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第3部 「庶民が作り出したお上意識」~お上意識の醸成過程

シリーズ「日本人はいつものを考えはじめるのか?」もいよいよ第3部に入ります。
これまでのシリーズ投稿を並べてみます。
第1部「弥生時代の解明シリーズ」
1倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか? [1]
2倭人は、どのように縄文人と融合していったか? [2]
3弥生時代は階層化していたのか? [3]
4神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立 [4]
第2部「支配者からみた属国意識」
1朝鮮支配者は日本に来てなぜ変化したか? [5]
2朝鮮支配者が来る前夜の状況 [6]
3支配者層はなぜ庶民に配慮したのか? [7]
4支配者が作り出した天皇主義1 [8]
 支配者が作り出した天皇主義2 [9]
 支配者が作り出した天皇主義3 [10]
5武士とは日本の支配史にとって何か [11]
この1部、2部で日本の縄文社会から弥生時代、さらにその後の大和朝廷以降の朝鮮系支配者による日本の支配者の側からの歴史史観を扱ってきました。
第2部では属国意識で凝り固まった朝鮮系支配者が日本に渡来して以降、すでに各地に根を広げていた弥生人集団をそのまま温存する形でその上に乗っかって支配した状況を扱いました。さらに日本に来た横暴な朝鮮系支配者が大衆に配慮するという政治手法を取る事になります。支配者も日本に渡来し、縄文体質に触れ、変化して行ったのです。
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リンク [12]よりお借りしました。
さて、今回の第3部ではこの支配者の意識を受けて、庶民はどのように上を見ていたのか?従ってきたのか、それを追求していきたいと思います。
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支配者が下へ配慮するというのが日本固有の特徴であるとすれば、それを促したのが全く無抵抗で受け入れた庶民の側の受け入れ体質でした。しかしこの受け入れ体質にはプラスとマイナスの側面があります。プラス側は縄文人が海外から来る様々な人、物を無条件で受け入れる歓待意識です。そこには警戒心が少なく、渡来してくるものを常に新しいもの、吸収すべき対象として積極的に受け入れました。これは縄文時代1万年間かけて作り上げた大陸の東の果、全てのものが終着する島国ゆえの産物です。しかし、今回扱う お上意識はこの縄文体質故の受け入れ体質から生み出された歪んだ意識=マイナスの意識なのです。
お上意識は現在でも残っており、2つの特徴があります。
一つは社会統合課題を政治家や官僚にまかせる、或いは口を出さないといった お任せ意識です。もう一つは、お上=役人や政治家の存在を軽視したり無視する お上捨象の意識です。
諸外国でも政治や官僚が庶民を支配し、庶民は従うしかないという形はありますが、それは独裁政権か奴隷社会のいずれかを指します。日本のような民主主義の国でこれほど大衆が政治に無関心あるいは無抵抗な国はかなり珍しく、その本質には日本国形成時に形成されたお上意識があるのでしょうか。この意識に支配されている以上、今後も変わる事はできないし、迫り来る危機に国民として適応できないという問題が浮上します。
さて、このお上意識を解明する為にまずはお上が登場する大和時代にタイムスリップしてみたいと思います。
お上の到来~水と油の関係で始まる庶民とお上
4~5世紀に日本に渡来した朝鮮系騎馬民族は大量の武力と大陸の進んだ鉄技術、騎馬技術を擁して土着民であった弥生人を征圧します。しかし武力を用いたのはせいぜい脅しや見せしめ程度で、実際にはほとんど戦いなしで弥生人を従える事ができました。
この朝鮮系渡来民は弥生時代に日本列島に渡来した江南系の中国人とは根本的に異なっていました。江南系渡来民は土着縄文人に融合して彼らの精霊信仰を祖霊信仰に変えながら共同体を温存させます。首長として集団を統合しますが、支配―被支配の関係ではなく、神事によって緩やかに統合されていました。また、氏族の集団同士の関係も古墳を作り「連合」という形で争いは止揚されていたのです。彼らの中には異国の地であたらな集団を作るという意識はあっても土着の民を武力で支配するという意識はほとんどありませんでした。
ところが朝鮮半島で既に戦争、略奪を経験し、その中で、ある時代まで勝ち抜いてきた騎馬民族は発想が全く違っていました。
元々遊牧騎馬民族出身の彼らは動物の去勢の原理を利用して大衆を支配する手法を身につけています。さらに列強中国に挟まれて戦乱を生き抜く中で下(大衆)には横暴、上(中国)には従順という歪んだ属国意識を形成していました。
そのような支配者が日本に渡来したのです。当然それまで戦争をほとんど知らない弥生人はあっという間にその配下に落ちます。その時の弥生人の意識は武力をちらつかされ、やむなく従ったという状態だったでしょう。このやむなくの意味は共同体を守る為に首長が取った選択でした。もちろん別の選択肢として踏み留まって戦うという選択肢もありました。しかし彼らが選んだのは前者でした。
このように後に「お上」となった勢力は圧倒的な力の差をもった武力集団で当時の弥生人にとっては明確な敵でした。当然大衆とお上は水と油の関係で全く交わる部分はなかったと思われます。
この水と油の敵意識から庶民は時の支配者を「お上」と呼び、決して相容れない関係を作り出しました。しかし敵意識があるにも関わらず戦いから避けたのは確かで、お上意識とは逃避でもあったのです。
さて、この水と油の関係はその後どのようになっていくのでしょうか?
3つの段階に分けてこの関係の変化を見ていきたいと思います。
第一段階 :奈良時代~平安時代中期⇒お上意識の生成過程
お上が始めた律令制はわずか50年しか続かなかった。
なかなか根付かなかったお上の政策~政策を変えざるを得なかったお上と、無視することで抵抗し続けた庶民。
 

朝鮮系渡来民の支配集団=朝廷は白村江の敗北によっていよいよ唐からの支配圧力を現実のものとして受け始めます。そこから数十年は防衛施設の建設、朝廷組織の集約を図り、やがて奈良時代初頭に大宝律令の発布と併せていよいよ中国型の律令制度を導入します。朝廷組織に加え、戸籍制度、徴税システム、土地制度など中国を真似た制度が日本に大量に登場します。特に大衆を支配するための租庸調の制度は大宝律令と同時に発布され、また地方の国造は郡司となり、それを中央から統括する国司が配備されます。
しかし、この中国式中央集権体制はわずか50年足らずで完全に崩壊、土地制度は全く根付かず、朝廷の繰り出す政策はどんどん破られ、平安時代後期には全く異なる税制、統合体制に変化していきます。
723年三世一身法⇒743年墾田永年私財法⇒765年加墾禁止令⇒9世紀 荘園開発
へと土地の所有、開墾に関する法令が変遷していきます。特に課役が厳しいと庶民は土地を捨てて逃亡したり、戸籍を偽って(僧や女)懲役を免れたりして抵抗しました。
本国中国であればさながら死罪に値するこの大衆の背任行為を朝廷は抑え込むことができず、追認し制度を変えざるを得なかったというあたりが実に支配者と大衆の関係を象徴しています。つまりこの時代の大衆と朝廷の関係は兵力であり生産主体の大衆がむしろ上にあったという事を示しています。したがってこの時代の共同体は多くは旧来のまま温存されたと思われます。

第二段階 平安時代末期~鎌倉時代⇒武士が登場するもお上意識は残存
お上と庶民が互いに利用し始めた時代、さらに武士がお上の手先として利用され、武士はお上を重用した。お上は下に配慮、庶民はお上を無視が定着。

大衆とお上の関係は徴税が緩かったり、大衆の納得の枠の中であれば許容されますが、それを上回ったり、一方的な搾取になると申し立てや反乱が起き、朝廷は何らかの手を打たざるを得ないという関係にありました。
お上を軽視する体質が定着し、お上の決めた法制が庶民に浸透しないというジレンマにこの時代もあったと思われます。しかしながら、庶民からすればお上の存在が明確に意識された時代でもあり、自らの存在(共同体)を脅かす行為に出れば強烈に反発したのもこの時代でした。
鎌倉時代に武士誕生を迎えますが、平安末期には唐の圧力がほとんど無くなったことを契機に中央(お上)は武力を完全に放棄し、贅を尽くした朝廷生活に埋没します。有事の際には地方から兵力を召集するという形態を取るようになって地方の武力が増大、併せて海賊、盗賊がその隙間を縫って暗躍するようになります。戦乱が各地で起こるようになり、村落自治はそれぞれで自衛軍を備える必要から用心棒としての武士を抱える事になります。これが後の武士登場のきっかけとなっていきます。
鎌倉時代に入ると武士という階級が認められ、武士は朝廷(=天皇)から任命を受けて地方の統轄を行なうようになります。しかしこの武士の登場は逆にお上の力を高める事にもなっていきます。庶民の側から発生した武士は心根ではお上を無視しながら、己の地位を向上させる為にお上の威光を利用していきました。捨象しながら利用する。この時代のお上も武士から見て同じ構造にありました

第三段階 室町~江戸時代⇒惣村の始まりによって地方自治が形成。
自治組織は村の事は考えるがそれを統合するお上の課題(=社会)は捨象⇒社会捨象

14世紀から15世紀にかけて惣村という村落形態が畿内を中心に登場します。ちょうど武士が登場して300年経過した時代です。この惣村が現在の村落共同体の原型になっており、地方自治の前段にもなっています。惣村では入会地を設け、肥料や用水を共同管理、荘園領主からの収奪に対する減免要求、国人の非法に対する抵抗、戦乱、略奪に対する自衛などの目的がありました。寄り合いや祭祀行事を定例化し、惣村内での規範として惣掟を作ります。国や領主に対する目付け機関となるだけでなく、いざとなれば土一揆となって武力行使する主体でもありました。
この時代のお上とは領主であったり、地域を仕切る武家だったのでしょう。
荘園制度で一旦崩れた村落共同体の絆が再生されていく課程です。土一揆などで一見庶民も武力対決したように見えますが、ほとんどは厳しい徴税を受けながら、共同体内での充足を作り出し、耐え凌いだ時代でした。社会課題を担うお上はその共認の外にあり、庶民にとっては逆らえないが存在は認めたくない=無視という位置にあったと思われます。この惣村の形成とは村意識の形成過程でもあり、お上意識が社会捨象に昇華した時代であったとも言えます。

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お上と庶民 [15]よりお借りしました。 
この3つの時代を経て見て来ましたが、いずれもお上捨象の姿勢は一貫しています
一揆や反乱が時代の中で何度か発生しますが、中国の農民の反乱に比べればはるかに小さく、総じて従順にお上に従っていたと言えます。また、一揆をおこしたり訴状をお上に上げる際に庶民の意識は共同体の存続が危ぶまれた時に限られています。
一方でお上の方は徴税を厳しくしたり緩めたりしますが、あくまで共同体が維持できる範囲の中でその強弱は決まっていました。即ち、庶民もお上も秩序維持で課題が一致していたと言えます。
庶民側から見れば共同体さえ維持できればお上の為政には口を挟まない(おまかせ)
お上の側からすれば、共同体さえ守っておけば多少の厳しい徴税は可能。
結果、集団を超えた課題は全てお上が取り仕切り、庶民はその為の税を納めるという関係に時代を経て終始していきます。

しかし、このお上主義とは結果的には共同体の秩序維持の為に形成された意識と言え、裏返せばお上に逆らえば共同体を壊されるという恐怖と隣りあわせだった事を示しています。
結果的にお上を無視し(口を出さない)ながらもお上に服属すると言う矛盾した関係が形成されるのです。しかしここまではお上の共同体への配慮と大衆側のお上への期待が噛み合っていた時代、住み分けが成されていた時代でした。
言い換えれば、庶民はお上に甘えて社会の事は一切お上に任せるという社会捨象の体質が作られていった過程でした。

しかし、明治以降の市場社会に入ると一変します。市場社会に入りその主役である金貸したちは秩序崩壊をその成長の源泉としてきました。以後の歴史はお上からの大衆配慮が消えていった時代です。また敗戦以後の都市化により共同体は崩壊、今や庶民にとってお上とは敵ではあっても捨象できない存在になっているはずです。
現在、お上(官僚)が暴走し、社会課題がこれだけ登場しながらも、誰も社会の事を正面から考える事をしないとしたら、このお上意識とは闘いから逃避する意識であり、手に負えない社会を考える事を放棄=捨象した意識ではないでしょうか?
お上意識の形成過程を図式化してみます
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しかし現在また、若者を中心に新たな潮流が起きています。お上に任せるのではなく自らが考える、社会を変えていく意識が登場してきています。事例は悪いですが、橋元知事や維新の会が若者に受けが良いのも彼らの意識の代弁者と捉えたのでしょう。また、この成人式で若者たちの意識の中で社会を変えたいという塊が登場しています。お上意識からの離脱です。この可能性の追求についてはまた後の章で扱っていきたいと思います。

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