2007.06.13
日本最古の武器
😀 くまなです
前回の日本における戦争の起源の続きです。
前回、戦争の証拠の1つとして「武器(人をあやめるための専用につくられた道具と、それから身を守るるための防具)」の存在があることを紹介しました。
■日本における最古の武器はどこにあるのか?
いま確認できる列島最古の武器は、「最古の水田」として有名な佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2500~2400年前)から出ている。
ホルンフェルスとよばれる目の細かい堆積岩を磨き出して作った短剣と矢じりだ。
これらの武器は、朝鮮半島の南部で使われていたものと同じで、朝鮮系の磨製石剣・磨製石鏃とよばれている。
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菜畑遺跡から出土した短剣

同時代の韓国の代表的な磨製石剣
おそらく、かれらが故郷の朝鮮半島からもってきたのだろう。人を傷つけるための武器は、稲作の文化といっしょに朝鮮半島から伝わってくることによって、はじめて日本列島に現れたのだ。
(「人はなぜ戦うのか」松木武彦より)
戦争の証拠。次は「武器によって殺されたり、傷つけられたりした人の遺骸」です。
その前に
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posted by kumana at : 2007年06月13日
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2007.06.12
国を統一して譲ったヒーロー、大国主命とは?
「ささらえ」lさんより画像をお借りしました。
こんばんは!bunchanです。
「古事記の世界」 さんを参考に、古事記の中では、「国をつくって国を譲った男」として描かれている「大国主命オオクニヌシノミコト」について紹介してみたいと思います。(「古事記の世界」 さんより、要約・引用させてもらっています)
1.兄弟から追われる
大国主命はスサノオ七世孫として誕生しました。
大穴牟遅神(オオアナムジノカミ)これが若かりし頃の大国主神の名前でしたが、稲羽に八上比売ヤカミヒメという大変ミメ麗しい媛がいました。
大穴牟遅神の兄弟達は皆、我こそは八上比売を妻に!という思いを胸の内に秘め、揃って稲羽へ出掛けることに。大穴牟遅神に袋を背負わせ、従者として連れて行ったのですが・・・。(途中、因幡の白兎を助ける)
八上比売ヤカミヒメが「あなた方の言うことは聞きません。大穴牟遅神と結婚致します」といったばかりに、大穴牟遅神(オオアナムジノカミ)は兄弟から何度も殺害計画をたてえられ、生き返らされたり逃げたりの連続でした。最後には須佐之男命(スサノオノミコト)のいる根之堅州国ネノカタスクニへ行くことに。
posted by bunchan at : 2007年06月12日
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2007.06.11
縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた、稲作もそのころ伝わったと考えられる?
◎日本で稲作が開始されたのは従来言われていた2000年前ごろから遡り3000年前ごろではな
いかというのが最近の説です。
3000年前にすでに稲作の始まっていた朝鮮半島と縄文人の交流があった。

興味ある人、下のバナーをクリック願います
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posted by ryujin at : 2007年06月11日
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2007.06.10
縄文の文化圏:交換物の分布から「文化圏」が見えてくる
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以前「縄文時代の集団規模」と「縄文の交流は、自然恩恵への感謝・喜びの交換だった」と言う投稿で「集団の規模や生活、他集団との交流」が一定明らかになりました。
今回は交流の際の「交換物」の資料を前回と同じ「縄文文化と現代:縄文村」というサイトから抜粋、要約し紹介します。
■交換物と文化圏:交換産物とは、野うさぎなど小型動物の毛皮、漆工芸品、樹皮・繊維製品があるが、今の時代に残っているものは少ない。
またアスファルト、黒曜石、ヒスイ、コハク(八幡一郎『先史時代の交易』1938年)などは比較的残りやすい。
縄文人は陸路・海路(丸木船)これらを持参して、東北、伊豆諸島、沖縄など遠隔地とも交流していた。
(小林達夫「縄文人の世界観」『縄文人の世界』34頁以下)。
多彩な加工食品は、集落間の分業が行われていたことと、加工食品が集落間で交易されていたことを物語っている。石器の材料としての黒耀石やサヌカイトの産地は限られているが、全国各地から出土しているし、各地で出土する土器も、遠隔地で製作されたものが出土するなど、縄文時代を狩猟採集を基盤とする単純な自給自足の封鎖経済と片付けることはできない。
後段で詳細に見ていきたい。
クリックしてから続きをお読みください。

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posted by mukai at : 2007年06月10日
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2007.06.09
縄文の交流は、自然恩恵への感謝・喜びの交換だった。
以前、「縄文時代の集団規模」と言う投稿で「集団の規模や生活」が一定明らかになりました。
今回は「他集団との交流」がどうであったか?
を前回と同じ「縄文文化と現代:縄文村」というサイトから抜粋、要約し紹介します。
クリックしてから続きをお読みください。

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posted by mukai at : 2007年06月09日
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2007.06.08
鬼界カルデラの大噴火により、琉球発のネットワークが始まった?
こんばんは、etoです。
前回は、スンダランドから北上した港川人の人骨を紹介しました。リンク
琉球に住み着いた人々は、主に漁労生活を営んでいましたが、本土との交流はまだありませんでした。
が、約6000年前頃には鹿児島の前期縄文が沖縄本島へと南下しています。この頃からスンダランド由来の琉球文化が本土の文化と交わっていくわけですが、今回はそのあたりを考えてみました。
下の図は、鹿児島の南にある薩摩硫黄島です。


実はこの島、縄文早期後半の約6300年前、海底火山「鬼界カルデラ」の噴火によって出来た火山島なんですね。
爆発規模は、雲仙普賢岳の凡そ100倍、火砕流の規模は雲仙普賢岳の1回の火砕流噴火の数10万倍に相当するほど驚異的で、過去一万年の日本火山史のなかで最大の噴火だったようです。
上空3万mの成層圏にまで達した大量の火山灰は、遠く東北地方にまで飛散したほどで、南九州一帯は、60cm以上の厚さで埋め尽くされた、とのことです。スゴイですね!!
さて、この大噴火が琉球圏の人々の生活にどう影響したのでしょう?
「琉球弧の考古学」さん
>南九州の初期縄文社会は、巨大噴火によって壊滅的な打撃を被ってしまった。その後この地を逃れた南九州の縄文人は列島各地に拡散して行った。特に「海人集団」は丸木舟や筏舟で対馬暖流を北上し日本海を通り北海道へ、さらに黒潮本流に乗って太平洋沿岸地域から伊豆諸島の八丈島にまで移住した集団も確認されている。
「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」
>この火山災害を免れた南九州縄文早期人の一部は、陸路を九州中・北部に避難していった。一方、海人集団のなかには対馬海流を利用して海路丸木舟で西九州沿岸や日本海方面に移住した人びと、黒潮本流に乗って四国、紀伊半島の太平洋沿岸地域やさらに遠く伊豆諸島にまで到達した人びともいた。こうした南九州縄文人の航海の軌跡は、栫ノ原型石斧に続く円筒形片刃磨製石斧が、高知県木屋ケ内遺跡、和歌山県紀ノ川中流域の遺跡、東京都八丈島などの遺跡で発見されていることで証明される。
沖縄から八丈島まで、こちらも想像を絶する大航海です!
想像を絶するほどの大噴火により大打撃を受けた島人たちは、命からがら可能性を求めて、北へ、東へ脱出を試みたのでしょう。その際に南方固有の磨製石斧が列島各地に伝わったわけですね。さらには、舟の技術、あるいは豊富な貝類で作った首飾りなども伝わっていったのかもしれません。その後、弥生時代にかけて貴重な装飾品を求める「貝の道」へと交易ルートが続いています。リンク
このようにして、琉球発の縄文ネットワークが始まったのではないか?と思った次第です。
以下に、黒潮圏の「海上の道」を紹介します。リンク

ありがとうございました、応援よろしくです。
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posted by nishipa at : 2007年06月08日
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2007.06.07
縄文人は黒潮をどうやって横断したのか?
>なぜ、海を渡ろうとしたのか 特に、八丈島は北部伊豆諸島と比較し、本土からの距離が遠い。黒潮の流れを簡単に突っ切れるほど甘くはない。どうみても決死行としか思えない。逆に、そこまで行こうとしたのはなんで?縄文人は、なぜ「海」に可能性を求めたか?
さーねさんも疑問に思っているように、黒潮の流れに逆らってどーやって本土から八丈島に行けたか気になりますね。それについて仮説を立てているサイトがありましたので今日はそれを紹介します。ちょっと面白いです。
これ宜しくお願いいたします 😉
posted by mrran at : 2007年06月07日
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2007.06.04
中国文明:姜寨遺跡の婚姻制~男達の性への欠乏△・掠奪前夜
今晩は^^さーねです 😮
>中でも母系から父系への転換は興味深いテーマです(縄文ー古代通信 NO3(19年6月号))
中国文明の国家や市場の話は結構ネットでも資料があるのですが、この辺の情報は、実はなかなかネットでは資料がなく、そろそろ本で勉強しようと思っていたところです 🙁 ただ、国家の形成と同時にやはり各集団はどのような営みだったか?⇒集団はどのように統合されていたか?
やはり、婚姻制
の変遷がキーポイントになってくると思われます 😀
今日は、姜寨(きょうさい)遺跡から見られる婚姻制の一事例を皆さんに紹介したいと思います


防御のための環濠を掘る様子
今日参考にさせていただいたのは、
レアメモリーの古代・黄河文明研究
るいネットより
漁労・採取系民族における婚姻制の変遷
仰韶文化中期における父系氏族統合の背景分析
みんなにぜひ見てほしい!応援を! 😀
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posted by sawatan at : 2007年06月04日
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2007.06.03
先史文明:地母神信仰って? ~地中海マルタ島の神殿より~
縄文と同じ遺伝子を感じる先史文明、その鍵となるのは地母神と言われるものではないかと思う。この地母神像は世界各地から発掘され、判明しているだけで3万年前ぐらいから連綿と続き、2000~3000年前、古代(私権)文明の成立とともに忽然と姿を消していくからです。
よく○○ビーナス像という地母神像を見たことがあるかとおもいますが、あれです。縄文も長野県から縄文ヴィーナスが出土している。

マルタ島のビィーナス像(BC3600年~2500年ころ?)
地母神って何?どんな信仰だった?
それを考える上でも、遺跡の状態がよく残っている地中海のマルタ島の神殿から紹介したいと思います。
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posted by ihiro at : 2007年06月03日
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2007.06.02
古代中国:母系氏族共同体の特徴
前回から、更に遡ってみました。古代中国では、原始的な群居と血縁家族の社会から、約8000~6000年前に母系氏族社会
に移行しています。この母系氏族共同体とは、どんな社会だったのでしょうか?
(「図説中国文明史1先史文明への胎動」より)

写真は、「邪馬台国大研究ホームページ / 遙かなる西安」から拝借した、半波遺跡の集落復元模型です。この頃の環濠は、獣よけの機能が中心だった様です。
縄文時代と同時期の中国が、どんなだったかを比較してみるのも、おもしろいですね。
まずは、ぽちっとどうぞ。
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posted by maeyan at : 2007年06月02日
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