2008.05.24
人類の起源は東アジア地域、中国の青海チベット高原の東部地区かもしれない
これまでの考古学的発掘記録ではアウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス、ホモ・サピエンスなどを含む完全に系統立った化石系列が出土したのはアフリカ大陸だけで、そのため人類の起源はアフリカ大陸にあるというのが考古学界での見方でした。また、今まで各大陸でホモ・エレクトスの化石が比較的多く出土しており、特にアジアに多かったことから、学者たちは大体百六十万年前にホモ・エレクトスはアフリカから「放射」されてアジアや欧州およびその他の大陸に移っていったと推測しています。
しかし長江中流の三峡地区の「巫山人」に関する一連の発見と長江下流流域の安徽省繁昌県における発掘調査から、この学説を覆す発見がなされた可能性がでてきました。人類の起源はアフリカではなくて、アジアの可能性もあるのです。雲南・貴州高原およびその東部の長江流域を含む青海チベット高原以東の広大な地域で二百万年ないし四百万年前の古人類の化石とその生活の遺跡を探すというもので、それによってここ数年来の古人類学界の「人類の起源が東アジア地域、特に中国の青海チベット高原の東部地区である可能性もある」という説が取り上げられています。
よろしくお願いいたします。
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posted by norio at : 2008年05月24日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2008.05.22
縄文と弥生の境目:共存のディテール
tanoさんの投稿に続きます。
どのように縄文から弥生に時代的に連続していったのだろうか。?
これは今のところ有力な根拠とされているのは、発掘される土器や稲作をしていたかどうかだそうです。
土器は縄文時代を通しての芸術性豊かなものから、弥生時代には実用本位のシンプルなものに大きく変化します。
また、鉄器も登場し時を同じくして稲作が盛んになっています。
しかし、稲作が始まったのは縄文からと言う説があるくらい所によっては古くから作られていたようです。
今日は私がよく見ている産経ニュースの-文化-学術-に「試行私考 日本人解剖」と言うシリーズがあります。
今回はここからお借りして縄文から弥生へ移行していった詳細をお届けします。
【九州の縄文系弥生人(左)と渡来系弥生人(右):土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムより】
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posted by mukai at : 2008年05月22日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.05.21
弥生社会はどのように縄文人を巻き込んだか
前投稿の続きです。
同じく、藤尾慎一郎氏のHPから紹介します。
>弥生Ⅰ期以降におこった狩猟採集民の農耕民化と位置づけた四箇遺跡タイプの出現過程は,早期のそれとはいろいろな面で異なっている。
まず狩猟採集民は後・晩期以来の土地で農耕民化することである。彼らは水田にするには好条件の場所をもちながら,長い間,水稲農耕に専業化しなかった。もし後・晩期のコメづくりを認めるとすればその期間は1200年もの長きに及ぶ。
しかしⅠ期になると情勢の変化が下流域から訪れる。
posted by tano at : 2008年05月21日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.05.20
弥生を丸裸にせよ!
こんばんわ!tanoです。
日本の歴史で最も大きな転換点は弥生時代であるとよく言われます。また中学の教科書などには文明の曙として弥生時代以降を日本の歴史としている件もあります。
この最も大きな転換点である弥生時代を私達はどれほど知っているでしょうか?
先日もいつもの縄文ブログの仲間と話していてこの600年間が全く持って茫洋としている事に気が付きました。
せいぜい、農耕の伝来、弥生人の渡来、戦争の始まり、クニのはじまりなどの社会の教科書に毛が生えた程度の情報しか押さえられていない、なぜこんなに弥生時代の事がわからないのか?そこに行き着いたのです。
縄文時代という本源集団が解体され、1000年後に大化の改新によって律令制度が敷かれるまで弥生―古墳時代の間はまさに私権社会への転換時期に当たります。その最初の弥生時代とは一体どんな時代だったのか?どのように縄文社会が駆逐されていったのか、どのように縄文から弥生に時代的に連続していったのか?縄文人は渡来人を受け入れたのか?反発したのか?
史実に即して明らかにしていけたらと思っています。
視点は教科書に出てくる表舞台の話ではなくできるだけ庶民、社会、意識という側面から明らかにしていきます。
「弥生を丸裸にせよ!」しばらくはこの企画で連続していきたいと思います。
丸裸にしたい人↓
初回は縄文人の農耕民化について扱ってみたいと思います。
藤尾慎一郎氏のHPから紹介します。
渡来人と縄文人の綱引きがよくわかる論説です。ちょっと長くなりますが、お付き合い願います。
posted by tano at : 2008年05月20日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2008.05.17
マヤの統合軸は私権による統合だったのか、それとも・・・・?。
メソアメリカ文明は私権闘争 の結果築かれたものか否か。
これを見てゆく為に当時の社会構造はどうだったのか。国家間の闘争はどのようなものだったのか。国家内における闘争、たとえばお家騒動のようなものはあったのか、といった統合と闘争の中身からの分析と、社会の更に底辺の婚姻様式はどうだったのか、などを見てゆく必要があると思います。
(マヤ暦の概念図)
今回からしばらくメソアメリカのなかのマヤ文明に絞って上記を数回にわたって見て行こうと思います。まず今日は、マヤ文明の社会構造はどうだったのか?をみていきたいと思います。by saah
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posted by saah at : 2008年05月17日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2008.05.15
縄文:祭りは、集団を統合し集団を超えた?!
以前の記事 三内丸山は語る(1)でも書かれていますが、
この御柱祭は諏訪大社という神道の祭事であり、それをはるか縄文時代、しかも社会構成の違う時代の人々が残した時代の人々が残した遺構と、ただちにくらべることはできない。しかし、巨木の山だしから建立までに投じられる人手とそのエネルギーは、縄文のそれを彷彿とさせるし、何よりも祭事をとおして、一つの共同体という意識のもとに人々を結びつける重要な役割をはたしていたということでは相通じるものがある。
諏訪大社の御柱祭 は、の写真。よく話題になりますよね 😮
今日は、NPO法人国際縄文学協会の小山修三先生の論文「巨木の祭り-御柱と縄文-」を参考に、縄文時代の祭りの様子を探りたいと思います
byさーね 😮
応援よろしくです
posted by sawatan at : 2008年05月15日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2008.05.14
古代エジプト人にとって、死は新たな人生へのはじまりだった
こんばんは!!
○さんが、ピラミッド、そして前回、カッピカピさんが古代エジプトの死生観について、書いてくれましたが、ピラミッド、そして死生観ときたら?
そう!ミイラですね!!
エジプトと言ったらミイラ!
ということで、今回はミイラについてちょいと調べてみました。
興味のある方は(ない方も(笑)) ポチッと押して、進んでください!!
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posted by jomon10 at : 2008年05月14日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2008.05.13
エジプト人の死生観
こんばんは、カッピカピです。
少し前に○さんが、ピラミッドについて書いてくれました。その中で
太陽って毎日昇ったり沈んだりを繰り返すでしょ?これを神の死と再生と見ていたようなんです。
つまり、王様が生き返るためにピラミッドというお墓を造ったっていうこと。
とありましたが、お墓として、あんなにも巨大なピラミッドを作った古代エジプト人の死生観とは一体どんなものだったのでしょうか。
エジプト文明の第一人者である吉村作治さんの「四代文明[エジプト]」という本を参考に考えてみたいと思います。
続きはポチッと押してからお願いします。。。。
posted by hi-ro at : 2008年05月13日 | コメント (13件) | トラックバック (0) TweetList
2008.05.12
中国文明の起源~興隆窪文化の概要報告
中国文明における“龍”の起源を探り、前回は紅山文化から興隆窪文化まで遡りましたが、ここで中国文明の起源のひとつと言われる遼河文明の興隆窪文化について押えておこうと思います。
(主にこちらより引用しながら紹介します。)
この写真は紅山文化、牛河梁遺跡の碧眼女神像です。
何故に“碧い眼”の女神なのか? この謎も含めて調べてみました。
こちらは遼河文明の遺跡図です。
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posted by nishipa at : 2008年05月12日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.05.11
中国文明:遊牧部族が侵入したのはなんで?
先日、遊牧民族の動向を調べましたが、逆に、彼らはなんで度々中国へ侵入したのか?単純に、遊牧部族の戦闘性だけを理由付けにしても何か片手落ちな気がしました
な の で
彼らはどんな外圧に晒されていたのか?調べてみました。
遊牧の生活はとても厳しい~
byさーね
今日は、楽しい世界史~遊牧生活はキビシイを参考にさせて頂きました
応援よろしくでーす
posted by sawatan at : 2008年05月11日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList