ポスト近代市場の可能性を日本史に探る~日本市場史年表(古代~江戸鎖国まで)~ |
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2010年05月21日
新シリーズ「インドを探求する」
こんばんわ 😀 。管理人のtanoです。前回の縄文体質を切開するが終り、新しいシリーズが始まります。いきなりですが、今度は私たちはインドに行きます。
インドは現在BLICSとして注目され、アメリカが全面的に依存するほどの目覚しいIT技術者量産から頭脳大国として注目され始めている。
朝日新聞インド特集
また経済成長も著しく、GDPもついにドイツを抜き米、日、中に続いて世界第4位、小子化政策の失政であえぐ中国を尻目に若い労働力を大量にかかえるインドの人口構成はそれだけで、次世代の可能性を感じさせる。人口10億を突破したインドであるが、現在でもカースト制度が残っており、民主化政策の裏返しである身分制度は色濃く残っている。
しかし、現在IT技術者として活躍しているのは意外にもカーストの最下層に位置するドラビダ人であることはあまり知られていない。
その経済成長だけでなく活力、体制とも世界中が注目しているインド、なぜ今インドが元気なのか?その本質的な原因は何か?インドから何が学べるのか?
今回、この縄文ブログでは初めてインドの特集を組んでみたいと思う。
野町和嘉写真集よりお借りしました。
実はこのインド特集を組むに当たって縄文ブログの仲間とインドについて話してみました。そこで日本とインド、かなり似通った部分があり、また大きく異なる部分がある事に気がつきました。その当りを少し触れて以降の探求の切り口としてみたいと思います。
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【インドと日本】
インドは古代に1000年間にわたる文明がある。その中心はドラビダ人であり、その後北方からのアーリア人によって侵入され、ドラビダ人は定住地を追われた。南へ追いやられたドラビダ人であるが、アーリア人との激しい戦争はなく、インドのその後の戦争はアーリア人同志又はアーリア人と北方から来る侵略民族との間で繰り返された。
アーリア人はドラビダ人を追いやりのその地を占拠すると侵略行為を正当化し、ドラビダ人の反乱を防ぐためカースト制度とバラモン教という宗教を発明した。ドラビダ人はそれを追共認するしかなく、以後のインド史においてカースト制度が残る限り、一貫してアーリア人の下に組み込まれることになる。
これら、カースト制度は他国の身分制度とやや異なり、植民地時代、以降の独立の時代を迎えても決して崩壊する事がなかった。カースト制度は良くも悪くも、言語や民族が多様に異なるインドを一国として束ねる唯一の統合秩序として今日まで有効に働いている可能性がある。
それはもはや単なる序列制度というだけに留まらない私権闘争を止揚する有効な制度として息づいているのかもしれない。カースト制度故に逆にドラビダ人の民族性は担保され、本源性が温存されていった。今日のインドの頭脳が誕生している背景にはカースト制度が何らかの形で絡んでいる可能性があるのかもしれない。今回の探求ではインドを解明するキーワードをカースト制度に置いてみたい。
~インドになぞらえて日本史を追いかけてみる。
日本は古来、1万年の縄文文明という時代を持っている。その中心は縄文人であり、弥生時代に渡来人により大陸から侵入され、混血したが縄文人の一部は東北へ追いやられている。ここでもドラビダ人同様に戦争を経ずに弥生人の体制下に組み込まれていく。天皇家、貴族という圧倒的な身分差故に私権獲得の可能性を失った庶民はむしろ本源性が温存され、それが表れる「庶民感覚」は江戸、昭和まで日本人の中心的価値であった。日本人の勤勉性、自動車技術に代表される緻密さ、きめ細かさは世界を圧倒し、80年代以降に世界中で日本人の頭脳と組織力が注目されている。
インドを解明する事が日本を解明する事に繋がるのではないか?我々はそう考えてみた。そこでまず、似通った部分・異なる部分を箇条書きにしてみる。
似通った部分)
1.インドも日本も古代に長期間かつ高度な文明(インダス文明・縄文文明)をもっており、後の民族の侵入(インドはアーリア人・日本は弥生人)によってその後に新しい文明が塗り重ねられている。
2.インドも日本もユーラシア大陸の東端、南端に位置し、多くの民族が長い時間をかけて混交して古代の文明が出来上がったものと推測される。
3.インドも日本も森林と河川が豊かにあり、採集生産に適した土地である。
4.インドも日本も旧民族と侵略民族との間で大きな戦争はなく、侵略民族が作ったルールや宗教に則って、その後の社会が秩序化されていった。
5.上記のように激しい戦争がなかった為にインドも日本も現代まで本源性が残存している。(日本は縄文体質という精神性、インドはドラビダ人という民族の中で温存)
6.インドも日本も私権体制つくりに他国にない特色があり、インドはカースト制、日本は天皇制というものを構築する事で私権闘争の激化に結果的に歯止めをかけた?
7.インドも日本も頭脳労働における優位性を世界で評価されており、それぞれIT産業、自動車産業で特化している。
異なる部分)
1.インドは中央主権による帝国主義を貫き、日本は建国初期こそ帝国主義であったが100年もしない内に、封建制へ移行している。
2.インドは1600年過ぎから長い植民地時代を経験しており、日本はアメリカの占領下に入ったが直後に独立が認められている。(実質的な植民地経験がない)
3.インドは現在でも格差が非常に大きく、逆に日本は格差が世界的に見ても小さい。
4.インドは軍事大国であり核保有国である。日本はその逆である。
さて、問題はインドを探求するといってもどこから手をつけていいかわからない。
そこで、インドを探求する上でまずは3つのテーマを設定してみた。
・インドのカースト制度とは何か?どのような効果を発揮したのか?
・インドではなぜほぼ同時に数学・天文学・医学が誕生したのか?
・インドで発生した仏教がなぜインドに根付かなかったのか?
また最後にはIT大国となったインド人の優秀さの原動力にも触れてみたい。
まとめとして、この混沌たるインド、活力溢れるインド、いくつもの顔を持つインドに次代の世界秩序を牽引する可能性はあるのかについて一定の答えを求めて行きたい。
まだインドの本を買い集めて読み始めたばかりですが、壮大なテーマを前にして少々たじろぎながらも、一歩ずつサロンのメンバーと一緒にインドを学んでいきたいと思います。
巷のインド研究家の方もぜひ、縄文ブログのインド探求を一緒に楽しんでください。
それでは以降の投稿スケジュールを示しておきます。
その通りに投稿できるかどうかはガンジスの神のみぞ知るですが。
1.現在のインドの状況と巷のインド分析
2.インドの歴史概況
3.インダス文明とアーリア人
4.インド哲学の起源とは
5.ヒンズー教とカースト制度
6.仏教はなぜ誕生したのか?
7.仏教の伝来史とその経路
8.インドの外交史と植民地化のインド
9.インド人が優秀なのはなんで?
10.まとめ~インドは次代を牽引できるか?
投稿者 tano : 2010年05月21日 TweetList
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コメント
投稿者 カッピカピ : 2010年8月16日 00:28
>ヒンズー教は、その異文化への受容性の高さが、すべてを飲み込み、ヒンズー化=インド化していくという特質を持つ。
その受容性の高さから、
>いかに異質なものも結局は単一・同一のものの異なった側面にすぎないという観念の共有であろう。
といった様に、本源的な側面があるかと思えば、
>四住期の法
の世俗と縁を切るといった、いわば現実否定のような側面も出てきてしまったのかなと思います。
インダス文明あるいはそれ以前に醸成された、思想?のようなものが、ヒンズーの奥底にはあるのではないかと思います。
なんか、日本に似てますね。
投稿者 たかし : 2010年8月17日 21:14
わかりにくいヒンズー教をわかりやすく書いていただきありがとうございます。
>すべてのものは単一の神、の顕現であり、いかに異質なものも結局は単一・同一のものの異なった側面にすぎないという観念の共有であろう。
インドの強さとはこの考え方に集約されるのかもしれません。
この発想をいろんな事に適応していればおのずとあらゆるものが肯定感をもって受け入れる事ができます。これを宗教の中に取り入れ、もう当然なものとして体幹として肉体化している事がインドの強さだと思います。
世界的な恐慌や混乱が起きる可能性が高くなる次の時代は否定発の欧米的選民思想では秩序は維持できません。インドや日本のような肯定性や受け入れ体質の基盤を持つ国が秩序を維持し、次の世界の中心になる可能性が開かれてくるように思います。
さてこのシリーズの詰めに進みましょう。
投稿者 tano : 2010年8月17日 21:29
カッピカピさん、こんばんは。
>私権の獲得も奨励し、本源充足も奨励する、その意図は如何に・・・・
アルタ=私権と、カーマ=本源と読み解いたのは、なかなか鋭い質問だと思います。
まず、原始的な形態である精霊信仰を根っこに残した、多神教であることが、西洋の一神教の宗教とありようが異なる、一つの要因ではないでしょうか。地方では男根信仰なども残っており、性に対しては、肯定的な傾向が強いのではと思います。
アルタ=私権、と置き換えられたのは、まだまだ貧困が残るインドではイメージしやすいとは思いますが、実利や物資的利益全般を指すアルタは、そのの代表的経典とされる「カウティリヤのアルタ・シャートラ(実利論)」では、主として国益の追求を目指しており、本来は、必ずしも己の私権性の追求のみを指向してるわけではないようです。特に上位層にとっては、人々を統合する上での規範としての側面も持ち合わせているのではないでしょうか。
投稿者 yuyu : 2010年8月24日 22:32
たかしさんこんばんは。
>インダス文明あるいはそれ以前に醸成された、思想?のようなものが、ヒンズーの奥底にはあるのではないかと思います。
>なんか、日本に似てますね。
確かに、ご指摘のように、日本に似て、潜在思念上捉えられる、「本源的な何か」を感じますね。
先に、カッピカピさんにも返信しましたが、やはり精霊信仰を根っこにもつ、多神教という側面が大きいように感じます。日本人に比べやや観念的な感じもしますが、あらゆるものに神が宿るというといった感覚は、日本人ににてるように感じます。
四住期の法の世俗と縁を切るというのは、貧困が色濃く残るインドでは、現実=逃れられない私権社会からの脱出の方法として、世知辛い世俗と縁を切るしか、平穏を得られる方法はなかったということではないでしょうか。死ぬまで私権に執着せず、最終的には、私権追求から離脱し、隠遁生活を指向するあたりは、日本人に通じる感覚なのかも知れませんね。
投稿者 yuyu : 2010年8月24日 22:58
tanoさん、こんばんは。
>この発想をいろんな事に適応していればおのずとあらゆるものが肯定感をもって受け入れる事ができます。これを宗教の中に取り入れ、もう当然なものとして体幹として肉体化している事がインドの強さだと思います。
肯定感を伴った受け入れ体質がインドの強みというのは、私も同感です。
インドの潜在的な生産能力を現すのに、かつてよく、「部品のねじから人工衛星まで、インドでつくれないものはない」といっていたように思いますが、現在はこれにITが加わり、技術的な受け入れとその応用力の高さは、実証済みです。
技術的な面はもとより、秩序の維持と統合という観点でも、日本と同じように、インドの奥底に残存している本源性が顔を出す事可能性は高いのではないでしょうか。
投稿者 yuyu : 2010年8月24日 23:19
宗教は、皆が私権をむさぼることによって、本源集団が解体された結果、失われた本源欠乏=本源充足を得るために生まれてきた、と認識しています。その意味で、ヒンズー教がアルタ=私権と、カーマ=本源の両方を人生の目的としていることは、非常に興味深いことだと感じています。私権の獲得も奨励し、本源充足も奨励する、その意図は如何に・・・・