2007.07.20

インカにおいてミイラの意味・役割を探る -1(庶民のミイラ)

amam1.jpg 600年前のミイラ
有名なエジプトのミイラは一部の王様たちのミイラですが、インカのミイラの特徴は、それがもっと幅広く多様に行われていた事です。普通に埋葬してもミイラになる乾燥した風土のようで、様々な発掘例がありました。
歴史的にもインカ以前からミイラが重要だったようです。
まずはその特徴を事例から探ります。
その前に

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posted by dokidoki at : 2007年07月20日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2007.07.19

死者を身近に祀るのは古来の慣わしか? -インカのミイラ-

こんにちは。 😀
7月1日から数回のシリーズで放映されているNHKスペシャル「失われた文明インカ・マヤ」の第1回でインカのミイラが紹介されていました。みなさんご覧になりましたか?
ph_who_02.jpg
(インカ滅亡後にインカの末裔が伝承により描いた図 出典:NHKスペシャル)
私達の生活習慣では、まったく縁遠いミイラ ですが、インカではかなり生活に密着していたようです
そして、多数のミイラがあるばかりでなく、王様のミイラは特別な役割を課せられて崇拝されていたようです。
 これを見ていた友人から
「インカのミイラって、仏像とかキリスト像みたいなものだったのでは?」
という話がありました。つまり具体的な拝む対象だったということです。
そこで気が付いたのですがこれは逆ではないか?と。
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ありがとです

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posted by bunbun at : 2007年07月19日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2007.07.18

ブナ林とマタギ

こんばんは~ みつこ 😀 です。
またちょっぴり縄文に戻ります
東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化 
縄文文化とブナ林 って切っても切り離せないようですね。
今日は、そんなブナ林に生きた、マタギたちの信仰について紹介します。
主に『ブナ林と古代史』さんからいただきました。
マタギって何?
マタギというのは、クマなどの大型獣を捕獲する技術と組織をもち、狩猟を生業としてきた人をいう。中でも秋田県の仙北や阿仁地方には、マタギの村が多かった。彼らは、クマ狩りなどの集団猟を得意とし、晩秋から早春にかけて山に入り、拠点となる場所に設けた簡単な狩り小屋に泊まり込んで、クマ、カモシカなどの大型獣を捕った。
clip_image002.jpg
マタギとブナ林の関わりって?
ブナ林を構成しているのはブナ、ナラ、クリ、ミズナラなどである。これらの実がクマの主要な食物となっている。他にもヤマブドウやアケビなどがある。晩秋とか春先には落葉を掻き分けて地上にこぼれたブナの実をあさる。これをホリバミ(掘食)という。初秋のころは樹上で枝をへし折ってナラの実を食む。これをオリバミ(折食)という、クマのついた木は丁度棚をかいたようなありさまになっている(これを熊棚という)このようにクマの生息はブナ林の恵みに負っている。
なるほど、ブナ林 があったからこそ、マタギ が登場しえたのですね。
マタギの信仰から人々の自然への思いを読み取ってみたいです
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ありがとうございます

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posted by mituko at : 2007年07月18日 | コメント (4件) | トラックバック (0) List  

2007.07.17

中国先史年表~母系から父系へ~

前回に引き続き、生産様式の変化が、母系→父系への変化を引き起こしたという説を補足する意味で、同じく「図説中国文明史1先史文明への胎動」でまとめてある先史年表を紹介します。
○生産様式の変化

BC10,000~6000:
華北、長江中流域、華南などで定住生活を始め、農耕、家畜の飼育、土器の製作が始まる。
BC 6000~5000:
黄河、長江流域が二大農耕区となり、農耕は焼畑から鋤耕に移行。黄河中下流域では雑穀農耕が発達し、長江流域では稲作農耕が代表的。
BC5000~3000:
長江流域では、稲作農耕が発達。石器、土器、骨器、木器の製作は高水準に達する。水田耕作に適した多様な農具が開発される。

ここでは、黄河流域と長江流域での生産様式の違いに注目。
道具が発達したのは、稲作中心の長江流域。日本の稲作文化との繋がりも気になります。
○集団の変遷

BC6000~4000:
・血縁紐帯による同一氏族が暮らす集落が出現し母系氏族共同体が形成される。
・氏族メンバーの地位は平等。
・原始宗教、アニミズムの始まり。龍への崇拝は、抽象的な神霊崇拝への移行を示し、専業的なシャーマンが出現する。
BC4000~3000:
母系氏族社会は後期に移行し、父系氏族社会への過渡期となる。
・黄河流域と長江流域で防御性の高い城壁が形成される。
・東北の紅山文化では宗教が発達し、女神廟、祭壇が出現し、玉器製作センターを形成。
・長江流域の良渚文化では農耕が発達し、南方の玉器製作センターを形成。祭壇と貴族墓地が出現し、神権と軍事統率権を集約した部族連盟の首長の出現か?

ここでは、生産性が上がるに伴い、城壁が高くなり、母系から父系へ移行していったという関連性に注目したい。生産性の高さが、周辺部族間の交流を促し、そこから争いへと移行したのだろうか?

BC3500~2000:
・私有制を伴う父系氏族社会が到来。民主制の平等社会はしだいに排除。
・黄河流域と長江流域は、相次いで首長制の「古国」へと移行。城寨が林立し、略奪性の高い戦争が発生。伝説の五帝はこの時期の首長とみられる。
BC2500~2000:
・黄河流域と長江流域では、父系氏族共同体が瓦解し、各古国は若干の政治集団を形成する。夏族、殷族、周族と夷、蛮などの文化が交錯し、軍事的な衝突も発生。
・BC2100に夏族の首長である禹は治水に成功し、夏族の勢力が強大化して黄河中流域の大部分を統治し、部族連盟の首長となる。BC2070に禹はその地位を子の啓に譲り、中国史上最初の王朝 である夏を建立し、先史社会は終了する。

さて、母系の始まりから、王朝の成立までを追いかけてみましたが、黄河流域、長江流域のどちらが母系か父系かと言う視点は、存在しない様です。いずれも、母系集団を母体に生産性の向上に伴い、集団が拡大していき、戦争の拡がりと歩調を合わせる様に、父系へと移行している様にも見えます。
まだまだ、掘り下げていきますよ~。
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posted by maeyan at : 2007年07月17日 | コメント (8件) | トラックバック (0) List  

2007.07.16

中国専制国家体制 ~「法」を媒介とした厳格な百姓支配システム~

中国の社会は、共同体的な土壌をかなり早期に失ってしまったらしい。どうしてそうなったのか?
前回 「中国に村落共同体は存在しなかった」の続きです。
S99X3001.jpg
西尾幹二氏が注目している研究家、渡辺信一郎氏は、上部構造の中核をなす国家それ自体の解明と分析が決定的に疎かにされてきたことに疑問を抱き研究を進めてきたという。
超巨大国家中国の本質に迫るためには、その視点は不可欠というか、必要条件だと思う。
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posted by ihiro at : 2007年07月16日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2007.07.15

中国に村落共同体は存在しなかった。    ~共同体を知らない個別二者関係が積層した社会~

中国は、血縁関係が非常に強く、そのネットワークによる助け合いもすごいという話をよく聞く。そう聞くと、ぼくなんかは30年くらい前までの日本の姿をイメージしていたのだけど、一方で、中国人はかなり個人主義的で利己的だという話もよく聞きいており、イメージのギャップを埋めることができずにいた。
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posted by ihiro at : 2007年07月15日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2007.07.15

中国文明:殷の婚姻制~統合の根底には必ず婚姻制が深く関わっている

今晩は 相変わらず、を攻めるさーねです 😛
今日は、殷の婚姻制を通して、いかに婚姻制が社会統合に関わっているか?を伝えられたらと思います しかし、この当たりの資料はネットにはほとんどなく 🙁 、るいネット知られざる人類婚姻史と共同体社会を参考に考えてみたいと思います 😉 以下が、まず殷の婚姻制の説です

>殷王朝は十の宗族からなる主要な2つのグループにわかれており、交叉イトコ婚を繰り返しながら、父系のオジからオイへと交互に王権を継承したと推定している。(「中国の考古学」同成社より抜粋)

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殷王朝 第30代 帝辛(蔑称紂王(ちゅうおう)→こう言えばわかる人も多い )殷王朝 第30代 帝辛(蔑称:紂王(ちゅうおう)→こう言えばわかる人も多い?)~ただし、これマンガです
殷代を記した古典「封神演義」は実はマンガになってるんですね~ かなーり脚色されてますが… この紂王の事例は最後の方で引用したいと思います
みんなで追究しよう!!古代文明♪
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posted by sawatan at : 2007年07月15日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2007.07.14

中国における母系→父系転換を追求するにあたり

こんばんは、etoです。
先に『中国文明のなんで?』において、古代の母系社会と、父系への転換について挙げました。
このテーマを追求するにあたり、人類の婚姻史を専門に追求する姉妹サイト:「知られざる人類婚姻史と共同体社会より、中国関連の投稿を調べてみましたので、参考として紹介します。
まずは、母系社会の様子について
自由恋愛の国アメリカと、母系社会のモソ人 
>古来日本でも行われていた通 い婚を続け、子供たちは生まれた家に残り、女性は家を切り盛りし、男性は自分の姉妹の子供を「家の子」として育てます。中国政府の圧力にも屈せず続いてきた母系社会と通い婚。血の繋がった家族が互いに協力しあい、争いや嫉妬を生まない、静かで豊かな社会がそこにはあります。
「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 1 
「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 2
「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 3 
「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 4 
「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 5 
・雲南省ハニ族の「稲魂信仰」
>現在のハニ族は父系社会ですが、信仰での女性の役割の大きさは、かつての母系社会の痕跡でしょうか。いずれにしても、ハニ族は自然に対する同化・感謝の気持ちを強くもっているは確かなようです。
・モンゴル遊牧民は母系を強く残した両系!?
>モンゴルでも国家成立以前は、『遊牧ながらも母系の色彩が強かった』
中国のナシ族はアチェ婚(妻問婚)を最近まで維持していた。
>しかし、その婚姻様式も強制的な漢化の圧力が高くなるに従って、その様相の変化や若者の戸惑いが表面化していく事に・・・。それは意外にも「自殺」という選択をしている事に私は驚いてしまいました。
モソ族、ナシ族、ハニ族などの投稿から、母系社会の様子が窺い知れます。
いち早く父系に転換したモンゴルにも母系が残っていたんですね。
さて、次はその父系転換です。
続きの前に、
多くの人に見てもらえるよう、クリック願います。
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posted by nishipa at : 2007年07月14日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2007.07.13

アイヌについて

先日naotoさんが、アイヌの婚姻形式について投稿されていますが、そもそもアイヌってどんな人たちなのと、素朴な疑問が起こったので、少し調べてみました。
 
> アイヌとは、「人間」を意味します。アイヌ民族は、「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなし、日々の生活のなかで、祈り、さまざまな儀礼を行いました。
 それらの神々には、火や水、風、雷といった自然神、クマ、キツネ、シマフクロウ、シャチといった動物神、トリカブト、キノコ、ヨモギといった植物神、舟、鍋といった物神、さらに家を守る神、山の神、湖の神などがあります。そういった神に対して人間のことを「アイヌ」と呼ぶのです。

http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nyumon.html
(アイヌ文化入門)
 
 
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アイヌって、アイヌの人々のことの総称程度の認識だったのですが、「人間」そのものを意味しているとは知りませんでした。
 
一方で、「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなしたいたということですが、自分たち恩恵をもたらしてくれるもの等を敬いの対象=神として認識していたということをだと思います。
 
これは、自然の恵みに感謝の念を抱くという、日本人が潜在的に持ち合わせているであろう感覚に近いようにも感じます。
 
しかし、一方で
 
>これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、日本人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ(アイヌ)」と呼ぶように求めたとされているが、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C
(ウィキペディア)
 
 
アイヌの大地に、進出してきた当時の日本人に対して、自分たちを神々と対の言葉である人間という意味の「アイヌ」であると呼ぶように求めたんですね。アイヌの人々にとって、領土や交易の拡大を目的とし、この大地の神々との関係を重視しない日本人は、この大地に根ざした自分たちとは違った人種の人たちであるという風に映っていたのでしょう。
 
実際、アイヌの地にやってきた日本人(和人)は、だまし討ち等を行うことで戦いに勝つ、明治以降の和風化を強制する政策等、結構ひどいことをやっていたようです。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/hito/rekishi/rekishi.html
(アイヌの人達とともに)
 
 
アイヌの人たちの自然観について、以前このブログでtanoさんもご紹介されていた萱野茂さん言葉に、言い表されていると思いますので、紹介させていただきます。
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2006/11/000046.html
 
 
>したがって、遠くに見える山、近くを流れる川、沢など、これらの自然はアイヌにとっては神様であったのです。山も木も川もみんな神様です。なぜそれを神様と考えたのか。それは自然全体、山も川も沢も、これらはいつも新鮮な食料を供給してくれる食料貯蔵庫であったのです。ということは、川があるから魚がいる。木がはえているからシカがいる、そこへ行って食べ物をちょうだいしてくるという謙虚な心をつねづね持っていました。このように自然を神と崇め、豊富にある物といえども乱獲を慎み、それによって神=自然とアイヌの間に相互信頼が確立していたのです。
「アイヌの里二風谷に生きて」 萱野茂著 北海道新聞社刊 より引用

http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeWorld/Ainu.htm
 
 
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 (萱野茂さん)
 
 
アイヌの人たちの、自然に対する想いが、伝わってくるようです。
この自然観に、何かしら感動を覚える人も多いのではないでしょうか。
このことは、私たちの中にも、アイヌの人たちに通ずる自然観を潜在的に持ち合わせているからだと思います。
あらためて気づかされる、大切にしていきたい感覚です。
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posted by yuyu at : 2007年07月13日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2007.07.11

東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化

こんばんは  bunchanです。
縄文時代のなんで?を、http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000251.htmlにひきつづいてもう少し調べてみたいと思います 😛
縄文時代の人口は東日本に多く、その理由は東日本に分布したナラ林を中心とする植生のおかげといえます。
f-narabayosi.jpg  siragami-buna01.jpg
ナラ林(上)とブナ林(下)
趣味千山よりお借りしました。
明るい光が差す林という感じですね
もののけ姫を読み解く からの引用を紹介します。

●東北日本の源流たるナラ林文化
 一方、日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていた。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」と名付けたのも中尾佐助氏であった。
 ナラ林文化の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富であったことだ。砕けば食べられる堅果が大量に落ち、日光照射もあるため森の下草である植物種も豊富である。そこには当然狩猟対象となる動物も多い。
 堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリなど)の採集。トナカイ、熊、鹿、海獣の狩猟。そして、川にのぼって来るサケ・マスの漁撈。これらの狩猟・採集文化により、一定の人口までは充分に生活出来たのである。日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で発展した。事実、縄文時代の遺跡群は圧倒的に東北日本に集中している。
 稲作と鉄器の文化は、弥生時代に渡来人によって伝えられたと言われる。弥生文化は、北九州を起点に、食料資源の少ない照葉樹林地帯には急速に広まったが、中部以北にはなかなか伝わらなかった。南とは食体系が違い、北では採集・狩猟・畑作資源が豊富なのであるから、わざわざライフスタイルを壊して稲作を始める必要がなかったのである。しかし、稲作を基盤として成立した大和朝廷は、武力制圧によって強引な稲作同化・単一文化圏化を押し進めた。縄文人は、北へ北へと追いやられながら文化圏を維持していた。後述する蝦夷と朝廷の戦争は、縄文人の末裔と弥生人の末裔の闘いであった。
 純粋なナラ林文化は、照葉樹林文化と融合した稲作文化に吸収され、十二~十三世紀にはほぼ崩壊したとされる。

これってnaotoさんが紹介されているアイヌ民族の婚姻様式 のような文化だったのですね~ 😮
では、照葉樹林とはどんな地帯なのでしょう~?
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posted by bunchan at : 2007年07月11日 | コメント (4件) | トラックバック (0) List  

 
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