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「日本は中国と共働できるか?」5~中国の自然外圧は豊か?厳しい?

シリーズ「日本は中国と共働できるか」はこれまで主に古代中国を見てきました。
夏、殷、周の支配体制、市場の起源、思想史、大衆史と4つのジャンルで追いかけてきました。
1.国家形成前、夏・殷・周時代の支配・戦争の歴史 [1]
2.中国の市場国家の起源とは? [2]
3.道教から中国の可能性を探る [3]
4.中国の大衆史①母系から父系に転換したのは何で?~ [4]
中国の古代史を大きく捉えれば、比較的恵まれた自然環境の中、農耕社会が早期に発達し、それに並行して北方で遊牧部族が広域に広がる牧草地帯で生活を営む形態が長く続き、一旦、住み分け状態の中で安定していました。
ところが5500年前に始まる寒冷化の始まりが遊牧と農耕の住み分けが徐々に困難になり、やがて寒冷期の都度、遊牧民が農耕地帯に入り込み、保安や防衛と引き換えに食物を交換するという騙しによって農民から搾取していきます。やがてそれらが玉突きとなってひろがり、忽ち農耕民の邑は遊牧民の支配下に落ち、以後は遊牧民同士の縄張り争いが繰返されます。これが中国の歴史のパターンであり、寒冷期の度に戦乱が起き、西方、北方の遊牧民が交互に支配していきます。
しかしその寒冷期とは並大抵のものではなく、中国の南の河川まで凍りつく厳しいものでした。つまり、中国における歴史とは表が戦乱史であれば裏は自然外圧史なのです。
中国シリーズ第5回はこの中国が抱えてきた自然外圧を見ていきたいと思います。
中国の特殊な自然外圧を5つのテーマを追いかける事で明らかにしていきたいと思います。
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1-1【気候の特徴】
国土が広大なため、気候は多様です。北から南に寒帯、温帯、亜熱帯、熱帯などにわかれます。年降水量は南東側で1000mmをこえ、北と西にむかって少なくなり、西北部では年間100mm以下の砂漠のような風景があらわれます。東部では、夏に海から温暖で湿潤なモンスーン(季節風)がふきこむので全般に高温多湿になりますが、冬は寒冷な偏北風がふくため、南北の気温差が大きくなります。四季ははっきりしており、温度や降水量の変化が大きい大陸性気候となっています。西域のシルクロードにある地域では「朝は毛皮のコート、昼は半袖(はんそで)」といわれるぐらい1日の気温変化がはげしく、冬の気温は同緯度の外国より低く、夏の気温は逆に高くなっています。
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気候帯地図 [7]
中国の気候の特徴は南と北、沿岸部、内陸部といった4つの要素で構成されており、とりわけ南と北の気候を決定付けているのが梅雨前線でヒマラヤ山脈を西に抱える中国は長江北限あたりでこの前線によって気候が明確に分かれています。
⇒詳しくは「中国の南北の違いを引き起こす自然」 [8]の記事を参照下さい。この明確に異なる南北の気候差と大陸のほとんどを占める内陸型気候の寒暖の激しさが中国の気候を特徴付けていると言えます。
1-2【地勢の特徴】
中国の地勢の割合は以下のようになっています。
山地33%、高原26%、盆地19%、丘陵10%、平野12% 中国総合ガイド [9] 
一方平野が少ないと言われている日本の地勢は山地70%、平地・盆地30%となっています。中国も日本同様に平地が極めて少ない地勢であることが伺え、さらにその平野も大河の両岸に集中しているのです。ヒマラヤの豊かな水源を湛える大河は2年や3年ごとに頻繁に氾濫し、その氾濫は中国の農耕を豊かにもし、また繰り返される飢饉も引き起こしました。この長江、黄河という飛びぬけた2つの大河が中国の地勢や自然外圧を知る上で大きな軸となっているのです。
2 【古代中国は果たして豊かだったのか?】
⇒1万年前から6000年前の古代中国に限って言えば極めて豊かな環境にあった事がわかっている。
世界の歴史は大きく西洋と東洋で異なり、その最大要因となっているのが東西の気候の較差です。少なくとも1万年以降の新生代では海流の影響によってユーラシア大陸の西側は寒流が流れ込み、総じて同緯度でも乾燥寒冷となり、東側の中国や東南アジアでは暖流が北上し、湿潤温暖な環境にありました。
現在では年間100mm程度しか降雨量のない華北地域も8000年前の温暖期には平均気温は現在より5度程度暖かく、象やサイが生息していた事がわかっています。
当然、黄河流域も森林に覆われ、現在では想像できませんが亜熱帯の気候に属していました。世界最古の土器(1万7千年前)も最初の農業の始まり(9千年前)も西側より早く、都市的な集落の発生も(長江流域ではありますが)数千年早く確認されています。また、中国の西側に位置する平原は草原の道と言われるくらい草食動物の密集地になっており、同時に農耕生産が始まってしばらくすると遊牧が広く営まれる事になります。
また長江流域には既に1万4千年ごろには稲もみの跡が確認され稲が河川に自生していた事が確認されています。この黄河も長江流域も同様に豊かで、定期的に発生する河の氾濫によって肥沃な河川域は農業に適しており、さらに北西に控える大草原は遊牧に適しているという絶好の地の利を得ていたのが8千年前の中国でした。
9千年前に温暖化に伴う乾燥化から農業が始まった中東のレバント地方と異なり、中国は豊かな地勢、気候から農業は始まることになったのです。
3 【長江と黄河はどちらが肥沃だったのか?】
⇒黄河流域は黄土という特殊な腐葉土を持つ事で圧倒的な農耕環境を得ていました。
中国は長江と黄河という異なる地域でそれぞれに文明が起こります。長江文明は約6500年前、黄河文明は4200年前ですが、黄河流域には5500年前には既に城塞が築かれており、かなり古くから黄河流域でも人が集結していたと思われます。
長江流域はモンスーン型気候で湿潤、農業形態は稲作へと移行していきますが、黄河流域では主に粟、ヒエといった畑作が行なわれます。一般に湿潤な長江は豊かで黄河流域は乾燥地の為、気候は長江ほど恵まれていないと思われていますが、文明が拡大し農耕が広がったのは長江流域ではなく黄河であったことから、この2つの河川は果たしてどちらが豊かだったのか疑問が起こります。
しかし、降雨量も少なく寒冷地で畑作しかできなかった黄河のほうが豊かでした。その秘密は黄河地域特有の黄土にあるのです。
黄河周辺は比較的寒冷で乾燥しています。1月の平均気温はマイナス8度から0度で、7月の平均気温は22度から27度です。年間降雨量は600ミリメートル前後で、その3分の2は6月から9月にかけて集中して降ります。しかし、この地区の最も特殊で重要な地理的特徴は、黄土の広範な分布です。黄土には腐植質が欠乏しているが、大量の炭酸カルシウム、カリウム、イオウ、リン等の元素が含まれていて、ある程度天然の肥沃度をそなえています。土質は柔らかく、通気性が高いので、良好な毛細管現象をそなえているのです。それ故、乾燥している時でも植物の成長に有利なのです。中国北方における農業の古代開発史とは、実際には黄土の栽培史とも見なすことができるのです。
この黄河流域の農耕地は洪水によって上流から定期的に新しい黄土が供給され、連作が可能だっただけでなく、大規模な灌漑も必要とせず、比較的簡単な農耕具で少人数でも容易に耕地面積を拡大していく事が可能でした。比較すれば長江流域の稲作地域は早期に適地で水田稲作が始まりましたが、人工的に耕作地を増やそうとするには森林伐採、開墾も含めて膨大な労働力を投下する必要があり、長江流域の農地開発は農機具が発達する漢代以降まで待つ必要があったのです。
~参考「中国北方と南方における古代文明発展の相違」 [10]
4【中国の戦乱史と気候外圧はどのように連動しているか?】
⇒中国の紀元以後の戦乱史は気候外圧と連動している
中国は大陸型の気候であり、寒暖の落差は海洋型の日本などに比べ大きく、農業に依存する中国の生産は寒冷期の度に打撃を受け、飢饉をまねき戦乱、戦争に繋がっています。特に農業依存度が上昇した春秋戦国時代以降、その寒冷化の時期と動乱が対になっており、それを研究した中国と欧州の歴史チームがその関連を発表しています。⇒詳しくは中国歴代王朝の盛衰と気候変動の関係 [11]
これらを見る上で寒冷時期を追いかけてみます。中国史は大きく7回の寒冷期を経験してきました。
1)5500年前~5百年間
8000年前から続いた温暖期が終わり、世界的な寒冷化が発生しており、中国もこの時期に黄河で最初の城塞(西山遺跡)が作られている。おそらく黄河流域で食糧を巡り遊牧民と農耕民で最初の戦乱があった可能性が高い。
2)4200年前~数百年間
夏王朝が起きるが、この寒冷期の間に殷によって黄河で最初の文明が起きる。同時に押し出された黄河流域の農耕民が長江に流れ、長江流域の苗族を周辺に押し出す。
長江文明はこの寒冷期に消滅している。
3)3100年前~2950年前(150年間)
長江流域が凍結したこの時期には殷が滅び(3127年前)、周時代に突入する。
4)2450年前から2300年(150年間)
戦国時代は華北では寒冷期にあたる。
その前の500年で黄河流域で鉄を用いて農耕地への乱開発が進んだが、農耕地も人口も圧倒的にこの時代に増加する。しかし、それらの増加した人口が養えなくなり、戦乱に突入する。土地を争い、一部は長江流域まで南下した。
5)2100年前~1500年前(600年間)
漢帝国が登場してしばらくすると寒冷期を迎える。この時期の寒冷で渤海が凍るなど現在夜3度低い状態が長く続いた。この時代はまさに匈奴が中国全土に押し寄せた五胡十六国時代であり、戦乱に継ぐ戦乱が続いた。人口が1/7になった農民の大反乱、黄巾の乱は184年(1900年前)に発生している。
※この後の温暖期には中国で最も安定した唐の時代が続く。
6)1100年前~900年前(200年間)
南宋時代に5度目の寒冷期が現れる。中原一帯は梅の木が植えられない(-15度以下)くらい寒冷化し、12世紀初めに金が華北に侵入し以後、中国をモンゴル帝国が納めるきっかけとなる。
7)700年前~400年前(300年間)
最後の寒冷期にあたる。西暦1650年~1700年が最も寒冷化し、長江流域の大湖が4度凍結、中国の亜熱帯地区も氷雪に覆われた。730年前に元が滅び明が誕生している。
そして1644年には清が明を滅ぼして北京に首都を建てる。
参考~中国の片隅から ぼやき [12]
5 【現在の中国が抱える自然外圧とは人災である】
⇒中国人にとって自然とは耐えるもの、克服するもの=否定意識の自然観である。
⇒中国の環境問題は秦代から始まっており、自然災害は過半がそのしっぺ返しである。

中国は農耕社会ではありますが、その基本は黄河文明流域の畑作型農耕が中心で、鉄農具を早期に手に入れた漢民族は既に秦王朝の時代までには黄河流域を隙間なく農地に変えていったのです。そして大量の鉄の製造は同時に大量の森の破壊を伴いました。結果、秦代には黄河流域の森林はほとんど失われ、洪水の頻度は圧倒的に多くなっていきます。
それらが中国人に自然とは耐えるもの、自然とは克服するもの、自然災害とは戦争である、といった自然に対する否定意識や対立意識を定着させていきます。
中国人の自然観の特徴を下記のブログ [13]で言い表しています。

>中国のメディア、特にテレビの地震災害報道を見て感じたのは、自然災害をひとつの戦争に見立て、それと如何に戦い、勝ち取るかという観点から報道していることだ。
その所為であろう、勇敢に戦った人を「英雄」として褒め称える。中国はスローガンが好きな国だが、今度の地震の時には『天無情、人有情』(自然は冷酷だが、人には情けがある)という言葉が良く登場した。
日本人の場合だと、『天無情』(自然は冷酷)などと言うと、自然から報復を受けそうで、口に出すことは余りしないのではないか。それよりは「天罰」を受けたのかなと我が身を反省することの方が多い気がする。それに比べると中国人は、自然を人類に敵対するものとまではいかなくても、克服する対象として捉えている傾向が強いのではないか。そんな印象を受けたという事を中国人の知人に話したところ、「確かにそうした傾向があります。以前は『人定勝天』(人は自然に必ず勝つ)という言葉が良く使われました」と教えてくれた。

現在、中国が抱える環境問題は年々大きなものになっています。
特にそれは水資源の喪失に代表され、黄河の断流(海まで河川が流れない状態)や大湖のアオコによる長江の水質問題に発展等、今や中国全土の水環境は危機的状態に陥いっています。
黄河流域はかつては7年に1回の洪水が春秋時代の森林乱開発によって2年に1回そしてその後は毎年のように洪水に見舞われるようになりました。逆に上流では森林伐採により砂漠化が進行し、地下水が失われ、水不足が顕在化するようになります。長江中域の大湖は中国で3番目の水資源を備える水源でしたが、工業用水による汚染により20年前から汚染が進み2007年ついに飲用できなくなりました。
untitled.bmp m24015.jpg
(左)黄河の断流 [14] (右)太湖のアオコ  [15]
これらが象徴するように自然を克服するもの、耐えるものとしてきた中国は、ついに自然環境との共生という発想を持つ事ができず、ひたすら破壊、人間の為に利用する事で自然を改変してきました。いわば、この2000年間の中国の自然と人の関係は、力ずくで押さえ込む関係であり、故に常にそのしっぺ返しをくらってきたのです。その意味で日本の公害以上に桁外れに大きいこの中国の自然破壊とそれによってもたらされる災害は既に自然外圧ではなく人災であると言えます。
現在この環境の再生に政府はようやく気づき、その途につき始めていますが、所詮ビジネスの枠の中で考えており、自らの自然観を疑ってみるようなことはしていません。中国と日本が共働できるかどうかを困難にしているのは、経済や国家体制のみならず、この自然に対する考え方の差異にあると思われます。つまり、日本人は中国の(開発指向の)自然観が理解できず、中国人も日本人の(摂理を重んじる)自然観を理解しようとしない。
この溝をいかにして埋め合わせていけるのかが、このテーマの本質の一つだと思います。

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