2011.08.08
著書分析より明らかにする日本支配の始まり2~長江の倭族が日本にたどりつくまで~
「著書分析より明らかにする日本支配の始まり」シリーズ、プロローグに引き続き、シリーズ第1弾です
今回は著書『古代中国と倭族』を参考に、古代中国の倭族がどのように日本にやってきたのかを追っていきたいと思います
中国の文化は北と南では大きく異なります。
中国国内は、司馬遷の『史記』により、北の中原(黄河中流域)の勢力こそが全国を制覇した(長江流域は南蛮と蔑まれていた)とする中原一元論に偏っていますが、最近の発掘でそれが事実とは違うことが明らかになってきています 😀
南の長江流域には豊かな文明がありました
長江の倭族の文明と、その倭族が日本にやってくるまでをご紹介します
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posted by pingu at : 2011年08月08日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2011.08.06
シリーズ3:縄文晩期は祭祀に彩られた、祭祀に可能性を求めた苦悩の時代
縄文晩期をこれまで2回に渡って見てきました。
「寒冷化の危機が渡来文化への融和を促進」
「渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に」
この間の追求で明らかになった晩期を特徴付ける出来事や状況を少しおさらいしてみたいと思います。
気候は縄文後期から晩期にかけて2度以上低下しました。紀元前1000年をピークに寒冷化に伴う植生分布の移動、縄文人が食の対象としてきた温帯落葉樹林帯がほぼ絶滅。列島の人口はピーク時の1/4に激減。東の縄文人は東北地方を除いて1/10とほぼ絶滅、又は西へ移動して定住し、移動の民となります。
採取漁猟を中心とする縄文文化が気候変動により壊滅的な打撃を受ける中、日本列島に次々と渡来したのが中国の呉越の渡来民です。春秋戦国時代の戦乱から押し出されて最初に呉の一派が九州へ、100年遅れて越の民が出雲から日本海側に定着、食糧難に苦しむ縄文人を取り込んで栽培文化を定着させ、寒冷化が収束した弥生時代初期には稲作を拡げていきます。これが銅剣、銅鐸文化として西日本に中国発の大陸文化を広げていくことになります。
しかし、同時に南方部族故の同族性を有していた大陸の民はほどよく縄文人と同化し、同時にそれまで日本列島を覆い、成熟していた縄文文化も集団の中心として取り込んだいったのです。
縄文晩期とはまさに弥生一色でもない、縄文一色でもないこの両文化が重なり合い醸成した時代であったとも言えます。
その醸成した時代を表す最大の特徴とは何でしょう?
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posted by tano at : 2011年08月06日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2011.08.05
属国意識の源流を辿る2~属国意識の形成過程
属国意識の源流を辿るシリーズ第2弾です。
日本の支配者に歴史的に形成されてきた属国意識って何だろう?
これは、現在の日本の状況を読み解く上で重要な支配者の意識構造と捉えています。
原発の大事故、さらにそれを受けて誰が考えても脱原発なのに未だに決断をモラトリアムする政府、東電。さらにその上に乗っかり好き勝手な事を発しながら未だにその地位を追われない無能なトップ。それを見て引き摺り下ろす事のできない大衆。これら全て日本の支配者の属国意識と大衆のお上観念という見方で見れば整合し、その根深さに改めて驚きます。
こちらよりお借りしました。
これから歴史を辿っていく過程を始めていきますが、たたき台としてこの属国意識の形成過程を一旦仮説で組み立ててみました。
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posted by tano at : 2011年08月05日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2011.08.02
日本の支配階級の意識構造を解明する ~極東アジアの支配の歴史5 李氏朝鮮の歴史と意識構造①
前回シリーズ3では、三韓・新羅・高麗の興亡の歴史と中国との関係性、特に小中華思想の発生経緯を見てきました。
今回第5回と6回の2回にわたって1392年(日本では室町前期)の建国以来、1910年の日韓併合まで518年の長期に渡って朝鮮半島を治めた李氏朝鮮の歴史と意識構造について見ていきます.
始祖李成桂画像出典リンク
クリック御願いします
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posted by ryujin at : 2011年08月02日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2011.07.31
属国意識の源流を辿る1~なんで屋劇場における問題提起
震災そして原発事故を受けて、「学者・官僚・マスコミの無能さ」が明確になり「もはや学者・官僚・マスコミといった社会統合のプロたちには任せておけない」という共認も広まりつつあるように思います。しかし、それでもマスコミの共認支配力は今も大きく、大衆全体が立ち上がる、というような気配はありません。何故、ここまで日本の支配階級は無能なのか、そして何故、それでも日本の庶民は立ち上がらないのか?
そこには、支配階級の属国意識とそれをよしとしている庶民の側の「お上」意識の共犯関係があるのではないでしょうか?
今回から、「属国意識の源流を辿る」シリーズとして、この支配階級の属国意識と庶民の側の「お上」意識が日本においてどのように形成されてきたのかをみていきたいと思います。
初回は、この問題提起がなされた今年6月のなんで屋劇場レポートの紹介です。
なんで屋劇場とは、経済予測、意識潮流展望、企業のあり方等、様々なテーマを扱うなんでや店主を中心とした勉強会で、毎月1回開催されています。
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posted by staff at : 2011年07月31日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2011.07.30
縄文晩期とはどのような時代か?2~渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に
「縄文晩期とはどのような時代か」シリーズ
●~はじめに~
●1.寒冷化の危機が渡来文化への融和を促進
第二弾です。
日本の歴史は渡来民が大量にやってきた弥生時代に稲作の拡がりともに大きな変化が訪ずれました。稲作の伝播をもって弥生時代と命名されており、教科書的にはこの時代をもって日本の文明は始ったとされています。
しかし渡来民は縄文晩期には既にかなり日本列島に到達しています。また、稲作についても既に縄文晩期には九州で始っており、弥生時代は500年早まったという説が登場しています。
しかし、縄文晩期と弥生時代ではやはりある一定の線引きがあるのではないでしょうか?
強いて言えば縄文晩期の渡来民は平和的に縄文人と融合し、弥生時代以降特に中期以降は渡来民同志が日本列島の中で戦争を始め、私権時代に突入しています。
弥生以降を私権社会の始まり、縄文晩期はその前夜だと捉えるとこの2つの時代の堺は見えてくるように思います。
この戦争の始まりをどう見るかはこれからの追求テーマとして置いておくとして、縄文晩期の平和的融合についてはこの時代の分析として触れておく必要があるように思います。
ということで、今回は縄文晩期における縄文人と渡来人との平和的融合の状況を探っていきます。
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posted by nishi at : 2011年07月30日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2011.07.28
著書分析より明らかにする日本支配史の始まり~1プロローグ~
こんにちわちわわです。
今回から新シリーズを立ち上げます。
稲作を伴って日本列島に渡来した弥生人は「倭人」と呼ばれ、先住の縄文人を征して「倭国」を形成した。彼らの渡来は紀元前400~450年ころの縄文晩期とみられている。
画像は “>古代群像さんからお借りしました。
ところが同じ倭人の称をもつ部族が中国大陸にもいた。
『論衡』によると紀元前1000年、周代初頭の記事として、例えば「周時天下太平にして、越裳(越人)白雉を献じ、倭人、鬯艸を貢す」などの文が3箇所にみえる。
中国大陸にいた倭人は、一体どこに住んでいたのであろうか。
その倭人の住地を捜し求める調査研究の結果、長江上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、いくつもの倭人の王国があることを知った。『史記』が記す滇・夜郎・且蘭・昆明・寯・徙・筰・冄・蜀・巴などの国々であるが、秦始皇帝と前漢武帝の征討を受けて、多くの王が殺され、滅亡していった。
彼ら倭人は新石器時代初めごろ、雲南省の周辺に点在する湖畔で、水稲の人工栽培に成功し、高床式建物を考案した。彼らはその稲作と高床式建物を携え雲南から各河川を通じて東アジア・東南アジアへ向けて広く移動分布した。
そうした、文化的特質を共有する民族、つまり、日本人と祖先を同じくするものを、先年来「倭族」という概念で捉える。
それら倭族の中で、長江を通じて東方へ向かった一団の中から、さらに朝鮮半島を経由して日本列島にまで辿り着いたのが、日本における弥生人、すなわち倭人である。
~『古代朝鮮と倭族』より~
今回のシリーズでは、日本人のルーツを探る上で、この大陸に存在した「倭人」がどんな民族だったのか、何時、どのようなルートで日本に渡来したのかを、この道の権威である3名の著書から紐解いていきます。
『古代中国と倭族』 鳥越憲三郎著
『古代朝鮮と倭族』 鳥越憲三郎著
『邪馬台国論争終結宣言』 山形明郷著
『騎馬民族征服王朝説』 江上波夫著
中国、朝鮮、日本の支配史を解明する事で属国意識の源泉を探ります。
また、支配者の構造を明らかにすることで、歴史上常に存在する支配者と庶民の断層が浮き彫りになるでしょう。
このシリーズから、日本人の可能性が少しでも見えてくれば幸いです。
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posted by tiwawa at : 2011年07月28日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2011.07.26
日本の支配階級の意識構造を解明する ~極東アジアの支配の歴史4 三韓・新羅・高麗の歴史と意識構造
前回は朝鮮儒教を切り口に、現代・朝鮮半島特有の意識構造を見てきました。
今日は、現代の意識構造がどのように確立していったのか?朝鮮半島の歴史を遡って調べてみたいと思います。
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posted by dai1028 at : 2011年07月26日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2011.07.22
中国とは何者か?-ヨーロッパとイスラムと中国-
「中国とは何者か」シリーズのまとめの一環として、ヨーロッパ、イスラム、中国を対比しつつ、各地域の観念収束のありように焦点を当て、それぞれの民族的特質を明らかにしていきたい。
分析軸として、各地域の置かれた環境(外圧)、支配民族の出自、収束した思想(観念)、社会制度の特質という項目で整理していきます。
写真はそれぞれこちらとこちらと こちらからお借りしました。 |
ヨーロッパ。
ヨーロッパ、とりわけギリシャローマ文明を生み出した地中海地域の特徴は、平地が少なく土壌が貧弱で、農業生産力に乏しいことである。農業生産力が貧弱という点でも、地政学的にもヨーロッパはユーラシア大陸の僻地の位置にある。
またヨーロッパにおける古代国家成立の特徴は、イラン高原に始まる略奪闘争の玉突き的伝播によって、部族共同体が解体され、逃げ延びたものたちがあちこちから集結し、盗賊集団(山賊や海賊)を形成し、彼らが略奪闘争の覇者になっていったという点にある。彼らは部族or氏族を解体されてしまった者たちであり、各人の出自はバラバラで、利益獲得という一点の目的の下に集まった人口集団である。かつヨーロッパの被支配部族もこの略奪闘争によって殆ど部族共同体を解体されてしまっている。「なんでや劇場レポート」
いつも応援ありがとうございます。
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posted by kitamura at : 2011年07月22日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2011.07.18
縄文晩期とはどのような時代か?1~寒冷化の危機が渡来文化への融和を促進
本シリーズは、現在の日本の閉塞の最も大きな原因の1つとなっている、日本支配層の属国意識について、その起源や歴史について追求するに先立ち、縄文晩期、渡来人が本格的にやって来始める時代の状況に迫っています。
5000年前、縄文中期より長江文明より渡来人が少しずつ日本にやって来るのですが、2800年前からその流れが加速し弥生時代へと入って行きます。(かつては、2800年前は縄文晩期といわれていましたが、最近では弥生の始まりは500年遡るとされるようになりました。)
この時、縄文人は、戦争した形跡はなく、恐らく大陸の乾燥化→北方民族の南下により押し出された長江文明の人々を受け入れたとされます。渡来民が大陸を脱出し、縄文人は受身で受け入れたというイメージがありますが、実は、縄文人のほうにも、積極的に彼らやその文化を受け入れる理由、必要、隙のようなものがあったようなのです。
このあたりの状況は、現在の日本人の気質、受入れ体質や、舶来信仰にも繋がっているかもしれません。では、まず縄文の気候と植生、外圧状況の押さえから
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posted by fwz2 at : 2011年07月18日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList