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先史時代の精霊信仰  ~シベリアのマリタ遺跡と縄文~

シベリアのマリタ遺跡は2万3千年前に、マンモスを追ってくらしていた、当時の人たちが暮らしていた遺跡で、その後ここから日本やアメリカ大陸へも渡ったと考えられています。
この遺跡からも地母神像のような、女性の像が発見されています。
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「日本人はるかな旅展」 [1]より 右は同遺跡の住居(マンモスの骨でできた住居)
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先回、先史文明:地母神信仰って?~地中海マルタ島の神殿より~ [4]を書いてから少し考えました。信仰の対象は地母神だけじゃないのでは? 確かに女性らしい像は3万年くらい前から発掘されていますが、地の母の神と名付けるのも早計かもしれない・・・・と。
と考えたのは約2万3千年前のマリタ遺跡の出土物を見てからです。この遺跡からは地母神らしい女性像が発見されていますが、当時の平均気温は今より7~8度も低く、シベリアは氷の世界。そんな大地に栽培や農耕の神と言われる地母神?・・・・それに出土しているのは女性像だけではなく、小鳥の像やマンモスの絵もいっしょに発見されいる。
>マリタ遺跡からは、女性や鳥の小像、蛇やマンモスを線刻した護符?など、芸術的水準の高さを示すマンモス牙製の彫刻品が多数発見されています。日本人はるかな旅展 [5]
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2万3千年前の女性の小像(左)と、小鳥の小像(右) [5]
こう見てくると、どうも地母神信仰という見方は、短絡的で多くの精霊の中の一部の表象として“女性らしい像”があったと考えるのがいいようです。
るいネットに参考になる投稿がありました。、土偶再考 [6]
土偶を女性と決め付けて少しも疑いをいれない大方の先入観からまず開放される必要がある。乳房の 表現を、女性の象徴とだけ考えてはならない。・・・大きくて豊かな乳房の表現は、山形土偶や遮光 器土偶の中でもその一部の型式に見られるにすぎず、けっして多数派ではない。・・・
>したがって土偶は女性でも男性でもなく、また縄文人が己れの形を写したものでもなく、おそらくは 性を超越した存在のイメージ、すなわち何らかの精霊の仮の姿、と見られるのである。さればこそ、最古の土偶をはじめとする多くの土偶が、いかにも曖昧な形をとるのである。それは、もともとヒト形の必然性がなかったからであり、ヒト形に似たのは縄文人の考えあぐねた末の苦肉の表現なのである。

なるほど、多くの像は精霊の姿だったのだ。
>縄文人は、クマ、イノシシ、マムシ、カエル、オオサンショウウオ、ヒトなどの姿を土器にあらわし、また女性の土偶を作りました。これらは彼らの生活にとって重要なものを象徴していました。縄文人は、自然を森、山、土地、水、川などに分類し、それぞれに持ち主である精霊がいると信じて、信仰の対象にしていたようです。縄文時代の精霊たち [7]
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ふるーい土偶 [8]より     右は3000年前の熊の土偶 縄文時代の精霊たち [7]より
2万3千年前のマリタ遺跡の女性像や動物の像、そして縄文の土偶たち。これらは精霊への信仰という同じ世界観の表れと見ることができるだろう。
同様に先回のマルタ遺跡など地母神の像が出てくる遺跡も、よく調べれば、別の精霊の像を伴っている可能性が高いのではないだろうか?但し、栽培や農業などが発達していって、“地母神”という精霊に信仰が特化していった可能性もあるのかもしれません。
いずれにしても、数万年前(もっと前?)から、精霊への信仰が連綿と続き縄文の土器や土偶に表現されていき、その後の日本の八百万の神々へも引き継がれていったのではないかと考えられます。
その信仰がどのようなものだったかは、祈りの民アイヌ [9] を読むとよくわかります。
(by Hiroshi )

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