2013.07.10
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~6 父系万世一系への転換とは、本当だったのか?
藤原不比等像:ここからお借りしました
先の記事「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~5.母系万世一系の葛城ネットワークで一般的に天皇制も含めて婚姻様式は、古代から一貫して父系制とされる常識に対して、古代豪族は、男が女(巫女)の力を求めて婿入りする母系制でした。これは葛城ネットワークで結ばれた同族で、そこを繋ぐのが母系万世一系システムであることが分りました。 😀
しかし、中央集権化が進んで私権社会が拡大する中で母系万世一系システムが変化してゆきます。そこで台頭してきたのが、日本書記を記した藤原不比等から始まるとされる父系万世一系システムです。今回は、父系万世一系システムは何故、生まれたのか? 葛城による母系万世一系システムはどうなったのか?を見て行きます。
いつも通り、応援をお願いします。
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posted by sakashun at : 2013年07月10日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.07.09
江戸時代は縄文の再生~2.江戸の大衆活力の源泉とは
「家康が江戸を目指した本当の理由」の中で、家康がどのように江戸の大衆に受け入れられたのかを示しました。その中でも、「地元に多くの仕事を作り出す土木工事に真っ先に取り掛かった」ことはその後の方向性を暗示しています。
何より、江戸時代初期の最大の注目点は新田開発による食糧の増産とそれによる人口の増大にあるからです。
■江戸初期の社会期待と人口増
わが国の主要土木工事のなかから用水土木関係工事を抜き出して年代別にその分布を調べてみるとつぎのようになる。
全体118件のうちで47件が戦国時代から三代将軍家光の末年までの186年間に集中しており、なかんずく慶長元年より慶安4年までの徳川初頭56年間に38件とその集中度は高い。
近世中期の新田政策より引用
その結果、豊臣秀吉のころ約150万町歩(約150万ha)であった全国の耕地面積が、100年後の元禄のころには2倍近くの約300万町歩に増加していきます。
徳川幕府は諸藩に新田開発を奨励するとともに、諸藩はそのための治水工事に取り組み、庶民もまた利水工事を自前で行ったと思われます。戦乱のない平和な社会にあって、藩の力を増大させるにも、村落共同体の食料事情を豊かにするにも、どちらの期待も食糧の増産へと収束した時代であることが分かります。
これに比例するように、江戸初期の日本の推定人口は1600年1200万から1700年の推定人口3100万へと2.6倍に増大し、都市である江戸の人口は100万人にも膨れ上がりました。
しかし、急速な新田開発は国土を荒廃させていくことになります。新田開発が進みすぎると禿山となり、風雨があるとすぐ土砂が河川に流れ込んで河床が高くなり、洪水になってしまうことも度々生じるようになったのです。
また、都市の膨張は物質循環に負のダメージを与えかねません。しかし、ここからが現代の行政の施策と江戸の庶民との発想と大きく違うところです。
それは、、、
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posted by isino at : 2013年07月09日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.07.05
「個のない民、ケルトから学ぶ」1.ケルトの歴史~自然観の伝承~
前回か始まった「個のない民、ケルトから学ぶ」シリーズ
プロローグに続き、ますはケルトの歴史を見てみたいと思います
ケルトを知る上で重要となってくるのが、キリスト教が普及する以前から彼らが信仰していたドルイド(Druid)教です。この土着の信仰では、太陽と大地の古い神々を信じ、あらゆる生き物の中に霊的な存在を見いだしていました。つまり「自然」と「宇宙」と「自己」を一体化した思想であり、ここから「霊魂不滅」や「輪廻転生」などの考え方が形成されていったと考えられています。
これらの思想は、日本人にも馴染みの深い自然一体化思想ともいえるでしょう。実際、ケルトの神話や伝説では、人間が動物に生まれ変わったり、神が英雄になったり、英雄が妖精と結婚したり、妖精が人間の子供を産んだりと、神、人間、妖精がめまぐるしく入れ替わり(転生)しています。
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posted by yoriya at : 2013年07月05日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2013.07.02
江戸時代は縄文の再生~1.家康が江戸を目指した本当の理由
江戸は縄文の再来では?を検証すべく、新しく江戸シリーズが始まりました!
今日はその第一回「家康が江戸を目指した本当の理由」です。
画像はこちらよりお借りしました。
確かに。そう言われれば、なぜなんだろう 🙄 ?家康自身は三河の出身ですし、戦国時代は西の京都と大阪が中心でした。天下を取るならそこに幕府を置くのでも良かったような・・・。
江戸に幕府を開いた理由としては、一般的には以下のように言われています。
京都の朝廷の影響から出来る限り逃れるため。
幕府が開かれた当時、徳川家に反逆する可能性があった大大名は島津家・毛利家・前田家・伊達家くらいで、それらの大名の侵略を考えた場合、大阪・名古屋よりも江戸が防衛上適していた。
戦国時代の技術革新で土木技術がすすみ、単なる湿地帯だった武蔵野が有力な穀倉地帯になる見通しがついた。
領地が変わると、家臣も引越しで負担がかさみ、現地で徴収される兵士の忠誠度も低い&これまで忠誠を尽くしてくれた支配民と別れなければならない。ほぼ敵なしだったとは言え、既に基盤のできている江戸から他の地域に拠点を移すことは徳川家にとってやはり大きなリスクだった。
また最近では、水運(経済・流通)の要所としての重要性が取り上げられてもいます。
江戸は中世かあるいはそれ以前から水運の重要なポイントとなる土地であって、ずっと昔から栄えていた場所だと言います。それなのに、鎌倉幕府などが江戸を拠点に選ばなかった理由の方が重要であると言います。その理由として、関東は、(本来の)利根川を境に強く対立する歴史が続いていたため、大きな勢力の根拠地には適さなかったのだと言います。しかし、太田道灌の時代の後、後北条氏の時代には関東は1つの勢力に統合され、ここを根拠地にする安定性ができたと言います。後北条氏は小田原を根拠地にしていましたが、その後で関東に入ってくる家康から見れば、江戸を根拠地として選ぶことは必然だと言います。(こちらより引用させていただきました。)
しかし、東北→関東を扱ってきた縄文チームとしては、果してこれだけなのだろうか 🙄 と思ってしまいます。
家康は東日本を組み込むことが天下泰平に繋がることを、直感していたのではないでしょうか?
家康がそう直感したのは、なぜでしょうか?
応援、お願いします!!
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posted by mituko at : 2013年07月02日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2013.06.27
「個のない民、ケルトから学ぶ」プロローグ
みなさん、こんばんは。
今回のシリーズはケルト。縄文ブログ初のヨーロッパシリーズになります。
ヨーロッパといえばギリシャ、ローマ、後のフランス、スペインなど戦争と宗教に血塗られ、近代市場社会の源流を作り出した張本人です。しかし、このヨーロッパにもかつては古代文明があり、武力や支配の力が届かない地域がありました。現在のフランス、ドイツ、イギリス、スイス、そこにかつてはケルトと呼ばれる民が住んでいました。
😀 しかし、なぜ今回のテーマはケルトなのか?
宮崎駿というアニメ作家は縄文や森の世界、自然の摂理を題材に作品を構成します。物語を通じてそれらを読者に感じ取ってもらい、人間誰しもが持っている自然観や優しい感性を取り戻してほしいと語ります。そして宮崎氏が同様に憧憬しているのがケルトの世界です。
キリスト教や産業文明以前の、自然と人間が一体となった世界への敬愛。森や森の生き物に共感し、生き物と交流できたり、森から異界への入り込む森の人への共感。それが宮崎氏が感じたケルトの世界です。
スタジオ・ジブリの画像からお借りしました
今回、このケルトを特集しようと考えたきっかけが河合隼雄氏の「ケルト巡り」という著書です。この図書からそのきっかけとなった部分を切り取り5つのお話として紹介してこのシリーズの始まりとしていきたいと思います。
posted by tano at : 2013年06月27日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.06.25
「江戸時代は縄文の再生」プロローグ
みなさんこんばんは。
今回は前シリーズ「東にあったもう一つの日本」を引き継ぎ、江戸時代の解明に入っていきます。徳川家康が関ケ原の合戦に勝利し、天下統一を果たした時に言った言葉があります。
地図の江戸の辺りを指差し、「ここへ幕府を置く」と言ったそうです。その時はまだ地方の一拠点に過ぎなかった江戸です。なぜ彼は江戸を指したのでしょう。
既に西には商人と公家、仏門権力で牛耳られた京都があります。尾張はさまざまな戦乱の当事国となり長期政権は望めません。それならば思い切って江戸に・・・。彼の直感はそういう思惑も作用したのかもしれませんが、何より争いを持ち込まない為政を試みた家康の政治手法は、その要素が最も少ない江戸を無意識に指し示したのかもしれまんせん。
いずれにしても再び東へ立った日本の中心。
しかし、江戸時代のシステムと260年の平和はこの江戸という立地が全てでした。
参勤交代の風景~こちらよりお借りしました。
江戸時代の特徴を西と東という観点で一言で言うとすれば、中央集権に代わる地方自治です。
西が朝廷を中心とした中国式の中央集権国家を目指したのに対し、東の江戸は中央集権を意識的に解体し、地方自治を奨励、参勤交代などで地方自治と中央を結び、さらにはその原点である大衆の共同体に着目し、徹底的に集団発で社会を統合しなおしたという点です。
posted by tano at : 2013年06月25日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.06.18
東にあった「もう一つの日本」7~江戸時代で定着した東日本の優位
先の記事で武士の起源と初の東国政権、鎌倉時代を紹介しましたが、約200年の時を経て再び西側へ政権が移ります。室町時代で西側の商人が起した幕府です。
言わば武力中心から経済中心へ大きく舵取りが始まった端緒だったのでしょう。
しかし、これを東対西という構図で見ると武力で制覇力を勝ち取った東を西側が今度は経済力で奪い返したという見方もできます。朝廷の力は平安時代をピークに下がる一方でしたが、それでも江戸時代まで生きながらえた朝廷公家組織は時々の制覇力を背景に社会統合の要に就き続けました。
今回注目していきたいのが、再び東へ移った江戸時代です。
こちらよりお借りしました
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posted by tano at : 2013年06月18日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.06.12
伽耶を知れば古代日本が見える7~天皇制の真髄: 私権原理を共認原理風に取り入れた制度
<日本書紀で捏造された初代『神武天皇』>
みなさんこんにちは、伽耶シリーズもいよいよ終盤になってきました。
今回は伽耶人と百済人が生み出した日本の『天皇制』について扱います。
日本を語る上で避けて通れないのが天皇制です。しかし、日本国はこの制度によって誕生し、天皇制によって今日まで(例え戦争で負けても)永らえてきたと言えます。
これまで多くの知識人が天皇制について語り、批判も含めて議論してきましたが、国の根幹であるこの制度を疑ったり、否定する事はほとんどありませんでした。或いは否定した途端に言論界から抹殺され、論説も公表されませんでした。
さて、今回伽耶を追求する事で見えてきたのが、この天皇制は渡来人が支配する為に作られた制度であるという事です。しかし、支配する上で通常であれば武力に通ずる力の象徴物を設定するのですが、なぜこのようなややこしい制度を作ったのだろうというのが最後の疑問です。今日はこのあたりを解明していきたいと思います。
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posted by shinichiro at : 2013年06月12日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.06.11
東にあった「もう一つの日本」~7.謎のクニ“尾張”の本質は「交易ネットワーク」にあり
“東北”“関東”に続き、今回は“尾張”を取り上げます
尾張は、日本列島のほぼ中央に位置し、東西交通の要衝であるだけでなく、太平洋に繋がる伊勢湾・内陸部に繋がる木曽三川を通じた、モノ・ヒトなどの往来が活発で、さらに美濃・飛騨を通じて北陸とも繋がる、古来から“交易ネットワーク”の中心地として栄えた地域です。
■弥生時代~江南からの渡来人=海人族が作った交易ネットワーク
尾張の交易ネットワークの始まりは、伊勢湾沿岸に居住した海人族にまで遡ります。海人族は、弥生時代初期に渡来した江南人だと考えられています。彼らは稲作技術を携えていたとはいえ、航海漁撈民族であり、狩猟採集民族である縄文人との結びつきは、容易であったと思われます。海部郡のように海人族・海民の居住地である郡を中心に漁撈に携わり、船を通じて非常に広く列島の各地への交易を主要な生業としていました。
尾張というと、濃尾平野という広々とした平野があり、非常に豊かな農業地帯、とくに稲作が広く行われている稲作地帯と考えるのが、一般的な捉え方ですが、これは多分に江戸時代以降に作られてきた見方で、中世以前のこの地域の地形を考えると、現在から想像できないくらい、河と海に恵まれた地域であり、むしろ「河海の世界」といったほうがいい地域だったのです。
こうした海上交通を考えた場合、「尾張」よりも「伊勢」のほうがより利便性が高い地域で、おそらく古代の海人族は、伊勢湾を取り囲むように分布し、伊勢湾を行き来していたものと思われます。現在の「尾張地方」は、愛知県の中のもっとも西寄りの一地域ですが、ここでは伊勢湾沿岸を含む交易ネットワーク全体を“尾張”として考えていきます。
尾張は、日本の中心として“都”が置かれることはなく、「東国の西端」または「大和朝廷の東端」など、どちらかと言えば中央から外れた地域と捉えられてきました。ところが、実は、東西問わず、時の政権の成立に大きな影響を与えてきた、と考えざるを得ないような遺物も見つかってきています。
表舞台に立つことがなかった尾張勢力が、どのように時の政権に関わってきたのか?それを時代を遡って見ていきます。正史には登場しない、もう一つの日本=謎のクニ“尾張”の本質に迫ってみます。
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posted by sai-yuki at : 2013年06月11日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.06.10
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~5.母系万世一系の葛城ネットワーク
葛城豪族は、天孫族=天皇に対して、姫を出していく豪族であったという説があります。現在残されている天皇系譜を見ると、当時は父系相続が一般的で、嫁入りは当然だろうと思われるかも知れません。しかし、この時代みんなを統合していたのは祭祀、祈祷といった見えない力であって、その最高権力体はシャーマンと呼ばれる巫女でした。みんなの統合軸である巫女が誰かの嫁として嫁ぐ形式であったとしたら、統合軸は嫁ぎ先によって変わっていく不安定なものになってしまいます。そこで発想を逆転させ、嫁入りでなく婿入りだったのではないだろうかと仮説を立て当時を見ていくと、全く新たな背景が見えてきます。
まずは、当時の社会構造に同化するために、当時の統合軸を見ていきましょう。
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posted by ISEZAKI at : 2013年06月10日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList