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縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた、稲作もそのころ伝わったと考えられる?

Posted By ryujin On 2007年6月11日 @ 10:43 PM In 縄文人の外圧,縄文人の生活技術,縄文土器・土偶 | 2 Comments

◎日本で稲作が開始されたのは従来言われていた2000年前ごろから遡り3000年前ごろではな
いかというのが最近の説です。
 3000年前にすでに稲作の始まっていた朝鮮半島と縄文人の交流があった。
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代表的な縄文遺跡である三内丸山集落が約4000年前ごろ急激に衰退し始めます。
(以下は「熱帯ジャポニカの稲作が西日本に・縄文人の朝鮮半島へ [3]」からの紹介です)

その原因はそのころから始まった日本列島の寒冷化 [4]にあるようです。
その結果、縄文人に豊かな食生活を保証したブナ林に代表される落葉広葉樹林、中でも栽培化された
栗林が一挙に減退しました。
それまで豊かな森の恵みを享受していた縄文人に食料危機が訪れます。
縄文時代の人口を推計している小山修三氏(国立民族学博物館教授)のデータによると、4000年前にピークだった26万人あまりの人口は、その後減少して、3000年前頃までに半減してしまうのである。
まさに縄文の危機到来といったところだが、この人口の減少を東日本と西日本に分けてみると、さらに面白いことがわかってくる。
減っているのは東日本だけで、西日本は全然減少しておらずほぼ横ばいなのです。もともと西日本の方が人口が少ないということもあるが、それにしても興味深い。熱帯ジャポニカの稲作が西日本にしか普及しなかったという推測と、妙に符合する。
日本列島が寒冷化による食糧危機の真っ只中にあった3000年前頃、水田稲作は朝鮮半島の南端にまで到達していた
豊かで安定した食料を供給してくれる水田が、対馬からわずか50キロのところまでやってきていたのである。水田稲作という縄文人たちにとっての未知の営みだった。実は3000年前頃から縄文人たちは、九州あたりから朝鮮半島南部までの海を越えていたことがわかってきた。
対馬からほど近いこの慶尚南道や釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。
東三洞貝塚(とむさむどん)では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、そこで出土する縄文土器は、縄文人がやってきた確かな証拠品といえる。(冒頭の写真)

つい先日も、北朝鮮からの難民が小船に乗って日本海を越えてやってきたのは、記憶に新しいところです。
日本と僅か50キロしか離れていない訳ですから、縄文の昔から、いや実はもっとその以前から朝鮮とは交流があったと見るべきでしょうね。
と考えれば、すでに3000年前には朝鮮半島で行われていた稲作が、それほどの年月を経ずして日本に伝わったと考えるのがむしろ普通ですね。


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[3] 熱帯ジャポニカの稲作が西日本に・縄文人の朝鮮半島へ: http://masakawai.suppa.jp/kodaisi/inenotami/inenotami-html.html

[4] 寒冷化: http://masakawai.suppa.jp/kodaisi/inenotami/inenotami-html.html

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