2007.06.24
縄文時代:女性の役割~育てる能力を生かした!-栽培
今晩はさーねです 😀
最近、思うことですが、縄文時代の出土品や遺跡は日本全土で星の数ほどあると思います。遺跡の形や出土品はその時代の縄文人の行動を解明する上で大事な物差しとなり、様々な解明がなされていますが、何かその時代を解明する上で足りないなーと感じることがあります。それは、やはり縄文集団の統合軸,男女の役割等の人間の意識構造です。その意識構造を学ぶことで初めて、現代社会に生きる歴史を学ぶということになるのだと思います。 😉
そんな問題意識をもって、今日は、女性の役割に焦点を当てたいと思います。とても、面白い論文報告を見つけました。
国際縄文学協会紀要 第1号 2004 国際縄文学協会「熊本県上南部遺跡の土偶」
もちろん、女性は「子育てが役割!」男には絶対真似ができない役割ですね!この「育てる」という能力は女性にとって、やはり大事な能力であり、子育てに限らず、集団生活において様々な「役割」へ生かされていたと考えられるのです。

この土偶…なぜか常に核となる遺跡から出土するそうです… 😉
考古学を超えて、一緒に追求しましょう! 
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posted by sawatan at : 2007年06月24日
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2007.06.23
中南米の歴史 古代人の移動の謎
インカ帝国を始めとする中南米の歴史はまだまだ解らないことだらけです。 🙄
しかし、考古学的な検証によれば、約12000年前には、現在のペルー、エクアドルの海岸線地帯に古代文化が栄えたことが分かっています。狩猟、採集、漁猟などを中心とした文明は、やがて農業中心の生活に移り変わり、8000年以上繁栄したとされています。
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しかし、1世紀ごろまでに、かつて栄えた文明の種族の多くが、アンデスの高山地方に移り住むようになります。これはなんででしょうか?
この先を考える前に、ポチッポチッとお願いします。
posted by hiroshi at : 2007年06月23日
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2007.06.22
縄文時代のなんで
こんにちは、カッピカピです。
いつも、このブログを読んでくれているみなさん、ありがとうございます。みなんさんの応援のおかげで、ここ最近は人気ブログランキング一位をキープし続けてることが出来ています。今後もみなさんの期待に応えるべく、そして、ランキング一位にふさわしいブログにしていくために、改めて、縄文時代についての追求テーマを設定してみたいと思います。
その新たなテーマは・・・・・
その前に、ポチッ↓とよろしくお願いします。
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posted by hi-ro at : 2007年06月22日
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2007.06.21
古代アンデス文明のなぞ

黄緑に見える部分がインカ文明の版図
■古代アンデス文明のなぞ
古代アンデス文明は今から約12,000年前、現在のペルー、エクアドルの海岸地帯に古代文化が栄えそしてスペイン人に滅ぼされたインカ文明まで続いた。
因みにインカ文明は15世紀中~16世紀中で南北が約4000km 面積が114万km2(日本の約3倍)人口が1000万人(東京都の人口に匹敵する)そして一人の国王によって統合されていた。
続きは、下をおしてから
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posted by ryou at : 2007年06月21日
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2007.06.19
支配された民衆が求めた道教
前投稿にて、父系転換に伴い、国家による民衆支配のために宗教が必要とされたことを紹介しましたが、では一方の支配されていた民衆の側はどうだったのでしょう?
●腐敗する国家と、疲弊する民衆
>東漢の終わり頃、自然の力よりさらに強大な社会的な力によって抑圧・搾取され苦しめられた民衆は、耐え難い苦難から逃れるために宗教を強く求めた。
>東漢の順帝以後、政治は腐敗し、宦官や外戚が権力をもてあそび、気風に節操はなくなっていた。桓霊の時代には、士族の名士や太学生が朝廷の政治を批評して宦官を糾弾し、党錮の獄[特定の党派の人々を弾圧したこと]が起こり、知識人を惨殺し、世論を弾圧した。朝廷は民衆の支持を失い、国家は大本から揺れ動いた。官僚は横暴になり田地を併合したので農民は土地を失った。日増しに難民は増え、災害が続き、経済は崩壊した。中国の家長制の農業社会の中でも、朝廷が冤罪事件を起こし、しばしば知識人を惨殺した。社会には厖大な難民の階層が出現し、盗賊や流賊が暴れ回り、さまざまな教派や秘密結社が競り合い伝播した。こうしたことは、往々にして国家が滅亡する前兆である。当時、「漢の世は衰えた」というのは一般的な認識で、人々は平和で豊かな新しい時代が訪れることを願っていた。
>漢末に社会不安が増すと、国家に従属していた儒教は人々の心をつなぎとめておけなくなり、この機運に応じて必然的に道教が生まれた。道教は儒教に代わって世を救い、帝王を助けて太平の世をつくるためのものだった。道教は、儒家の倫理教条の影響を受けて仙人に成るための必要条件を作成した。これは道教が儒教に取って代わったのではなく、宗法封建の秩序を守るために儒教を助けていたということである。道教は封建皇帝のための「第2の儒教」として機能したのである。
●なぜ道教が求められたのか?
>儒家の礼教は専制制度を論証し社会教化する行為規範であり、仏教は人々を脅し誘惑し麻痺させて奴隷を安心させる精神的な麻薬だった。
>三大世界宗教が霊魂の解脱を追及し、来世の利益を重視する。三大世界宗教は死後に天国という楽園で生活することを考え、冷淡な態度で社会の現実生活に対処する。
>道教は原始社会で自然発生した自然宗教と階級社会で作られた倫理宗教の結合体である。避けようのない死や災厄は、最初は自然の力によってもたらされたが、その後は封建社会の国家機関による社会の力によってもたらされた。だから、道教の神仙は死や災厄を克服し、逍遥自在であるが、それは自然を超えた力を神格化しているだけでなく社会を超えた力も神格化しているのである。道士は、自然の力や社会の力を超越し、理想の現世利益を獲得するために修練するのである。
>原始社会の歴史は階級社会の歴史より長い。母系氏族の原始宗教は、長い歴史の中で、女性崇拝の習慣風俗と思想という伝統を作り出し、それは長い年月を経ても伝統文化の中に残っていった。伝統は社会や民族の中で最も保守的な力であり、一朝一夕に形成されるものではない。しかし、いったん民族や社会の伝統となった文化要素(宗教信仰、思想観念、社会風俗、政治経験、生活習慣など)は、伝統の惰性のために、無理に放棄したり一刀両断に断ち切ったりすることはできない。母系氏族社会の原始宗教が伝統という染料を中国文化という大きな瓶の中に入れてしまった以上、その後いくら父権家長制という宗法礼教の男尊女卑の伝統が優勢になっても、やはり古代から蓄積してきた文化の中に女性崇拝の痕跡を見ることができるのである。現存している伝統文化は必然的に祖先の情報を含んでいるので、道家や道教文化の中に古代の母系氏族の原始宗教の痕跡が見られるとしても不思議ではない。
★ここに歴史を学ぶ意味がある。
儒教は父権家長制を支える序列規範に過ぎず、仏教は現実を麻痺させる麻薬に過ぎなかった。
それに対し道教は、父系制に転換するはるか以前より民衆の生活の中で自然発生した原始宗教であり、民衆のDNAに刻印された本源的な規範を色濃く残すものであったからであり、だからこそ民衆は道教に可能性を求めたのだろう。
現在の日本の置かれた状況も漢末と同じようなものだ。否、日本ばかりでなく人類的な危機を迎えた状況ではもっと深刻だろう。
今こそ歴史を学び、はるか太古の先人に学び、生かし伝えていく必要があります。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
もいちど、応援よろしくです。
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posted by nishipa at : 2007年06月19日
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2007.06.18
古代中国における父系制への転換と宗教
こんばんはetoです。
前回の投稿では、道教が古代中国の母系氏族社会を源流とした自然宗教であることを紹介しました。リンク
今回は、母系から父系に転換し、国家の成立とともに宗教がどのように関わっていったのか、前回同様に仙学研究舎さんより紹介しながらまとめてみました。
少し長くなりますが、お付き合いを。
●道教の定義とは?
>道教は中国の古代の母系氏族社会で自然発生した原始宗教である。
その変化の過程で、巫術禁忌、鬼神祭祀、民俗信仰、神話伝説やさまざまな方技術数を取り入れ、道家黄老の学を旗印と理論的な柱とし、儒家・墨家・陰陽家・神仙家・医家などの諸学派の修練理論・倫理観念・宗教信仰なども取り入れた。
人々を救い、長生し仙人に成り、さらに道と一つになることを総合的な目標に掲げ、神学・方術なども含む雑多な宗教体系である。それは漢の時代に特定の歴史的条件のもとで絶えず仏教の宗教形態を取り入れ、次第に発展し中国の伝統的民衆文化の特色を備えた宗教となった。
様々な要素を取り入れて統合しているわけですが、それ故に道教はまるで得体の知れない物であると言われています。
要するに、
・道教の源流が母系氏族社会で自然発生した原始宗教であること
・漢の時代に黄老の学が神学化・方術化したこと
・中国の儒家・道家・仏教およびそのほかのさまざまな文化要素を取り入れたこと
・その目標は人々を救い、長生し仙人になり、道と合し神に通ずること
●母系から父系への転換
>仰韶文化の時代がちょうど母系氏族社会の最盛期に当たる。当時は洪水の多い時期だった。
それぞれの部族が治水事業を行っていく中で次第に文明が発達し、父権が重んじられるようになった。
>禹の時に洪水は克服され、夏王朝がはじまる。これ以後、中国は次第に父権家長制の階級社会へ移行し、原始宗教は次々と変革されていった。
>殷、周の時代には、父権の原始宗教の代名詞ともいえる宗法礼教が確立され、ついに男尊女卑の新しい伝統によって統治されるようになった。これが儒家の文化の始まりである。周代には世卿世禄制度が施行され、学問は官のものとなり、官と師が一つになった。
>春秋戦国時代になると、封建地主経済が周代の宗法領主経済に取って代わり、世卿世禄制度は衰えた。階級関係(君、卿、大夫、士、庶民、奴隷)も変化し、貴族と庶民の間に介していた「士」の階層が急速に拡大した。また伝統文化の担い手も、もとの封建的な身分から解放された。士の階層は自由に流動できる四民(士・農・工・商)の首位となり、社会的な理想・文化素養・社会的責任感をはっきり認識していた。厳密に言うと、中国の古代の知識階級はここに至って出現したのである。
>しかし、母系氏族の原始宗教の伝統は民間に隠れたり外の部族へ流入し、途絶えることはなかった。中国が儒家の父権家長制によって統治されるようになってからも、道教では女仙を賛美し女性成仙が語られた。道教の中には、原始宗教の女性崇拝が残されているのである。
つまり、
・父系転換→父権家長制の階級社会→儒家の台頭
・しかし道教は民衆のなかで途絶えることはなかった
●父系転換により、なぜ原始宗教が変革されたのか?
>秦・漢の時代、中国は一つの封建帝国に統一されていた。皇帝は家長制の独裁政権を強化するために、鬼神迷信を利用して民衆の思想をコントロールする必要があった。中国社会の低層の農民・漁民・きこりなどの労働者は文字が読めないような状態だったので、彼らに《論語》、《礼記》、《孝経》などの儒家の著作を見せても理解できなかった。彼らが謀叛を手助けしないようにするためには、宗教によって教化するしかなかった。
>漢代の皇帝は、このような政治的な必要性からまず周代の伝統だった宗法礼教を復興することに力を注いだ。続いて神をでっちあげ、儒家を宗教化していった。御前会議を開いて儒家の宗教化をあおりたて、《白虎通》を国家の教科書として欽定し、「三綱五常」を神聖化した。また、孔子を教主として奉じ廟を建てて祭った。「忠孝」を官吏を選抜する尺度とし、全国で家長制を推し進めた。
>秦の始皇帝や漢の武帝は封禅を行い仙道を求めて古い宗教の精神を復活させ、漢代の政治・学術は宗教という濃い霧に覆われた。東漢の時代には讖緯神学が儒家の正統派となり、儒家と伝統的な宗法礼教との結び付きはどんどん緊密になった。古代の宗教の亡霊は完全に儒教に取り付いたのである。
つまり、
・封建帝国を統一し、人民を統治していく為には宗教が必要であった
・父権家長制を強化するために儒家を宗教化した
まだまだ続きますよ。
ひと息いれて、応援よろしくです。
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posted by nishipa at : 2007年06月18日
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2007.06.17
古代中国:父系氏族社会への移行
前回の「古代中国:母系氏族共同体の特徴」に続き、父系社会の始まりについて紹介します。
(「図説中国文明史1先史文明への胎動」より)
約4000年前になると、黄河流域と長江流域の氏族集落は相次いで父系氏族社会へと移行します。最初それは父系の血族集団で、かつ生産体系でもありました。集団は、生産力の増加にしたがい、いくつかの父系親族の共同体に分かれます。父系制への移行は、核家族と私有財産の出現とあいまって、私有制の社会へと変化していきました。
詳しくは、ぽちっとしてからどうぞ。

この写真は、陝西龍山文化の遺跡で、玉人の髪飾りという装飾品です。
集落の首長か、崇高な地位にある神職シャーマンの姿だと推測されている様です。
posted by maeyan at : 2007年06月17日
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2007.06.17
中国文明:『宦官』が物語るもの~個人まで貫通した権力意識
今晩は、さーねです 😮
今日は、中国の『宦官』の歴史を調べてみました 
宦官とは…
中国で、貴族や宮廷の後宮に仕える去勢
された男子。元来は宮刑に処せられた者を用いたが、王侯の側近となるため、去勢を志願する者もでた。西アジア、ローマ、ギリシアなどにもみられる。
諏訪春雄通信37
去勢…日本には、宦官制度は存在しなかったし、僕にもなぜそこまでするのか
想像がつきません 🙁

『宦官』制度に至ったのはなぜか 
可能な限り、その当時の事実構造に迫ってみたいと思います

今日参考にさせていただいたサイトは、学習院大学教授の諏訪春雄先生のサイトです 😮 

中国の宦官
😀 毎回、応援ありがとうございます
😀

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posted by sawatan at : 2007年06月17日
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2007.06.16
先史時代の精霊信仰 ~シベリアのマリタ遺跡と縄文~
シベリアのマリタ遺跡は2万3千年前に、マンモスを追ってくらしていた、当時の人たちが暮らしていた遺跡で、その後ここから日本やアメリカ大陸へも渡ったと考えられています。
この遺跡からも地母神像のような、女性の像が発見されています。

「日本人はるかな旅展」より 右は同遺跡の住居(マンモスの骨でできた住居)
↓応援よろしくお願いします。
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posted by ihiro at : 2007年06月16日
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2007.06.14
イヌとヒトは1万年以上続くなが~~~い お付き合い!
ニュースです。 😀
【縄文時代から「人間と犬」仲良し…乳児と子犬の合葬を確認】
>愛知県田原市の吉胡(よしご)貝塚(縄文時代後期~晩期)で、乳児と子犬が一緒に埋葬されていたことが同市教委の調査でわかった。こうした合葬は全国初のケースで、縄文時代の人間と犬との深いかかわりをうかがわせる事例という。
吉胡貝塚は大正時代から発掘が行われ、2001年度から昨年度まで実施した今回の調査では新たに乳児を含む12体の人骨を発掘した。そのうち墓穴とみられる直径50~60センチの穴から乳児の頭骨や手足、あばら骨の一部が見つかり、頭骨から約20センチ離れたところに子犬の下あご(長さ3センチ)の骨があった。乳児の性別は不明で身長50センチほど。生後間もなく死亡し、犬と合葬されたらしい。
田名部雄一・岐阜大名誉教授は「縄文時代は犬が唯一の家畜で、猟を手伝ったり、外敵を警戒したりしていたと考えられる。乳児と合葬されていたことは、それだけ犬が大事にされていた証拠」と話している。 (2007年6月6日読売新聞より)
この記事、驚きなのは縄文時代に人と犬が共に暮らしていたという事ではなく、犬と人間の合葬事例が見つかったのがこれが一例目であるという事です。縄文人は犬と共存していたという記録はたくさん聞きます。しかし埋葬は一例、なぜか・・・。これは後で。
今では多くの犬がペットして飼われています。犬を見るとかわいいーだけではなく、何か近しい、懐かしい特別な感情を抱きますね。さて、犬と人間の歴史はいつからかご存知ですか。 8)
←縄文犬のイメージ写真
ポチと押して続けて下さい。洒落じゃないよ 🙂 
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posted by tano at : 2007年06月14日
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