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「江戸時代は縄文の再生」プロローグ

みなさんこんばんは。
今回は前シリーズ「東にあったもう一つの日本」を引き継ぎ、江戸時代の解明に入っていきます。徳川家康が関ケ原の合戦に勝利し、天下統一を果たした時に言った言葉があります。
地図の江戸の辺りを指差し、「ここへ幕府を置く」と言ったそうです。その時はまだ地方の一拠点に過ぎなかった江戸です。なぜ彼は江戸を指したのでしょう。
既に西には商人と公家、仏門権力で牛耳られた京都があります。尾張はさまざまな戦乱の当事国となり長期政権は望めません。それならば思い切って江戸に・・・。彼の直感はそういう思惑も作用したのかもしれませんが、何より争いを持ち込まない為政を試みた家康の政治手法は、その要素が最も少ない江戸を無意識に指し示したのかもしれまんせん。
いずれにしても再び東へ立った日本の中心。
しかし、江戸時代のシステムと260年の平和はこの江戸という立地が全てでした。
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参勤交代の風景~こちら [1]よりお借りしました。
江戸時代の特徴を西と東という観点で一言で言うとすれば、中央集権に代わる地方自治です。
西が朝廷を中心とした中国式の中央集権国家を目指したのに対し、東の江戸は中央集権を意識的に解体し、地方自治を奨励、参勤交代などで地方自治と中央を結び、さらにはその原点である大衆の共同体に着目し、徹底的に集団発で社会を統合しなおしたという点です。


先の東シリーズで、日本には東と西に全く別の国が長らく並存していた事を示しました。形上は大和政権、時々の王朝が東を制覇しコントロールしているかに見えますが、時に東は反乱を起こし、独立を企て、平将門の乱―頼朝による鎌倉幕府と西から東へ力学は移動していきます
しかし、東の政権も鎌倉の小京都が示しているように、西の政権の真似をするだけで独自のシステムは打ち出せないでいました。一方大衆の方は、東北で長らく稲作が定着しなかったように、縄文体質が長く温存され、集団統合の様式や、坂東武士を生み出したよう集団自治という点ではすでに大和朝廷に飼いならされた西の自治に比べてはるかに優れたシステムを維持してきました。
今回試みるのが江戸時代のこの優れたシステムや思想、また後の日本の成長の原点にもなった大衆の活力がなぜ、どうしてこの時代に作り出されたのか?を追求する事です。
まだ半答えではありますが、江戸時代とは大きくは縄文時代の再現であり、発展形ではないでしょうか。
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手習い塾~こちら [2]よりお借りしました。 江戸で発明された花火~こちら [3]よりお借りしました。
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アイヌの伝承儀式  縄文中期の火焔土器
この江戸の集団中心の社会、文化や認識が生み出された社会は規模や内実こそ格段の差がありますが、縄文時代、それも中期の土器文化が一斉に花開いた縄文人の在り様に近いのではないかと考えてみました。江戸時代の為政者、徳川が明確に意識していたかどうかはわかりませんが、「いかに平和な世を作るか」を考えた家康が辿り付いたのがまさに縄文的集団共認、集団を軸とした社会の在り様だったのだと思います。
ただ、徳川が平和を望んだのは、商人出生の三河武将、安定が市場拡大に寄与し曳いては全国に市場網を国家管理で作り出そうという私権初の野望もありましたから、江戸時代は縄文的な側面と巨大な市場ネットワークという両側面が存在します。だから、もったいないという大衆文化を作り出す反面、元禄時代のような絢爛華美な側面もあったのです。
しかしこれも見方を変えれば、私権と共認の相反する原理を統合し、社会全体としては活性化させる方向に導いた江戸の政治手法と評価する事もできます。
さて、これからは先の記事に分析を委ねますが、先の半答えを確かな答えに結びつける江戸分析、これまでの歴史書にはなかった新たな江戸史観を展開してみたいと思います。
今回のシリーズは以下の10の記事でまとめていきます。途中、横道、変更がある事はお許しください。
1.徳川家康はなぜ江戸に向かったか
2.江戸システムは地方と中央を逆転させた
3.江戸の交易は徹底的な国家管理の中にあった
4.文化は安定、平和の中に育つ
5.江戸の大衆活力の源泉とは
6.鎖国を試みた江戸の先見性
7.江戸の認識競争は縄文の名残
8.国学に見る、縄文への繋がり
9.リサイクル社会は私権封鎖の途上にあり
10.国家統合とは集団統合の延長にあり

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