地方豪族と大和朝廷を繋ぐ「部民制」とは? |
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2009年06月22日
継体天皇は応神天皇の弟であり、仁徳陵の被葬者である。
日本で一番大きい古墳(大阪府堺市の仁徳陵)と二番目に大きい古墳(大阪府羽曳野市の応神陵)に埋葬されているのは百済の王子、しかも二人は兄弟、という異説を紹介します。世紀の大発見か?単なるトンでも説か?ブログならではの、大胆な仮説(or珍奇な仮説)に迫ります。
参考文献:林順治著「応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった~異説日本国家の起源」
筆者が紹介するのは主に、石渡信一郎氏という在野の古代研究家の研究成果です。江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」を継承しながら、さらに推し進めた説であり、古代日本国家が、新旧二つの朝鮮渡来集団によって建国されたことを論証していきます。
あらかじめお断りしておきますが、筆者は日本書紀や古墳から発掘された遺物に記された年号(神功50年とか辛亥年)を、西暦に置き換えるといつになるか?ということにかなりの紙数を費やしていますが、読み解くには相応の専門知識が必要で、それだけで2-3ヶ月の研究・追跡を要します。
なので、
ここでは、結論として、
石上神宮の七支刀に記された泰和四年=369年、日本書紀神功紀52年=252年と推定しているということの紹介にとどめ次に進めます。
ぶっとび説です。アタマの中が大混乱・混線しながらまとめてみました。
応援よろしくお願いします。
広開土王碑文に記された倭国と高句麗の戦争は、おおよそ次のような内容です。
391年ごろから倭国軍は海を渡って新羅と百済を破って両国を支配下においたので、高句麗は百済を襲い、百済に奴客の誓いをたてさせた。しかし399年、百済は約束を反故にして倭国と同盟を結んで高句麗に敵対したばかりか、倭国と連合して新羅を襲った。新羅が高句麗に救援を依頼したので、高句麗は新羅を占領している倭軍を撃退して倭軍が根拠地としている任那加羅の従抜城を陥落させた。ちょうど西暦400年(永楽10年)である。404年にも倭軍は百済軍とともに帯方地方に侵入したが、高句麗軍は撃退した。
ここで広開土王碑にみえる倭とは、大和に都を置く加羅系統の崇神王朝だったとしています。第一次加羅系渡来集団の東進の軌跡を押さえておきます。
●第一次加羅系渡来集団の東進
4世紀前半 加羅系渡来集団は邪馬台国を滅ぼし、北九州に前線基地を築いた。
瀬戸内海を東進し、難波・河内を征服。
4世紀中頃 ついに三輪山に纒向王都建設
木津川、初瀬川を利用して伊勢・伊賀・近江を支配。
伊勢は東海・関東への進出拠点にもなる。
→日本列島内に諸加羅系王国からなる連合王国の成立
→加羅諸国と日本列島の諸加羅系王国の連合王国の首長=崇神が王になる。
最後に加羅系王国の首長となった崇神の系譜を西暦で押さえると、下記のようになります。
342年 南加羅王即位
350年代 倭国に渡来→連合王国の長となる
379年 死去→箸墓古墳に埋葬
以上より、広開土王碑にみえる倭は、大和に都を置く加羅系統の崇神王朝だったとしています。
●第二次百済系渡来集団
461年 百済蓋歯王(コウロオウ、即位455~477)の弟、昆支(コンキ)が倭国渡来。
倭国=崇神朝の人質、兼、娘ムコとしての渡来です。実は「三国史記」には、昆支は兄である蓋歯王コウロオウ)の死後、その子文周王が百済王に即位した477年4月に内臣佐平という重職に任命されています。しかし同年7月に死去の記載。このことについて石渡氏の下記の解釈を紹介しています。
蓋歯王(コウロオウ)の死後、「左賢王」の地位にあった昆支(コンキ)が即位するのが当然であるが、昆支が百済王にならなかったのは、百済の国王になるよりも倭国の国王になるほうを選んだからと思われる。蓋歯王が死亡したとき倭国にいた昆支は、倭王興のもとですでに第一人者であり、興の後継者として予定されていたのであろう。昆支は倭国王となって百済を援助することにより、兄の蓋歯王を殺した高句麗に復讐しようと考えたにちがいない。そのために、百済の王位につく権利を文周王に譲った。そこで、王位継承順位で昆支よりずっと下位にあった傍系の文周王が即位することになったのであろう。しかし、倭国も百済も、昆支が後に倭国王になったことを秘密にした。そこで、傍系の文周王が即位した事情を隠すために、百済は、文周王を蓋歯王の子とする史書を作成した。「三国史記」は、この史書に基づいて「三国史記」百済本紀を編纂したのである。
この昆支こそ、応神天皇である、倭王武である、と比定しています。
昆支を応神陵の被葬者にちがいないと考えたのは、応神陵の着工年代を仁徳陵より10年古い490年前後と考えたからです。(ぶっとび その1)
さて。
では仁徳陵に埋葬されたのはだれか?
石渡氏は、昆支の弟である余紀(ヨキ)=継体であると比定しています。(ぶっとび その2)
継体天皇は通説では応神天皇5世孫となっていますが、実は弟であり、次期天皇であり、つまり、応神~継体の間の10代の天皇は架空であるというのです。
「継体紀」の任那分割における百済・新羅・加羅・倭国の4者の紛争は、加羅系渡来集団によって建国された日本古代国家の建国事業が、母国百済を去った二人の王子、兄昆支と弟余紀の百済系王統に引き継がれたことを示しています。崇神を始祖王とする加羅系渡来集団を引き継いで倭国大和の大王となったのが、昆支を始祖とする百済系渡来集団です。二つの集団の母国加羅・百済と倭国の関係は、いわば本家と分家の関係でした。分家が栄え、本家が中国南北王朝の圧力や高句麗からの侵略で疲弊する構図です。
継体天皇が即位して6年目にして早々と任那の4県を百済に割譲したのは、百済武寧王が継体の甥であり、継体にとって百済は自分の母国であったからです。
磐井の反乱は、このような百済を母国とする二人の兄弟による任那分割に対して生まれた、旧加羅系崇神王朝を母胎とする有力豪族の反乱を意味する象徴的な事件です。
応神のつぎが、弟継体。
なかなかセンセーショナルな説です。しかし、石渡氏の説は、これだけにとどまりません。この後、昆支系王朝と継体系王朝の対立を招き、昆支王朝とはすなわち蘇我王朝にほかならない、と論証していきます。
これは、次回のお楽しみに。
うらら
投稿者 urara : 2009年06月22日 TweetList
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