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2009年04月27日

大阪湾の歴史からみる古代奈良の立地条件

古代の大和地方を想定するとき、当時の近畿地方の地形を頭に描かないと、ひとびとの実感=歴史事実に届かない仮説になってしまう・・。ということで、今回は、古代の近畿地方の地形を紹介します。
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大阪湾環境データベース

『大阪湾の形成』
 古代の大阪湾は、大阪平野の奥深くまで入り込み、東は生駒山西麓にいたる広大な河内湾が広がり、上町台地が半島のように突き出た現在とは大きく趣の異なる地形であった。
 この上町台地北側の砂州はその後も北へ伸び、縄文時代中期には潟の部分の淡水化が進んでゆき、弥生時代には大きな湖ができあがった。そして、古墳時代に入り、この湖は人間の手によって大きく変貌した。
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『古代の大坂みなと』
 仁徳天皇が行った堀江の開削は、洪水対策と水運発達に役立った。
 645(大化元)年に始まる「大化の改新」により、大阪は歴史の表舞台となった。難波津は国家的なみなととして外交の基地、献納物の中継点・集散地、国家的水上交通のターミナル、警察、軍事の拠点として発展した。初期の遣唐使船もここから出発していった。
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今ある地勢は過去未来永劫不変である、と思い込んでいたら、とんだ史観になってしまいます。
歴史を見る時こそ、360度の視点が求められる。特に、物証の少ない古代史を探るときは、
仮説の提起といいつつ、ついつい、自分勝手な空想の世界にはまりがち。
地道なデータ・物証収集が必須になります。

何故、古代史の舞台が畿内でも奈良の山奥から始まるのか、そして次第に河内に舞台が移っていくのか、不思議に思われる。この謎は実は現在の地形を前提に考えているからで、かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であり、大和は標高60m以下は大湿地湖だったとされている。縄文中期以降、海退が始まり、次第に陸地が広がって行くという地理学的な前提をふまえると、古代史の舞台が奈良の山奥から始まるという謎も解けてくる。水銀と防衛砦、これが大和を渡来人が目した理由である。

投稿者 urara : 2009年04月27日 List  

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コメント

農耕に必要なのは何といっても水。
ただ水のある地域は限られてくるので、部族間の接触が起こる。このとき何が起きたのか?またどうやって統合されていったのか興味津々です。
続き愉しみにしています!

投稿者 みちお : 2009年6月2日 22:56

みちおさん、コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、水を利用するには人手もいるし、一方で利用する人を調整する必要もありますね。まさしく“統合”の必要性が生まれてくるわけです。
どの様にそれを実現していったのか、じっくり調べてみます。

投稿者 saah : 2009年6月4日 22:17

自分が謎に思っていた事が解明して、すっきりしました。ありがとうございます。AIとミサイルと南海トラフ地震脅威から避難する為には、日本人は再び大和目指すのかなとか、最近頭の中がグルグルしています。

投稿者 はいじ : 2017年2月16日 09:33

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