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弥生時代再考(5)徐福がつくった日本支配の地下水脈

Posted By tiwawa On 2013年3月1日 @ 3:23 PM In 未分類 | No Comments

こんにちわちわわです。
これまで弥生再考シリーズでは、銅鐸、古墳、出雲など徹底解明してきましたが、何故かスッキリしない部分が残っていました。それは、主人公が見えなかったからだと気付きました。
誰が弥生時代の社会を動かしていたのか?当時の状況から見て徐福で間違いないでしょう。
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今回は当時最も力を持っていた秦の始皇帝を皮切りに、徐福伝説の謎を紐解いてみたいと思います。
徐福何者?と思った方↓↓ぽちっと!!


【秦帝国・始皇帝一族はギリシャ系ユダヤ人】
「戦国の七雄」といわれ、中国の西域に位置する秦王朝は、もともと紀元前8世紀に成立したとされているが、秦帝国となると、紀元前3世紀に、アレキサンダー大王の東征によって敗れたアケメネス朝ペルシャのバクトリア(大秦国)からの亡命勢力が建国したものである。
ギリシャ系ユダヤ人もバクトリアに侵攻したが、始皇帝の父親であり、後見人であった呂不偉はシルクロード交易で財をなしたギリシャ系ユダヤ財閥である。
秦帝国がペルシャからの亡命政権であるという事実を隠蔽し、自己の支配を正当化するために、始皇帝は焚書抗儒などを無慈悲に実行したとされる。
秦帝国は中国へ通じる東西交通路の要衝であったため、シルクロード交易によって、その財力、技術力を高め、騎馬軍団と鉄製武器、中央集権国家と郡制度によって、すなわち、ペルシャ支配様式をもって周辺諸国を打ち破り、紀元前221年、始皇帝によって中国は統一された。
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始皇帝は祖国であるアケメネス朝ペルシャの制度に習って、全国に郡を置き、官僚制度と軍政を確立し、度量衡、貨幣、文字の統一を行い、強制労働力によって万里の長城の建設、始皇帝陵の建設、灌漑や舟運のための水路の整備、交易のための道路の整備などを性急に強行した。これらの土木工事を指揮したのがユダヤ人の石工、建築技師であった。この中に秦氏が含まれる。
【徐福船団は始皇帝の東方殖民化の先遣隊ではないか?】
秦帝国の勢力が日本列島へ進出したことを表しているのが司馬遷の「史記」などに書かれている徐福伝説である。この伝説では「不老不死の仙薬を求めた秦の始皇帝のために、徐福が数千人の稚児と技術者を率いて東海の蓬莱山に向けて出航した」というものである。
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しかし、この伝説には納得できないところがいくつもある
仙薬を求めるだけであれば、多数の青年男女や兵士や技術者を同行する必要がない。
徐福一行は日本列島に散らばり移住している。
日本で仙薬を探すような動きはない。
徐福自身も仙薬を見つけて始皇帝のもとへ持ち帰ることはなかった。
事実上、徐福は始皇帝を欺いたことになる。
史記には「徐福らは費用は巨万をもって計る」と書いてあるが、この資金を誰が負担したのか?
徐福船団は青銅の銅鐸や鉄製の農具や武器、金銀財宝、鍛冶、織物、土木、酒造などの一級の技術者、医者、楽人や水夫や農夫もいた。その指導者が「仙人方士」と呼ばれる導師「徐福」であり、それを支援したのは秦帝国に寄生するユダヤ財閥であったと考えられる。
あるいは、秦の始皇帝自身が、東方に新たな植民地を求めるために、徐福を先遣隊として派遣したという見方もできるかもしれない。始皇帝は、どろどろした身内の争い、反対勢力による誹謗、暗殺、反乱に悩まされ続けてきた。これらから逃れる新たな地を求めていたのかもしれない。
徐福の徐一族もまた、カルデア人の王族に発し、南海シルクロードで船団を率いた鉄工部族であったという。この見方であれば、徐福が鉄工技術者を伴い大船団で日本列島を目指したこともうなずける。
徐福の大船団は日本列島に直行した者が多かったが、朝鮮半島南部にも殖民した。それが残留して伽耶を作り、その後出雲に上陸したと考えられる。「徐福集団が朝鮮を経由して山陰地方に渡来し、出雲族、銅鐸族になった」という説もあるからだ。
【国史は徐福の殖民活動を隠蔽している】
「漢書」では、この伝説の結末を「徐福は平原広沢を得て、王として止まり来らず」と記しており、徐福一行が日本列島で殖民活動を行い、小王国を築いたことを示唆している。徐福伝説の残る地方は九州から東京までの太平洋沿岸、瀬戸内海などに広がっており、これらの地域にユダヤ支配勢力「秦氏」が現地人を支配して小王国を作ったのであろう。
徐福一行が殖民したと思われる地域には、宇佐八幡宮、伊勢神宮、熊野神社、熱田神宮など、ユダヤ系と思われる神社が多く、蓬莱山と見られる富士山麓には、浅間神社と富士古文書「宮下文書」がある。徐福自身は富士山麓に王朝を開いている可能性が高い。
弥生中期に日本列島へ鉄器、青銅文化をもたらしたのは明らかに徐福一行であろう。
彼らはイスラエル王朝とペルシャ帝国と秦帝国の奴隷制国家の伝統を受け継いでいる。
しかし、中国の文献には何度か登場する徐福伝説を大和朝廷の公認文書は全く無視している。
日本列島から出自した「万世一系」の皇統を装う彼らには、植民地侵略集団である徐福隠しをしなければならない理由があったのである。
【ユダヤ系秦氏の日本への殖民】
秦氏は「秦の始皇帝を祖としている」と自称している。但し、秦氏の流れはこれだけではなく、南海シルクロードからの流れ、弓月王国からの流れなど、一ルートではない。
伊勢地方に上陸し、伊勢王国を作り、その中核施設として伊勢神宮を作ったのも秦氏である。北九州には「秦王国」と呼ばれる国が存在したし、京都にも山城、太秦を中心に「秦王国」といってもいいほど秦氏由来の遺跡が多い。
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高句麗勢力の前方後方墳に対抗して作られた前方後円墳の造営技術は、恐らく秦氏がもたらしたものであろう。先住の徐福ネットワークに塗り重ねる形で秦氏が入植してきたものと思われる。
日本には秦氏に由来する名字は、秦、羽田、松尾、中村、石川、林、三上などがあるが、それらが全てユダヤ系とはいえないだろう。秦氏、羽田氏には自らを秦の始皇帝の末裔とし、系図も残っている。秦氏の関連する姓は、北九州、近畿、東海、南関東に多い。徐福伝説が残る地域や秦氏が入植した地域と当然重なっている。
秦氏の多くは大和の地に殖民し、朝廷の中枢に進出し、特に朝廷の財政を握り、養蚕、機織などの技術を広めたばかりでなく、日本の神道に強い影響を与えた。
秦氏は伊勢神宮、宇佐八幡宮、賀茂神社、松尾大社、稲荷神社、金刀比羅宮などの創建に関わっている。これらの神社の系列も含めれば、現在秦氏が関わった神社は全国に数え切れないほど存在する。
【大和朝廷はユダヤ系侵略部族が作った中央集権国家】
ユダヤ教と日本神道、古代イスラエル王朝と大和朝廷の支配構造は驚くほど似ている。
例えば
旧約聖書と日本神道の物語と系図。祭祀と政治が最高の神官によってなされる政教一致の支配体制。古代イスラエルの幕屋と神社の構造。王が変わるごとの遷都。エルサレムのヘロデ門の紋章と一致する日本皇室の菊の紋章。伊勢神宮の灯籠などに刻印されたユダヤのマーク。三種の神器の存在。イスラエルの太陽信仰と日本神話の天照大御神信仰。ユダヤ神殿の僧侶と日本の神社の神官の類似した着衣。ユダヤ僧侶の清めの儀式と日本の神社のお祓い。ささげものとしての酒。塩を撒く風習など。
これほどの類似が偶然に起きるはずはない。
ユダヤ人の支配勢力は、自らの出自を隠すために次々と歴史の偽造を行っただけではなく、自らのアイデンティティーを守らなければならない彼らはイスラエルの支配様式、ユダヤ教義をオブラートに包みながら、地下水脈を保ち続けてきたのである。
【弥生時代とは徐福がもたらした技術と共認の社会】
弥生時代、徐福が日本に与えた影響は計り知れない。彼が農業、機織、鉄工などの技術を導入したのは言うまでも無く、銅鐸と祭祀による統合様式を定着させた意義は大きい。
徐福一行は兵士を携えた武力集団であったが、武力行使した形跡は見当たらない。
彼らは、先住の縄文人との同化を試み、共認形成を図ることで融合し、統合していったのであろう。


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