2012.01.22
シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」9~遊牧民からみた中国史
今回の中国シリーズではこれまでの8回の記事で古代から漢代までの中国史を見てきました。
1.国家形成前、夏・殷・周時代の支配・戦争の歴史
2.中国の市場国家の起源とは?
3.道教から中国の可能性を探る
4.中国の大衆史①母系から父系に転換したのは何で?
5.中国の自然外圧は豊か?厳しい?
6.春秋戦国時代~秦・漢時代の支配・戦争の歴史
7.鉄によってもたらされた中国の市場
8.諸子百家とはなんだったのか?
ここまでの段階でも既に明らかなように中国とは遊牧民が作った商業国家であり、官僚国家である事が明らかになってきます。同じ遊牧民が作った西洋や中東が武力と宗教で支配の系譜が続いたのに対して中国の場合、武力は用いますが、ここまでの中国史は集団と集団の縄張り争い、覇権闘争の中から国家が誕生してきた事が伺えます。
群雄割拠の中、武力で制覇した秦であっても、制覇した後はひたすら防衛の為の施設=万里の長城を築き、北の遊牧民に備えました。
中国とはいろんな見方ができると思いますが、今回の記事では、一旦遊牧民から見た中国という視点で古代から中世、そして近世まで俯瞰してみたいと思います。
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posted by tano at : 2012年01月22日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2012.01.19
第3部 「庶民が作り出したお上意識」~お上意識の醸成過程
シリーズ「日本人はいつものを考えはじめるのか?」もいよいよ第3部に入ります。
これまでのシリーズ投稿を並べてみます。
第1部「弥生時代の解明シリーズ」
1倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか?
2倭人は、どのように縄文人と融合していったか?
3弥生時代は階層化していたのか?
4神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立
第2部「支配者からみた属国意識」
1朝鮮支配者は日本に来てなぜ変化したか?
2朝鮮支配者が来る前夜の状況
3支配者層はなぜ庶民に配慮したのか?
4支配者が作り出した天皇主義1
支配者が作り出した天皇主義2
支配者が作り出した天皇主義3
5武士とは日本の支配史にとって何か
この1部、2部で日本の縄文社会から弥生時代、さらにその後の大和朝廷以降の朝鮮系支配者による日本の支配者の側からの歴史史観を扱ってきました。
第2部では属国意識で凝り固まった朝鮮系支配者が日本に渡来して以降、すでに各地に根を広げていた弥生人集団をそのまま温存する形でその上に乗っかって支配した状況を扱いました。さらに日本に来た横暴な朝鮮系支配者が大衆に配慮するという政治手法を取る事になります。支配者も日本に渡来し、縄文体質に触れ、変化して行ったのです。
リンクよりお借りしました。
さて、今回の第3部ではこの支配者の意識を受けて、庶民はどのように上を見ていたのか?従ってきたのか、それを追求していきたいと思います。
いつも応援ありがとうございます。
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2012.01.16
シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」 8~諸子百家とはなんだったのか
諸子百家とは、いまから約2600年前からの300年間、中国の春秋戦国時代に現れた多くの思想家(遊説家)たちのことを指します。
なぜ、中国でこの時代、多くの思想家が登場したのか。それはその後の中国にどのように影響したのか。それを明らかにします。まずは、諸子百家の思想がどのようなものだったのか、概要を押さえます。
そもそも諸子の思想の内容は?
時代は春秋戦国、群雄割拠。富国強兵のためには、いかにして人民の生産力を高め、納税・労役・兵役をさせるかが必要になります。そのために、人民をどう治めるかという発想に基づく政治学説が発達しました。
どれほど多くの思想が登場したのか。今から約1900年前、後漢時代の『漢書』芸文志(げいもんし)の「諸子略」には189家、4324篇の書が記されています。中でも代表的なものは儒家、法家、墨家、道家、名家、陰陽家、縦横家、農家、兵家です。
①儒家(孔子2500年前・孟子2300年前・荀子2250年前)
孔子は西周時代初期の政治思想である「礼」の復活をめざした。天命思想を起原とし、従来の貴族政治の形式を尊重しながらも、法制の整備に反対した。家族や親族の間の道徳秩序(孝・悌)を基礎として仁の世界を実現することをめざし、徳をもって民衆をみちびく徳治主義を主張した。孟子は、人の本性は善(性善説)であり、徳をもって天下を治める王道政治を強調した。後の荀子になると、人の本性は欲望に弱いもの(性悪説)であり、その是正に礼が必要であると説いた。礼は国家の諸制度までをも含み、法治主義への道をひらいた。
②法家(商鞅2350年前・韓非2250年前)
商鞅は、儒家の徳治を法治に置きかえて、信賞必罰を政治の基本的手段とすることを主張した(法治主義)。法の有効な行使によって業績をあげる必要と、空理空論を克服し実効をあげる理論を強調した。秦に仕え、什伍制(隣保同責)、分異の法(分家移住)を実施した。のちの韓非は、儒家の荀子に学び、商鞅の法思想を継承した。
③墨家(墨子2400年前)
孔子の仁、家族道徳や礼の形式は、差別愛として非難し、人間相互の広い愛と助け合い(兼愛)を説いた。相互扶助(交利)・国家間の非戦(非攻)を説き、その思想の基盤の上に勤倹節用・薄葬などの具体的政策を展開した。儒家と激しく論争し、強力な教団を形成した。
④道家(老子2450年前、荘子2300年前)
老子は儒家の徳を低次元のものとして否定し、無為自然・小国寡民(自給自足の農村)こそ真の道であると説き、自然と人間の調和や「無為にして化す」平和非戦の政治道徳を強調した。後世、神仙説、陰陽五行説と結合し、道教を生んだ。荘子は老子の「道」に基づき、個人的解脱を重視し、自我を去って万物の絶対性に従うことを説いた。
⑤名家(恵施2380年前、公孫竜2300年前)
論理学、名(概念)と実(実体)の関係を研究。非戦から認知主義を主張するが詭弁に陥った。公孫竜の名言(迷言)に「白馬は馬にあらず」がある。
⑥陰陽家(鄒衍すうえん2250年前)
万物は陰と陽に分類されるという陰陽思想を説いた。陰陽説は、自然と社会の現象を陰陽二元の相反と相互依存によると説いた。その影響を受けて宇宙生成を、木・火・土・金・水の5要素の消長によって説いたのが五行説。
⑦その他
「戦わずして勝つ」ことを最上の策としながらも、戦略戦術を説く兵家(孫子・呉子)、外交政策に特化し、強国秦に対して、東方6国の連合同盟(合従策)や秦と各国の同盟(連衡策)を唱えた縦横家(蘇秦、張儀)、君民並耕による一種の無政府主義を説く農家(許行)、各派の思想を参酌し、総合化しようとして雑家、故事や民間の風俗をまとめた小説家。
このような多種多様な思想家たちがなぜ登場したのでしょうか。
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posted by kumana at : 2012年01月16日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2012.01.09
弥生時代の解明4~神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立
シリーズ前回投稿では、弥生時代の墳墓をみることで、「弥生時代は階層化していなかった」との結論が得られました。さて、今回は、集団統合の祭祀の場として重要な「神社」を扱います。
神社というと、正月にお参りするし、(また、歴史的には天皇家と関係が深そうで)多くの日本人は、日本古来のものと思いがちですが、実は起源は大陸にあります。参照るいネット
そして、今回のテーマに繋がりますが、大陸由来である神社にも2系統の神社があり、中国(江南)系の神社と朝鮮系の神社があります。
出雲大社(上)と伊勢神宮(下)
上段の大きな注連縄があるのが中国(江南)系、そして下段の注連縄の無いほうが朝鮮系の神社です。中国(江南)系の神社には大きな注連縄があり、それは、蛇が絡み合いながら性交する様子を象徴しているといわれ、より原始的な神社信仰を象徴しています。(実際、神社信仰の「原型」は、江南地方起源とされています。)
前回投稿まで、中国・江南人が日本列島に渡来、大きな争いも無く、縄文人と緩やかに融合し弥生人が形成されていく過程がレポートされました。その後、現天皇家につながる朝鮮系渡来人がやって来て支配体制を確立することになるのですが、今回のエントリーは「中国系神社」「朝鮮系神社」の分布や歴史をみることで、朝鮮系部族による支配体制への移行過程に迫ろうと思います。
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posted by fwz2 at : 2012年01月09日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2012.01.04
現代人と天皇制について
ここからお借りしました
あけましておめでとうございます。
昨年は、3.11東日本大震災、福島原発事故、ドル危機、ユーロ危機、アラブの春、TPP加盟問題、深刻な雇用問題等、多くのことがありました。流れとしては混迷を深めてゆく感じですし、今年も見守らなければならない課題が山積です。 🙄
さて、皆さんは初詣に出かけられましたか?そして何をお祈りされましたか?
家内安全?合格祈願?厄除け?
唐突な問いでしたが、この山積の課題を棚上げにして(=お上にまかせて)祈ることが出来るのはなぜでしょうか。それは10/30なんでや劇場4 民の「お上捨象」とお上の「民の生活第一」という日本人の特異な体質にある民の「お上捨象(=お上まかせ)」があるからでしょう。新年なので、初詣を切り口にして「現代人と天皇制(お上)の関係」を見てみますね。
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応援、ありがとうございます!! 😀
posted by sakashun at : 2012年01月04日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2012.01.02
ブータンと日本を繋ぐものとは?
(ヒマラヤの日の出)
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
今年、縄文ブログの照準はいよいよ「日本人って何?」「これから我々はどう生きていくべきか、生かされていくか?」という民族論、未来論に移行していきます。
今日は、アジアの小国ブータンをとりあげます。
昨年11月、ブータン王国のジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王の来日は、大きな話題となりました。
ブータンはヒマラヤ山脈の南側に位置する人口約70万人、国土は九州とほぼ同じ面積の仏教国です。本来の国名は「ドゥック・ユル」=「雷竜の国」と呼ばれ、国旗にも白い雲竜の姿が描かれています。
(アサヒコム)
日本人がなぜブータンに惹かれるのか? そこには日本とブータンをつなぐ大きな共通項が潜んでいるのです。今日は、その秘密に迫ります:D
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いつもありがとうございます
posted by yaga at : 2012年01月02日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.30
「東北と縄文~2011年が伝えたかった事」
今年も後残すところ2日、大変な年でしたが2011年は多くの人の記憶に、そして未来の世界の歴史書にも永遠に刻まれる1年になると思います。そしてその中心に日本があり、東北があることは間違いないでしょう。あまりに多くの事があった今年、金正日の死去でさえ霞むほどの国際的にも多くの災害、政変、経済不況に見舞われた年でした。
縄文ブログでは年初に日本人の可能性というシリーズで始まりました。また、今年1年通じて改めて縄文時代からの日本列島史とその周辺を取り巻く中国、朝鮮の歴史を見ていきその可能性の基盤を探り続けてきました。現在、日本の特性である天皇制に追求のメスを入れるべく会員の方々の追求は続いています。縄文ブログの来年の照準はいよいよ日本人って何?これから我々はどう生きていくべきか、生かされていくかという民族論、未来論に移行していきたいと思います。
今回年末年始シリーズとして縄文―日本―天皇をテーマに3本の記事を選びました。
初回は縄文時代の中心地であり、今年の震災の当事者となった東北を扱ってみたいと思います。東北についてはこの縄文ブログでもこれまでいくつかの記事で扱ってきました。しかし、正面から東北って何?東北の持つ可能性や次代の日本における東北の位置づけを追求した論考はありませんでした。今回短期の1回シリーズになりますが、改めて東北を日本の縄文文化の原点、日本人の精神的本拠地ととらえその特性、可能性に言及していきたいと思います。
縄文人の原風景に欠かせないブナ
リンクよりお借りしました。
記事に入る前に今年の東北震災の地域すべての方々及び現在でも寒さに耐え避難所の生活をされている方々に、お見舞いと深い感謝の念を捧げたいと思います。
posted by tano at : 2011年12月30日 | コメント (5件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.28
「支配者から見た属国意識」~5、武士とは日本の支配史にとって何か
師走の候。
今年も残すところあとわずかとなりました。みなさん、どんな一年だったでしょうか。
東日本の震災を切っ掛けに、人々の意識が大きく揺れ動いた年だったと思います。
また、原発問題やTPP問題等、政治や経済においても激動の一年でした。
秋から始まったこの「支配者から見た属国意識」のシリーズも、こうした激動の時代にあって、『果たして日本人は考え始めるのか』というテーマで日本の支配者の流れとその意識の変遷、そして大衆の心の有り様を探ってきました。
第5回目の今回は、中世の「武士」の支配に注目してみたいと思います。
この時代もまた、支配者層が貴族から武士へと移る激動の時代でした。
平治物語絵巻 写真はこちらからお借りしました
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posted by yama33 at : 2011年12月28日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.25
「日本と中国は次代で共働できるのか?7」~鉄によってもたらされた中国の市場~
シリーズ「日本と中国は次代で共働できるのか?」の第7回目は、シリーズ第2回につづく市場編です。 8)
前回の記事で、夏・殷の時代に交換がはじまっていたことを書きました。特に殷の遺跡では、さまざまな異国の産物(青銅器、子安貝、軟玉、象牙など)が発見されており、殷の交換対象の広さを伺うことができます。また、青銅器については、王朝の絶大な権力を象徴するかのように大量に出土しており、殷人たちが、青銅器を農工具として使ったのではなく、もっぱら祭祀・武器・装飾用として利用していたことが分かります。つまり、殷人たちは、交換で得た青銅器等の装飾品を王朝の権威を誇示するための統合の道具として利用していたのです。
また、殷墟の墓地群から出土した青銅製の祭器・武器・装飾品のおびただしい数から、国家をあげてその原料である銅の輸入に取り組んでいたことがわかります。そして、それを可能にしたのが殷王朝に雇われた移動や情報収集に特化した交換集団だったのです。殷の交換は遠方まで出かけその土地の珍品、貴重品をかき集める方法で、おそらく交易や市場という段階ではなく、その前段階だったと思われます。
その殷代の交換集団は多くの物流ネットワークを持っており、彼らが周代で市場の原型を作っていきます。どのような変化をとげたのか、今回はその辺りから書いていきたいと思います。
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(カッピカピ)
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posted by hi-ro at : 2011年12月25日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2011.12.25
「支配者から見た属国意識」~4.支配者が作り出した天皇主義3
十六弁八重表菊紋 古代朝鮮半島勢力図 伊勢神宮宇治橋大鳥居
次号より続きです。天皇制、天皇主義は、北方遊牧騎馬民族である扶余(ツングース)系が、半島の土着の倭人系(韓人)や中国の農耕部族を征服・混交を繰り返しつくられ、伽耶王国(そのうちの金官伽耶等)の王族・貴族より、日本に伝わったとしました。これには、いろいろと異論がありそうです。例えば、支配・侵略目的で来た列島への渡来人が持ち込んだのか?それを阻止しようと国家体制を固めるために作られたものか?はたまた、天智天皇(百済)あるいは、天武天皇(高句麗:蓋蘇文?)が持ち込んだか?天孫思想をもつ唯一?の豪族である物部氏(高句麗系 敏達天皇派)が天皇家(天孫族・天一族?)とともに持ち込んだのか?さらに、そのルーツのスキタイ民族系が持ち込んだのか?解明すべき点がかなりありそうです。(別号で検証したいと思います。 )
いずれにしても、大陸・半島では、南方系農耕民族の文化に、新しく北方遊牧騎馬民族の文化が塗り重ねられたことは確かであると思います。
さて、そのおおもとのツングース系やモンゴル系、チベット系に代表される遊牧騎馬民族がどのような集団の統治の仕方や部族の統治の仕方をしていたのでしょうか?また、彼らはどういった思想をもって、半島や大陸で農耕民を支配したのでしょうか?そして、やがて、彼らの意識が変遷しながら列島に伝道されましたが、どのように変わっていったのでしょうか?そこを解明したいと思います。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
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posted by 2310 at : 2011年12月25日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList