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マヤの統合軸は私権による統合だったのか、それとも・・・・?。

メソアメリカ文明は私権闘争 の結果築かれたものか否か。
これを見てゆく為に当時の社会構造はどうだったのか。国家間の闘争はどのようなものだったのか。国家内における闘争、たとえばお家騒動のようなものはあったのか、といった統合と闘争の中身からの分析と、社会の更に底辺の婚姻様式はどうだったのか、などを見てゆく必要があると思います。
%E3%83%9E%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC.jpg [1](マヤ暦の概念図)
今回からしばらくメソアメリカのなかのマヤ文明に絞って上記を数回にわたって見て行こうと思います。まず今日は、マヤ文明の社会構造はどうだったのか?をみていきたいと思います。by saah


マヤといえば「暦の民」といわれる様に、その卓越した天文学的知識が有名ですね。
maya_calender1.jpg [2]
(「マヤ暦とマヤ文明」リンク [3]より拝借)
日本がまだ弥生時代であった頃にすでに太陽暦を作り出し、しかも彼らが作り出した1年の日数が現代の天文学の算出する日数と、小数点第3位まで同じであると聞けばいかに当時の天文学の知識が優れていたかわかると思います。
そうしてこの「暦」の命に応じてさまざまな行動を決めていたようです。
さて肝心のマヤ文明の社会ですが、階級は大きく4つに分かれていたようです。
(見方によっては2つという説もあるようです。)
以下、「黄金帝国の謎(森本哲郎編)」より引用です。

当時のマヤは宗教的、文化的にみるとひとつの国家だったと考えられますが、政治的に見ると、各部族がそれぞれ主権を持つ都市国家の集まりともいえると思います。
マヤ社会は複雑な構成を持っていましたが、大きくいえば四つの階級があったと考えられています。
まず一番上に王、貴族、神官、それに軍人や商人なども含まれます。
二番目は書記、彫刻者などで、三番目が陶芸家、機織(はたおり)、細工士など、四番目が農民で、その下に奴隷がいました。
古典期には階級に流動性がみられますが、後期には固定化し、階級差が大きくなってきます。そして少数の貴族の力が大きくなっていきます。

(以上引用終わり)
また「古代マヤ王歴代史(創元社)」によると、

マヤの王たちは一夫多妻制だったが、碑文では婚姻についてはあまり触れられていない。他に王のおつきの者として、楽器演奏者や小人もいた。小人は単なる道化ではなく、地下世界の入り口とされる洞窟と関連した特別な存在として、高い地位を享受していた。他国の王や地方豪族の訪問に対する祝宴や余興は、娯楽というよりも政治的、外交的な目的があった。
王の権威の鍵は、軍を率いてライバルの王たちに対する戦争を指揮することにある。攻撃のタイミングは基本的には戦略上の決定によるものだったろうが、もっとも幸運な時期を知るための占いにも力を入れた。

(以上引用終わり)
当時すでに固定化された階級が存在し、他国との戦争で負けた相手は奴隷として最下層に位置していました。
高い地位にいる者として、地下世界に通じる存在としての“小人”がいたというのは興味深いですね。このことは神官の存在と並び、“信仰”が国家の統合において重要な役割を果たしていたことを示しているのではないでしょうか。
また、戦争の場においても「占い」→「暦」による命に従っていたことが分かります。
当時の社会の生活をささせていたのはトウモロコシであり、いつ種をまいたらよいかということにも当然「暦」の知識が貢献してきますね。
tomorokoshi.jpg [4]
このように、マヤの社会においては「暦」及び「神への信仰」というものが統合軸になっていた可能性が考えられます。
これ以上の統合軸となるものがあったのかどうかは、以降も、「国家間の闘争」の中身、目的とその結果は?「国内での“お家騒動”はあったのかどうか。あったとしたらその結果どうなっていったのか。「婚姻様式」はどうだったのか、などを続けて調べてゆき、答えに近づいていきたいと思います。
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