2013.05.30
東にあった「もう一つの日本」6~鎌倉幕府は武士による天下統一ではなく、東国の独立を全国に宣言したものだった~
この間、東国について追究してきたように、朝廷側は防人制度、蝦夷討伐、そして後に続く俘囚制度とさまざまな施策、租税の強化を講じて東国を支配しようとしてきました。しかし、そのどれもが失敗に終わり、その爪跡は、着実に東国民の反感をつのらせていきました。
何とかして東国を支配しようとする朝廷側と、自分達の集団や生活を守ろうとした東国民との戦いはどのような結末を迎えたのでしょうか。シリーズ第6回目は、平安中期から鎌倉時代までの東国に焦点を当てていきます。
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posted by hi-ro at : 2013年05月30日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.05.23
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~4.古代豪族はネットワークで結ばれていた2
みなさん、こんにちは!前回の記事『「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~3.古代豪族はネットワークで結ばれていた1』は、国内外の闘争外圧、及び、国内の同類圧力(統合圧力)により、古代豪族のネットワーク(=葛城ネットワーク)は、弥生時代以前の縄文人のネットワークを基盤にして、情報ネットワーク→防衛ネットワーク→統合ネットワークと発展し、大和政権が樹立した歴史の流れを検証しました。
その中で
★「古代豪族ネットワークとは、原初の共認ネットワークであり、その延長線上に大和政権も存在する。」
★「私権ではなく共認形成を統合軸とする日本独自の統治形態の根幹を見出すことができる」
の上記の2点が、明確になりました。
日本の各古代豪族が、共認統合を基盤として結ばれていたと考察できます。「大和政権の源流と葛城ネットワーク」の4回目は、これらのネットワークが、縄文贈与ネットワークを基盤に、稲作ネットワーク・銅矛・銅剣・銅鐸ネットワーク、古墳ネットワーク、神社ネットワークという具体的な形式で実現されていきました。
これらを、検証し、各豪族を結び付けている正体はなにか?を見ていきたいと思います。
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posted by 2310 at : 2013年05月23日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.05.23
伽耶を知れば古代日本が見える7~抹消した朝鮮からの痕跡
みなさん、こんにちは
前回の記事では、現在の日本の中枢は百済系、伽耶系の権力闘争の結果に出来上がっている事を扱いました。
さて、今までのシリーズの中で、日本には、伽耶、百済の人々が次々と日本に渡来してきたことがわかりましたね。ですが、日本という新しい土地を得た彼らは、自分たちの国であった事柄を表に出してきていません。
みなさん、不思議だとは思いませんか 🙄
出さないどころか、よく見ていくとむしろ自分達の祖先の足跡を消してしまっているのです。なぜでしょうか 何らかの策略があったとしか思えませんよね。
今回はこの部分に焦点を当てて見ていきたいと思います。順番に消したものの内実を詳しく見ていきながら明らかにしていこうと思います
消えちゃった!?
こちらからお借りしました
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posted by ty-happa at : 2013年05月23日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.05.21
東にあったもう一つの日本5~集団を守ったアテルイと縄文人の闘い
こんにちわちわわです。
今回は10倍以上の大和朝廷軍を敵にまわして互角以上に戦い大勝利をあげたヒタカミ戦争・アテルイの戦いなど「蝦夷征伐」に焦点を当て、後の坂東武士につながる関東・東北人の姿に迫っていきたいと思います。
エミシ社会は、もともと血縁関係からなる氏族連合・部族連合を形成していました。そこに、縄文時代の氏族集落に主に高句麗からの渡来人が帰化、混血し、馬や鉄器を用いた農耕部族となり、部族間でゆるやかなネットワークを形成していきました。
大和朝廷は律令体制のもとで、服属したエミシ社会を集村の集合である村と、村の集合である郡郷に再編し、村には固定化した村長を置き、郡郷には族長を置いて「公」とか、「君」を付けた姓を与え、朝貢と軍役を任務させました。しかし、この族長が心底大和朝廷に隷属していたわけではありません。大和朝廷による侵略行為に抵抗し続けるうちに、馬と金属製武器による防衛力を次第に身に付けていったのです。
アテルイすごいと思った方↓↓ぽちっと!!
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posted by tiwawa at : 2013年05月21日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList
2013.05.12
東にあった「もうひとつの日本」~4.防人歌に込めた東国の魂~
みなさんこんばんは。今日はまず風流な和歌からお楽しみ下さい。
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防人(さきもり)に、行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と、問(と)ふ人を、見るが羨(とも)しさ、物(もの)思(も)ひもせず
意味 「防人(さきもり)に行くのはどなたのだんな様?」と何の悩みも無く聞く人を見るとうらやましい。
唐衣(からころむ)、裾(すそ)に取(と)り付(つ)き、泣(な)く子(こ)らを、置(お)きてぞ来(き)のや、母(おも)なしにして
意味 衣の裾(すそ)に取(と)り付いて泣く子供たちを置いてきました。母もいないのに。
我が妻(つま)は、いたく恋(こ)ひらし、飲(の)む水に、影(かげ)さへ見えて、よに忘(わす)られず
意味 私の妻は、とても私のことを恋しがっているようです。飲む水に妻の影さえ映って、忘れられないのです。
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これらの歌は、万葉集に収められている防人の歌です。ご存知の方も多いのではないでしょうか?
とはいえ、防人の歌がなぜ万葉集に多く収められているのか?それが何を意味するのか?まではあまり知られていないように思います。
今回は「東にあったもうひとつの日本シリーズ」のひとつとして、この歌を詠んだ東国の防人たち、防人制度を取り上げてみたいと思います 😀
いつも応援ありがとうございます
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posted by mituko at : 2013年05月12日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.05.10
伽耶を知れば古代日本が見える6~日本建国は百済系―伽耶系の権力闘争の果てにあった
日本建国は諸説ありますが、明らかに大陸の記録に日本が登場するのは百済滅亡後の670年代です。この日本建国直前には様々な渡来人の思惑がありました。
前回の記事では大和朝廷が伽耶人が興した国家であり、本国伽耶を失って以降は、対高句麗、対唐、新羅を前に百済人を取り込んで国家としての体制を整えていく決意をしたことを書きました。今回第6回では、伽耶と百済の古来からの関係を見ながら、伽耶人が後発で日本に乗り込んできた百済をどのように見ていたか、どう扱ったのかを見ていきたいと思います。歴史書などでは一般に日本は百済人が作ったと書かれることが多いですが、実態のところは伽耶人が大和朝廷の骨格を作り、後に百済人が乗り込んで合流した国家が大和朝廷であり日本国と思われます。
【朝鮮半島内での百済と伽耶】
百済、伽耶は共に国土を侵略され、日本に移住した国家ですが、朝鮮半島の時代からこの両国には複雑な関係がありました。
まず最初にまだ馬韓、弁韓と呼ばれていた時代、この地には呉越からの難民が多く流れ込みました。馬韓には呉人が陸伝いに到達、弁韓には越人が海を渡って到達します。したがってこの両国はかつては江南人の氏族が多く分かれて小国を作って定着していたことになります。その数は70国以上と言われ、国家という体裁を取らない状態が長く続いていました。やがて馬韓は3世紀後半に扶余人が入国し、百済という国家を樹立します。弁韓はそれよりかなり前(1世紀前半)に金官伽耶という国を建て、半島内で自立します。
高句麗の広開土王時代に百済、伽耶は共に攻撃を受け、百済は首都を奪われ、南の熊津に遷都、実質上国土の半分を高句麗に奪われます。この4世紀から5世紀にかけての攻防は高句麗が半島全部を支配しようとする強い攻撃でしたが、新羅、百済、伽耶は抵抗し、高句麗の大王、広開土王の時代が終わると形成を逆転させ、新羅は高句麗に代わって金官伽耶を収奪、百済も伽耶の一部の譲渡を受けます。
~国土を過半、高句麗に占拠された百済
伽耶―百済―新羅の関係は常に同盟関係でありながら敵対関係にもなり、中でも伽耶は新羅と戦うときには百済と手を結び、百済と戦うときには新羅と同盟するという節操のない国交をしていました。それは前にも述べたように伽耶が貿易国家で、両方の国に商業を通じて国交があり、どちらにもよい関係を結んでおく必要があったからです。
ここで言いたいのは、伽耶と百済の関係は半島内では決して一枚岩の同盟関係ではなかったという事です。
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posted by tano at : 2013年05月10日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.05.04
伽耶を知れば古代日本が見える5~~いざ、大和へ~大和朝廷は伽耶人が作った高句麗対抗国家
第3回で伽耶の特徴として武器商人国家である事をあきらかにしてきました。
1世紀から登場する金官伽耶がそれをリードしていきます。
金官伽耶はその歴史の過半は半島内での高句麗や新羅との戦いでした。
また、早くから日本に拠点を作り伽耶の鉄のネットワークを形成しています。
この伽耶と日本の交流は伽耶滅亡を経てやがてひとつになり大和朝廷を形成します。
今回はその過程を見て行く中で大和朝廷の源流に伽耶があり、それを促した中心に高句麗がある事をあきらかにしていきたいと思います。
【市場拡大の目的で作り上げられた九州―畿内のネットワーク】
伽耶と日本の関係を語るとき、大きく2つの地域に分けて考えていきます。
一つは九州。もう一つは大和朝廷が生まれた近畿地方です。
こちらよりお借りしました。
伽耶の主力は初期、地域的繋がりから北九州に定着します。朝鮮半島と目と鼻の先にある北九州は早くから伽耶の氏族が渡り、土着の弥生人(江南人+縄文人)を従え、鉄の王国を作り上げます。俗に言う九州王朝で早良国とも言われています。
北九州には100余国とも言われ、その大半が伽耶の氏族が渡って作った小国だったと思われます。
これが1世紀から2世紀で、鉄を圧倒的に所有していた北九州の小国家はそれぞれが伽耶と連携して鉄ていを輸入し、国内で加工し鉄具を作り耕作地を拡大していきます。北九州で農地が飽和すると、瀬戸内海を経由して畿内に入ります。そして畿内で最初に農地が拡大したのが奈良県東部にある唐古・鍵遺跡です。
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posted by tano at : 2013年05月04日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.04.30
東にあった「もう一つの日本」~3.高句麗の残影に怯えた朝廷(大和朝廷と関東日本国の関係)
前回の2つの記事では縄文から弥生時代にかけての関東地方を見てきました。
今回は、大和朝廷の時代へと先に進めます。
東にあったもう一つの日本の存在をこのシリーズで明らかにしていく事が本命題ですが、その解明は次回に送り、今回は同時期に西側で成長していた大和朝廷と、実際あったであろう関東日本国との関係を見て行きたいと思います。(関東日本国という命名は仮にさせていただいております。関東にあった古代国家は日高見国などと呼ばれる事もあり、学術的に認められている名称ではありませんので予めご了承下さい)
赤城山の遠景~こちらからお借りしました。
大和朝廷は4世紀出雲に入植した高句麗が作った国=出雲国に対抗する形で当時の畿内勢力、備前勢力を結集して連合国という形で誕生します。出雲との睨み合いが1世紀程続きますが、大型前方後円墳を林立させ、その勢力において出雲を圧倒します。
高句麗は同時期に新潟から群馬県に入植します。その後、埼玉まで行き、作ったのが稲荷山古墳です。
大和朝廷は主に伽耶系渡来人が仕切ったものと思われます。この辺りは別のシリーズで詳しく展開しますが、概ね誕生時は伽耶系渡来人が西日本の主要な地域を押さえ、豪族として成長していきます。それら豪族間を仕切っていたのが葛城で崇神天皇を伽耶から呼び寄せ、後に入り込んだ秦氏を古墳造営の先陣部隊として各地に派遣し、勢力の拡大と情報収集を行なっていました。
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posted by tano at : 2013年04月30日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2013.04.27
伽耶を知れば古代日本が見える 4~北方の本源集団 高句麗と、その末裔による民衆のための優れた統治(中国清王朝、江戸幕府)
伽耶を追求し、日本の古代史を明らかにするシリーズ。今回は、伽耶を含む南の3国に脅威であり続けた北方の大国「高句麗」を扱います。本シリーズ焦点の伽耶から外れますが、高句麗の民族性の分析はシリーズ後半に繋がっていきます。よろしくお願いします。
高句麗は、5世紀の広開土王の時代に領土を拡大し、その時代の強さが知られています。中国さえも恐れていた軍事大国と言われ、非常に好戦的な北方の大国と描かれることが多いように思いますが、実体はどうなのでしょう。非常に強いのが事実だとしたら、その力の基盤はどこにあったのでしょう。
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posted by fwz2 at : 2013年04月27日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.04.24
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~3:古代豪族はネットワークで結ばれていた1
みなさん、こんにちは。
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」の3回目。
今回は古代豪族のネットワークについて、2回に分けて考えてみたいと思います。
大陸より伝わった「稲作」という生産様式は、人々の土地への定着を促します。
稲作には、開墾や灌漑の為の土木技術や集団作業を行う為の統合力が必要となります。
そこで、この様な技術力、統合力を背景に地域を束ねる土着の豪族達が日本各地に現れますが、こうした豪族達がネットワークで結ばれていた、という事実はあまり知られていません。
古代豪族ネットワーク、これは世界的にも珍しい事例といえます。
どうしてネットワークが必要だったのでしょうか。
またどんなネットワークだったのでしょうか。
その後の日本史にどのような影響を与えたのでしょうか。
興味が尽きません!早速見てゆきたいと思います!!
画像はこちらよりお借りしました。
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posted by yama33 at : 2013年04月24日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList