集団は200人程度。いくら武器や先進技術を持っていたとしても、圧倒的な人口差で日本の状況を探りながら支配構想を練ったというのが自然の流れでしょう。
その中で、支配者は武力の威力を示しつつも、大衆に配慮した支配体制を敷いていった。そして、基本的には受け入れ体質の日本人は、自集団の共同体が邪魔をされない限り、その支配体制を受け入れていったということでしょう。
そして、支配者が行った大衆への配慮は実はこの後もずっと続いていきます。
次回は、この支配者が行った大衆への配慮の変遷をみていきます。
それでは、お楽しみに

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