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属国意識の源流を辿る2~属国意識の形成過程

属国意識の源流を辿るシリーズ第2弾です。
日本の支配者に歴史的に形成されてきた属国意識って何だろう?
これは、現在の日本の状況を読み解く上で重要な支配者の意識構造と捉えています。
原発の大事故、さらにそれを受けて誰が考えても脱原発なのに未だに決断をモラトリアムする政府、東電。さらにその上に乗っかり好き勝手な事を発しながら未だにその地位を追われない無能なトップ。それを見て引き摺り下ろす事のできない大衆。これら全て日本の支配者の属国意識と大衆のお上観念という見方で見れば整合し、その根深さに改めて驚きます。
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こちら [1]よりお借りしました。
これから歴史を辿っていく過程を始めていきますが、たたき台としてこの属国意識の形成過程を一旦仮説で組み立ててみました。
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属国意識は朝鮮、日本の政治意識として顕著ですが、実はこの意識は中国という大国が中心にあり、その周辺を小国が取り巻くという東アジアの特有の枠組みによって派生したのではないでしょうか。そしてその意識は中心である中国で最初に形成され、それが周辺国に転写したと見ています。
■属国意識の根本は中国にあり!
そのきっかけは実質上の中国最初の統一国家、漢以降に行なわれた朝貢という国家関係にあります。朝貢関係とは中国側から見れば圧倒的な国家の力関係を利用して周辺国との序列関係を確定する事であり、周辺国から見れば中国と朝貢関係を結ぶ事で侵略の危機を脱することができるという都合のよい制度です。序列関係上の下を認め、言う事を聞く代わりに大国の庇護を受けるという関係になるのです。具体的には中国と高句麗、新羅、百済がそれに相当し、また日本も大和朝廷は大陸と朝貢関係を結んでいました。
さらに高句麗や新羅が建国される前からも朝貢関係は中国国内で王朝と周辺諸侯が納める小国との間で結ばれていました。

遡れば朝貢関係という形になる以前から中国では王朝交代の度にそれまでの配下の諸侯が下克上で成り上がり王朝を転覆させるという事が常態であったように思います。夏王朝を転覆させた殷、殷を追い込んだ周、周を追い回し、大国を築いた秦、いずれも上下関係を逆転させて王朝が形成されています。
一旦は王に仕える筆頭諸侯がある時に反旗を翻し征服する、朝貢制度とはそれらの歴史を繰り返してきた中国が作り出した安定政策の一環なのではないでしょうか。
しかし、この朝貢関係を結ぶ相手国もしたたかで、この関係を利用しつつも隙あらば逆転を狙うという意識が同時に形成されていきます。
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■属国意識は小国が大国の中で行きぬく軍事戦略
この力学を最大限利用して唐に継ぐ大国に成り上がったのが新羅です。新羅は元々高句麗の属国として建国します。そして高句麗自身も中国東北の騎馬民族である扶余族が南進して建国されました。新羅は建国当初は既に隣国で形成されていた百済や南方の小国任那にも劣る弱小国家でした。しかし、中国から最も離れていたこの国は中国と朝貢関係を結ぶと、挟み撃ちにしながら時に百済と、時に高句麗と、時に唐と手を結びながら相手の戦力を利用して戦乱を勝ち抜いていきます。
そうして朝鮮半島を7世紀末には統一し、戦乱で疲弊していた唐までも国内から追い出し、最終的には完全独立を達成します。この「日和見主義」で、「よらば大樹の陰」の新羅が半島を統一した意味は大きいと思われます。同じ扶余族出身ですが、百済や高句麗よりはるかに弱いという国家状況が新羅の危機意識を刺激し、それが強力な属国意識に可能性収束し勝つはずのない新羅が勝ち続けたのです。いわば、統一新羅によって属国意識が弱小国家の軍事戦略そのものになったのです。
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■属国意識と下克上意識は微妙に繋がっている?
これは中国という大国の下、どうひっくり返っても勝てないという現実を前に存続の戦略を探った小国の意識の結集であるとも見て取れます。当然、この属国意識を利用した軍事戦略は大小の違いこそあれ、隣国の高句麗や百済の王族の中にも存在していました。そしてこの意識は平時には従いながらも、相手(大国)の様子を伺いながらいざという時は反旗を翻す下克上意識も形成していたのです。
日本に逃げ延びた百済や高句麗の王族はこの意識を持ってたどり着いています。彼らが恐れたのは唐の圧力であり、逆に唐によって国を追われた彼らはまさに隙あれば一矢報いたいという意欲に満ち溢れていました。7世紀末に起きた唐に対する百済王族が建てた大和王朝の戦争「白村江の戦い」はまさにそのタイミングで母国奪回の逆転を狙いましたが、圧倒的な戦力の差から敗北します。しかし、これが最大の転機であり、以降の日本の支配者は属国意識の表の戦略ーひたすら追従に邁進することになります
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こちら [4]からお借りしました。
■日本は属国になることで建国した
以降は朝貢関係を利した親唐戦略、ほとんどトレースした律令制度、仏教、漢字の受け入れなど、ひたすら大国「唐」を後追し庇護を受ける側に回りました。後に高麗や李氏朝鮮が同様の状況に陥り小中華と呼ばれるぐらい中国より中国らしくなりましたが、日本の建国当時の状況はその時代より300年遡り小中華を目指した時代であったとも言えます。半島同様、日本も中国との属国関係に一心に向かう事で、最大の侵略危機を乗り越えたのです。遣唐使の派遣はその当時頻繁に行なわれますが、ひたすら大国中国の文化、政治を受け入れる為の属国戦略の一環でした。
■朝鮮と日本を分けたものは・・・
しかし朝鮮半島と日本が大きく枝分かれするのが、平安時代以降になります。
899年遣唐使の中止などそれまでの朝貢関係を排除する事に成功しましたが、それは単に唐が内戦によって弱体化したという相手側のお家事情に他なりません。また、相手が弱体化すれば一気にそれまでの国家間の序列関係を排除できるというのも海という防衛網を持つ日本特有の動きです。同時代の朝鮮は一様に中国の圧力は受け続けていました。
ここから日本は独立国としての路線をとり始めます。しかし、一旦植えつけられた政治手法はその戦場を国内に移したに過ぎず、平安時代以降は内政としての属国意識が継続します。寄らば大樹の陰、序列関係の形成と転覆の機会を伺うといったせせこましい政治意識はその後の日本の権力闘争に転写され、存続したのではないでしょうか。
一方朝鮮の方は高麗、李氏朝鮮と時代を経るに連れて中国との属国関係はより強力になり、まさに小中華として存続する道を選ぶ事になります。
一旦道が分かれたかに見えるこの2つの小国は属国意識の変遷過程が異なるだけで、中国に近接する朝鮮半島はよりストレートに、海を隔てた日本は意識下に潜伏しながらもその本質は変わらず、今日まで及んでいます。既に中国という脅威はなくなったものの、新たな属国対象として欧米を追従した近代史はその意識が潜伏していた事の証左でもあります。

以上、まだ歴史事実との検証を重ねる前の仮説ではありますが、このような仮説から次に具体的な歴史を見ていく分析に入っていきたいと思います。まずは日本と朝鮮、中国の最もきな臭い大和朝廷時代の海の上の国家関係を見ていきたいと思います。

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