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中国文明の起源~興隆窪文化の概要報告

中国文明における“龍”の起源を探り、前回 [1]は紅山文化から興隆窪文化まで遡りましたが、ここで中国文明の起源のひとつと言われる遼河文明の興隆窪文化について押えておこうと思います。
(主にこちら [2]より引用しながら紹介します。)
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この写真は紅山文化、牛河梁遺跡の碧眼女神像です。
何故に“碧い眼”の女神なのか? この謎も含めて調べてみました。
こちらは遼河文明の遺跡図です。
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●興隆窪遺跡の概要
 ・年代は紀元前6200~5600年前後。
 ・場所は内蒙古自治区赤峰市(北京の東北部)
 ・遺跡総面積約3. 5万㎡
 ・1重の環濠集落(長径183メートル、短径163メートルの楕円形)
  竪穴住居址(環濠内80基余り、環濠内70基余り)、各住居の中に地床炉
  貯蔵穴・灰坑400基余り、
  屋内墓葬30基余り(けつ状耳飾り・土器などの副葬品、豚と一緒の埋葬もあり)
 ・大量の土器・石器・骨器・玉器(玉斧、玉管と玉匙)
  打製の鋤が一番多く、その他石皿、磨棒、スクレーバー、石庖丁、磨製石斧など
 ・鹿、豚等の動物骨が出土。
 ・クルミが多く検出されている。
 特徴として、
 ・採取狩猟民として大規模な集落
 ・中国最古の玉器
 ・中国最古の龍
 ・東北地区の、今まで知られるところの最も古い新石器文化
 ・環濠集落が内蒙古地区に集中している
ざっとこんな概要ですが、同時期の縄文文化、なかでも三内丸山遺跡との共通性、類似点が指摘されています。
●三内丸山遺跡との類似点
 日本の縄文文化を中国の三つの文化圏と比較してみると、明らかに中国の東北地方の採集狩猟漁
 労文化圏の諸文化に似ている。特に三内丸山遺跡と興隆窪遺跡とは、次のように類似点が多い。
 ・北緯40°をやや越える緯度に位置すること。
 ・当時の環境は落葉広葉樹林地帯であること。
 ・低い丘陵に立地すること。
 ・長い期間の定住集落であること。
 ・土器は主に平底の円筒形土器で、土器の表面に全部文様を施す。口縁部、頸部と胴部という三つ
  の部分でその文様が異なること。
 ・石器は打製石器が多く、磨製石斧もあり、石皿と磨棒は食用植物の調理具として使われたこと。
 ・けつ状耳飾りの存在。
 ・住居は堅穴住居であること。床のほぼ中央に地床炉があること。
 ・墓は土壙墓であること。
 ・生業は主に採集狩猟漁労である一方、食用植物の栽培か半栽培が行われた可能性があること。
  あとを受け継いだ文化は石で祭祀遺構と墓を築く風習が出現すること。
●西アジアとの関係
さて、最初にあげた碧い眼の女神像に戻ります。
興隆窪文化では中国最古の玉器が生まれているわけですが、原材料の玉はシルクロード(ステップルート)を西方へモンゴル高原を抜け、天山山脈南麓のタリム盆地より入手しているようです。
これがステップルートの図です。
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なるほど、遠く東ヨーロッパや西アジアとの関係があったことが分かりますね。
だから、“碧い眼”ということなのでしょう。
としても、はるか遠くの玉をどうやって手に入れたのか?、玉器の持つ意味は何なのか?、興隆窪文化では何故に大集落が成立したのか?、環濠集落が内蒙古地区に集中しているのは何故なのか?、、、など疑問が尽きないところです。
 (by eto)

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