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「日本と中国は次代で共働できるか?」6~春秋戦国時代~秦・漢時代の支配・戦争の歴史

Posted By tiwawa On 2011年12月18日 @ 3:05 PM In 未分類 | No Comments

こんにちわちわわです。
今回は春秋戦国から秦・漢の時代の戦争・支配の歴史を扱います。
夏・殷・周は部族連合の国家でしたが、周末期には各部族の力が拮抗してきて、周の領土拡大が停止し、土地の切り売りによる細分化と村落共同体の解体が進んでゆきました。
こうした中、部族や農民を吸収再編して力をつけてゆく国がいくつか登場し、春秋戦国時代へと突入してゆきます。
おおまかに時代の流れを追っていくと、
周王朝の衰退(~B.C.770)
B.C.771第12代幽王の外交失策により、西方の遊牧民犬戎の侵入を許すこととなった周王朝の権威は縮小し、中国最初の戦国時代に突入する。
春秋時代(B.C.770~B.C.403)
春秋時代には、「斉の桓公」「晋の文公」「宋の襄公」「秦の繆公」「楚の荘王」という有力な諸侯が現れ、これを春秋五覇と言う。
後半になると、南方の「呉」「越」が力をつけてくる。
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戦国時代(B.C.403~B.C.221)
B.C.403晋が韓・魏・趙に分裂、ここから戦国時代が始まる。
「燕」「趙」「斉」「魏」「韓」「秦」「楚」の七雄が残った。
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秦の天下統一(B.C.221~)
戦国時代後半、燕・趙・斉・魏・韓・楚が“合従策”を結んで、力をつけてきた秦に対抗しようとするが、B.C.221始皇帝が本格的に東征してわずか10年弱で、天下は秦によって統一された。
おおまかにつかんだところで、これらの時代がどんな時代だったのか?細かくみてゆくことにしましょう。
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【春秋と戦国って何がどう違うの?】
~春秋時代は、覇者を頂点とする部族連合、戦国時代は戦争と外交による武力支配だった~
春秋時代の覇者とは、周王朝の延長で一番力の強い氏族が王としてあがめられ、諸侯間の紛争に割り込んで強大な武力を背景に有無をいわせぬ調停役を担い、諸侯に号令して異民族の進出をふせぐ役目を果たしていました。
春秋時代の戦争は4大戦争といわれる戦争でも期間はせいぜい1日、長くても2日でした。本格的な殺傷をともなう戦争は兵器や兵力が整う戦国時代になってからです。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point82.html [3]
戦国時代になると、各国は、強国が弱小国を滅ぼして直接支配していくという領土国家へと転身し、他国との侵略・闘争圧力の下、国家体制の整備が急速に進められます。
農民各々の収穫量に応じて税を徴収される魯の税制や、晋の「州兵の制」のように地域に兵器を整備する経済的な義務を負わせたり、軍備を充実するための税制度へと移行していく国が次々と表れます。
http://www.geocities.jp/fukura1234/rekisi/heisyo3.htm [4]
それまで血族・宗族を中心とした政治体制から、優秀な人材を血族に関係なく選ぶ新たな封建・官僚政治が始まり、今までの血族の祖霊信仰に替わる新しい統合軸が必要となり、孔子の儒教等、諸子百家の思想が生まれたのです。
【中国の思想ってどのようにして生まれたの?】
~春秋戦国は、中華思想の原型をつむぎ出した時代~
春秋戦国というのは、乱世という印象がつよいですが、実際には殷・周がもっていた農業生産が騰り、新興の地主が力を得、さらには、官僚、戦士、職人、商人、あるいは思想家という非農耕者を社会が余裕をもって食わせ得るようになったという面でとらえたほうが、より実態にちかいでしょう。
それを可能にしたのが鉄という生産用の道具です。鉄器の普及が、灌漑土木をさかんにし、農地をふやし、生産性を向上させ、商品生産をさかんにし、中国史上最も進化と発展をうながし、華々しく可能性放散した時代を築いたのです。
思想史的にいえば、諸子百家の時代といってよいでしょう。
社会のなかに欲望と競争心という種が発芽し、それを成長させるための好奇心を肥やしとし、実現するための観念群が一斉に開花するのです。
百家というのは百種類ほどもある思想家とその団体ということですが、整理すれば、儒家、陰陽家、墨家、法家、刑名家、道家、縦横家などとなります。
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あらゆる個性が、それぞれに適合した思想をつむぎ出し、たがいにその異とするところを論争しあう現象がうまれたのは、中国史上最大の壮観というべき光景でした。
「士」という、自分の倫理的、思想的責任においてのみ進退する自由人がむらがってあらわれ、その多くが、「百家」という思想団体のいずれかに属していた、という現象も、ヨーロッパの18、9世紀を連想させる文明の爛熟現象であるかと思われます。
各国は、諸子百家という、いわゆる浪人をかき集め、国家統制の原理と、生産力向上のための技術学問、そして、他国との外交の策謀のために都合のいい人材を登用しました。これにより、自国の正当化と他国とのだましと駆け引きをものすごい深いレベルまで進化させてゆくのです。
この時代を通じて、中国人の自己中心、ご都合主義、独善、責任転嫁といった独特の意識が形成されていったものと思われます。その原動力となったのが、私権獲得の自由競争だったのです。
そして七雄の中から秦が頭角を現してきます。
【なんで秦は中国を統一できたの?】
秦は中国大陸の西北角にあり、半農半牧の非漢民族が雑居していました。これらを統御するには法律と刑罰と鞭による統制主義による以外になく、秦は早くからその方式を採用し、法家の国とされていました。
中国では華北で鋳鉄技術が発達し、高温で加熱溶融するため炭素を吸収し、硬いが脆く、主に農機具として利用されてきました。一方江南地方、特に四川は、良質な鉄鉱石を産出し、西アジアから錬鉄技術も伝わり、硬くて鋭利で殺傷能力の高い武器の製造が可能となり、四川は一大製鉄地帯であったことが分ってきました。
秦はこの四川を押さえたことにより、地をふかくうがつ農具も、するどい兵器も他の六国に比べてはるかに豊富でした。
http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron02.pdf [5]
この秦がもつ統制主義生産力兵器の優越が、この国をして他の六国をしのがせ、秦王政にいたり、やがて六国を滅ぼして、奇跡としかいいようがない大陸の統一を遂げさせたのです。
【ファーストエンペラー(始皇帝)ってどんな人?】
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」に秦と始皇帝を表す巧みな表現があります。
秦の始皇帝。かれが六国を征服して中国大陸をその絶対政権のもとに置いたのは、紀元前221年である。それまでこの大陸は、諸方に王国が割拠し、つまりは分裂している状態こそが常態であるとされてきた。統一の方が異常であったといっていい。
彼以前、地上に君臨する者として、国々に王というものがいた。貴族もいた。ところが、かれはそれらの王制や貴族を一挙に廃してしまった。以前は、人民は生まれながらに人民であり、生まれながらの王や貴族を氏神に似たものとして尊敬し、その天賦の地位を人民はあらがおうとしなかった。それでもって大地は治まっていた。ただ、大飢饉があると人民どもは群れをなし、食を求めて流浪し、王や貴族をかえりみなかった。それだけのことであった。
始皇帝は、なんとなく統治し、統合されているという過去のあいまいな制度のすべてを一掃した。
それにかわるに、中央集権という不思議な機構をもちこみ、大網のように大陸にひろげ、精密な官僚機構の網の目でもってすべての人民をつつみこもうとした。
包み込みの原理は法であった。法でもって刑罰や徴収、労役など全てが運営され、強制されるなどは、今までこの大陸の人間たちが経験しなかったものだった。
この皇帝制度の創設者は、ひどく土木事業を好んだ。人民という人民が、かれの宮殿の普請か、かれの生前墓の建設工事か、または、辺境の匈奴を防ぐための長城の工事か、あるいは、首都咸陽から八方に通じている皇帝専用道路の工事に駆り出されていた。
「ただ1人が、億兆の人間を所有している。」というかれの権力思想は、具体的には無数の人間をそれらの郷村から追い出して土工にしてしまうということでもあった
そのほか、ごくささいな理由で多数の人民を虐殺してみせるということにおいても示された。
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これらの虐殺は、かれの他の統一事業と、基本の思想としてひとつのものであった。それまで文字が地域によって異同であったが、かれはそれらの多くを捨て、整理し、漢民族の使う文字を一種類にした。度量計をつくり、量りも統一した。貨幣も統一した。かれはまことに多忙であった。
もっとも重要な事業のひとつは、天下を巡幸して彼自身の顔を人民どもに見せてまわるということだった。この点、かれは、歴史的経験をへた後世の皇帝たちよりも不慣れであったといえるだろう。たとえば後世の皇帝なら帝都の宮殿を荘厳にし、百官百姓を礼をもって縛り、皇帝がいかに尊貴なものであるかを示すだけでよかった。そのために礼教の学である儒教が作動した。しかし、始皇帝は最初の皇帝であるがために、自分を居ながらに荘厳にしてくれる儒教の使い道を知らず、逆に儒教を禁止し、儒書を焼き捨てさせたほか、儒者四百六十余人を生きながらに穴に埋めた。
このように同類圧力によって華々しく進化した産業も経済も思想も独裁者1人の意志に封じ込まれ、以後、中国の停滞と自虐的な破壊の歴史が繰り返されてゆくことになるのです。
【漢はどうやって成立したの?】
始皇帝の死後、宦官による腐敗政治が繰り広げられ、農民は工役に苦しめられます。
そうした中、土木工事に駆り出された農民の陳勝ら一行がその役につく行程中、天候不良に見舞われ、予定日時に到着できそうもなくなってしまいます。間に合わなければ殺される、行かなければ殺されるという、にっちもさっちもいかなくなって、「行くも地獄、帰るも地獄」と奇声を上げ反乱を引き起こします。これが中国最初の農民の反乱「陳勝の乱」です。
この乱に乗じ、楚の遊牧民支配層出自の浪人である項羽と、漢の農民の出自でゴロツキをしていた劉邦が中原を征し、20年足らずで秦王朝は滅んでしまいます。
百選百敗だったけど優秀な家臣に恵まれ民衆の共認を獲得した劉邦軍が、英雄ではあったものの残虐で独裁的であった項羽を、最後は儒家の策謀で四面楚歌に追い打ち、400年続く漢帝国を建国します。
【漢は秦の何を引き継ぎ、どのように国家を統合したの?】~漢の徳化政策と朝貢制度~
秦・漢の皇帝の理想は、地上のあらゆる人間、牛馬にまで及ぶ全世界が、皇帝の「徳に化せられ」、支配者皇帝の一部分となり、その意思を奉じて作用する状態の実現でした。
「徳化」とは、中国の君主の徳に相手が“同化されること”で、一人の中国の君主のもとに、あらゆる地域の人間が、また民族が、中国の君主の権威高揚のための手足となり、一人のためだけの世界が成立することを理想として打ち出されたものです。
しかし、漢も国内においては郡県制度を立てて漢の礼・法を徹底させ、諸侯王国といえども漢の礼・法を奉ずるのが原則ではありましたが、生活習慣の違う異民族を支配する場合、漢の礼・法を相手の国内へ徹底させることは容易でなく、礼・法の徹底度の相違を容認しなければなりませんでした。
そのため現実的には、「徳化」の程度、ひいては礼・法の浸透度の相違をもとにして、
『内臣>外臣>外客臣>絶域の朝貢国>隣対の国』という区別を立てて対応したのです。
①『内臣』:郡県制と封建王国制を併用した郡国制のなかの臣下で、漢の礼・法を奉じる。
②『外臣』:君主は漢の礼・法を奉じるが、その支配下では民族独自の礼・法を奉じる自治を保障された家臣。
③『外客臣』:独自の政治勢力として自立性を持つ同盟者。
④『燐対国』:東夷、西戎・南蛮・北狄といわれる敵対関係にある異民族。
※朝貢国は外臣に属する。朝貢制度は、徳化政策の現実対応として登場した制度。
このように、秦の時代に形成され漢に継承された唯我独尊の『徳化』志向が、中国の思想の底流に刻印されたのです。
前漢の時代は帝国の安定と共認形成のために、さまざまな妥協を許した時代です。後漢になると武帝が秦の始皇帝の再来として登場し、帝国権力の強化に乗り出します。「歴史は繰り返す」といわれるように、武帝の死後、帝国は混乱し、五湖十六国の戦国時代に再突入してゆくことになるのです。
【まとめ】~春秋戦国時代は中国史上もっとも自由だった時代、それを破壊したのが秦・漢帝国~
①周代に導入された私権活力が、周の凋落により強国間の同類闘争に転化したのが春秋時代です。この同類圧力の下、私権拡大と呪術に変わる統合原理の要求から諸子百家が登場します。
②戦国時代になると、錬鉄技術の発達から兵器が登場して本格的な戦争が始まり、同類圧力がより一段階上昇します。各国は富国強兵国家統合の必要から、鉄器を主とする流通市場や諸子百家の観念群が飛躍的に発展してゆきます。
この時代が中国史上最も私権活力が上昇し、独自の進化をとげた時代といえるでしょう。
③秦は、東洋的な集団の価値観を破壊し、西洋的な皇帝の個を頂点とする権力構造を導入した特殊な時代といえるでしょう。この違和感から秦は早々と滅亡し、再度東洋的な価値観で国家統合に取り組んでいったのが漢の時代です。
氏族や家族といった小集団ながらも、集団性だけは残存させたのが、西洋と東洋の決定的な違いだと思われます。
次回は市場についてこの違いを鮮明にしてゆくはずです。


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