2013.04.20
東にあった「もう一つの日本」~2.弥生時代の関東は縄文だった
前回の記事『縄文晩期の関東は空白地だった?』でも書きましたが、関東では、縄文後期から弥生初期にかけての寒冷化の影響で、大きな人口低下が起こったと言われています。縄文時代の関東は、漁撈と採取生産が豊富で、東日本の中でも人口の多い地域でした。しかし、東北と異なり、漁労への依存度が高く、寒冷化による海退の影響を大きく受けることになります。
縄文中期の海面 縄文晩期の海面
そして同時に起こった富士山の爆発、さらに植生の変化によって、これまで通りの採取ができなくなり、人口が大きく低下したと考えられます。このことは、さまざまな書籍で紹介されています。みなさんの中で、下の表を目にしたことがある人も多いと思います。
縄文時代の人口密度
しかし、これをもって関東地方は縄文後期から弥生初期にかけて空白地帯になったと言えるのでしょうか。シリーズ2回目では、この点についてもう少し深く追究してみたいと思います。
続きは応援クリック後にどうぞ・・・ 😀
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posted by hi-ro at : 2013年04月20日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2013.04.20
伽耶を知れば古代日本が見える(3)~伽耶とはインド商人が介入した東アジア最古の武器商人国家~
前回の記事(リンク)は、当時強大な力を誇っていた韓に最後まで侵略される事なく、朝鮮半島南端に在り続けた『倭』と呼ばれた地域のお話でした。
その地は後に『伽耶』と呼ばれるようになるのですが、『伽耶』とは辺境の地ではなく、朝鮮半島の中でも先端の文化を持った、倭人の国家だったのでは?という仮説がたちました。
伽耶山 コチラよりお借りしました
伽耶は朝鮮半島の南端に位置し、その防衛力の高い地形が特徴です。北は伽耶山(1430m)、西は智異山(1500m)という切り立った山々、東は洛東江という大河、南は海に囲まれ、どこからも攻め入りにくいという地理的に恵まれた土地でした。
しかし、山や川に囲まれ攻めにくいというだけで、周辺の強国は手をこまねいているでしょうか?やはり他の理由があるはずです。
今回はこの検証を行いつつ、伽耶がこの地でどのように文化を築き、強国に抵抗していたのか?そして彼らはその中でどのような民族性を獲得していったか?を追求していきます。
進めていくうちに、私たちが想像もしなかった『伽耶』の驚くべき本質が明らかになってきました。
本シリーズ前半のクライマックスです。
お楽しみに
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posted by pingu at : 2013年04月20日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.04.17
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~2.徐福と縄文の出会い
写真はこちらからお借りしました。
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」 1回目の今回は、古代豪族形成の起源となる「徐福集団」とはどのような集団だったのか、そして日本列島に住みついた彼らはどのように変化していったのかを皆さんと考えてみたいと思います。
いつものように、応援お願いします。
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posted by sinkawa at : 2013年04月17日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.04.06
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」 プロローグ
「和尚の大和路」葛城山より引用
大変、長らくお持たせしましたが、今回から新シリーズを立ち上げます
そのシリーズ名は「大和政権の源流と葛城ネットワーク」です。
大和政権の成立は、古代史の大きな謎 の一つですが、これまでも多くの歴史家や研究家から様々な仮説が提起されてはいるものの、いまいちピンとくる説がないというのが現状です。
そこで、本シリーズでは、大和政権はいったい何が源流となって、どういう過程を経て成立していったのか?の解明に挑戦していきます
先に半答えを提示すると、私たちは大和朝廷成立の背景に『葛城ネットワーク』の存在があったと考えます。葛城ネットワークと聞いて いう方も多いかと思いますが、続きに進む前に、ポチッと応援よろしくお願いします 😀
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posted by marlboro at : 2013年04月06日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.04.01
伽耶を知れば古代日本が見える(2)~『伽耶』とは最後まで抵抗した倭人諸国
みなさんこんにちは。
シリーズ【伽耶を知れば古代日本が見える】は第3回目となりました。
前回は「古事記、日本書紀がついた嘘とは」を扱いました。私達が学校の歴史で学んだ事と、現実に起こってきた事とは随分かけ離れていましたね。昔の紙幣に印刷されていた聖徳太子が架空の人物だったのも驚きでした。
日本の歴史の事実を明らかにした時、どんな現実がみえてくるのでしょうか?楽しみなのとちょっと怖い気もします。
さて、今回はシリーズ第3回目という事で【伽耶とは最後まで抵抗した倭人諸国】を扱います。
みなさんは「倭人」と聞くとどのような人を想像しますか?
「倭人」では魏志倭人伝などが有名ですが、一般的には「倭の国」=「ヤマトの国」、「倭人」
=「日本人の祖先」という事を想像されるのでは?と思います。
ところが、実際、調べてみると事実はそうでは無いようです。ここも歴史の教科書とは違いますね。今回はこの「倭」というのをキーワードに『伽耶』とは何か?に迫ってみたいと思います。
みなさんいつも応援ありがとうございます。
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posted by shinichiro at : 2013年04月01日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.03.26
東にあった「もう一つの日本」~1.縄文晩期の関東は空白地だった?
シリーズ『東にあった「もう一つの日本」』、第一回は、旧石器時代~縄文時代までの関東(関東平野)を中心に見ていきます。
(関東平野とは)
関東平野の特筆すべき特徴的は、そのとびぬけた広大さにあります。小平野の多い日本島の中にあって例外的に広大で、2番目に大きい根釧台地の3倍近い広さを持ちます。
広大な平野を形成した要因の1つは、平野をとりかこむようにして分布する多数の火山があることです。膨大な火山噴火に伴う火砕物質が、大量に盆地状地形に堆積し、平野を埋め尽くしました。関東平野を取り巻く様々さ自然環境要因が重なり、現在のような広大な平野となったのです。
この関東平野の地形を特徴づけるのが、“台地”と“低地”です。台地は,おおむね段丘地形に当り,段丘礫層や関東ローム層のような洪積層でできているので,洪積台地という呼び名が古くから使われています。低地は,いわゆる沖積地で若い沖積層が堆積してつくった平野です。
この台地、低地が形成された地質時代を“第四紀”と呼び、約260万年前から現在にいたる時代です。第四紀は氷河の消長と人類の発展で特質されるべき時代であるとともに、現在地上にみられる地形や生物分布の様相はたいていこの時代に形成されています。
関東平野は、北方には阿武隈・八溝・越後山地、西方には関東山地、南方には房総半島と三浦半島があります。さらに山地の前面には多摩・比企等の丘陵と武蔵野・下総等の台地が広がり、台地の前面は低地が発達しています。
この台地を構成するのが“関東ローム層”とその上層の“黒ボク土”と呼ばれる黒く薄い地層です。関東ローム層には後期旧石器時代の遺跡が、その上層にある“黒ボク土”からは縄文時代の遺跡が多数確認されています。
※写真は、関東ローム層の断面、最上部が黒ボク土
今回は、この関東ローム層や黒ボク土といった“地層の形成過程”を切り口にして、関東平野の旧石器時代~縄文時代までを見ていきます。
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posted by sai-yuki at : 2013年03月26日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2013.03.20
伽耶を知れば古代日本が見える(1)~古事記、日本書紀がついた嘘とは~
前回のプロローグから随分あいてしまいましたが、「伽耶を知れば古代日本が見える」シリーズを再開したいと思います。
プロローグにおいて、記紀の様々な嘘が挙げられていますが、これは「いつ誰が何の目的」で書いたのかが問題となります。
一般的に、「古事記は国内向けに編纂」され、「日本書紀は対外的な目的で編纂」されたと解釈されています。
これら二書の編纂の目的は、天皇家の国家支配の正当性を説明することにあります。
二書はそれぞれの世界観が異なっています。
共に天皇を神聖化し支配の正当性を主張していますが、古事記では、天皇の祖先が天の最高神であることに天下支配の根拠を求めています。一方、日本書紀では世界の始まりは中国の陰陽思想をもとに語られ、それが続く形で天皇の正当性が述べられています。
さらに形態や文体も異なっており、古事記は神や天皇の伝記を中心に物語風にまとめた構成で、漢文を下敷きにした和文体で表記されていますが、日本書紀では出来事を時代順に記した編年体で、中国で最も早くから使われていた歴史書の編纂形式をとっており、表記も当時東アジア世界の国際語であった漢文となっています。
つまり、中国の律令国家を目標にしていた日本は法と歴史の整備が重要課題であり、そのため中国(唐)向けの国史「日本書紀」を編纂し、その一方で天皇の国内支配を強化すべく、天皇家の私史「古事記」を編纂したと考えられます。
また、日本書紀は中国(唐)向けの国史でありながらも、後の天皇家の継承を裏付ける内容にもなっています。
それでは、本編に行く前にポチッ! と応援をよろしくお願いします
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posted by yoriya at : 2013年03月20日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.03.17
東にあった「もう一つの日本」~プロローグ
前回の弥生時代再考の中で古墳の章でも少し触れましたが、大和朝廷とは決して最初から日本を統一したわけではありません。
日本全国を一時期、前方後方墳と前方後円墳で2分したように、東には大和朝廷とは別の有力な勢力が長い期間(少なく見積もってもAD300年からAD600年までの300年間)はあったと思われます。また、大和朝廷から奈良時代にかけて日本国と国名を変えて以降も、この東の勢力は脈々と残り続け、現在の日本にまで繋がっているとさえ見る事ができます。
リンク・リンク・リンクからお借りしました。
そんな事あるか!と思う方ポチッと
posted by tano at : 2013年03月17日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.03.14
弥生時代再考エピローグ~日本人の本源性は女によって残された~
このシリーズでは6回にわたってテーマ追求をしてきましたが、今回が最後になります。そこで改めて弥生時代とは(日本にとって)何か?の答えに迫ってみたいと思います。
縄文のビーナス
プロローグで弥生時代とは私権社会の始まりであると仮説を出しました。
農耕の拡大、金属器の拡大は私権社会を拡大するための手段で、目的は渡来人為政者が私権社会を作る事、即ち大衆支配にあったとしました。
この間の追求で見えてきたのは、金属器の拡大にせよ、巨大古墳の拡大にせよ、支配という力の原理だけでは事は進まなかったという事です。むしろ、支配者自信が縄文人の意識の方に擦寄り、彼らの信望を集めることでその頂点に立つという手法を取らざるをえなかったのです。
冒頭の弥生時代に起こった事象をまとめて考えると、弥生時代とは以下のように捉える事ができるのではないでしょうか?
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posted by hi-ro at : 2013年03月14日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.03.01
弥生時代再考(5)徐福がつくった日本支配の地下水脈
こんにちわちわわです。
これまで弥生再考シリーズでは、銅鐸、古墳、出雲など徹底解明してきましたが、何故かスッキリしない部分が残っていました。それは、主人公が見えなかったからだと気付きました。
誰が弥生時代の社会を動かしていたのか?当時の状況から見て徐福で間違いないでしょう。
今回は当時最も力を持っていた秦の始皇帝を皮切りに、徐福伝説の謎を紐解いてみたいと思います。
徐福何者?と思った方↓↓ぽちっと!!
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posted by tiwawa at : 2013年03月01日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList