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東にあったもう一つの日本5~集団を守ったアテルイと縄文人の闘い

こんにちわちわわです。
今回は10倍以上の大和朝廷軍を敵にまわして互角以上に戦い大勝利をあげたヒタカミ戦争・アテルイの戦いなど「蝦夷征伐」に焦点を当て、後の坂東武士につながる関東・東北人の姿に迫っていきたいと思います。
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エミシ社会は、もともと血縁関係からなる氏族連合・部族連合を形成していました。そこに、縄文時代の氏族集落に主に高句麗からの渡来人が帰化、混血し、馬や鉄器を用いた農耕部族となり、部族間でゆるやかなネットワークを形成していきました。
大和朝廷は律令体制のもとで、服属したエミシ社会を集村の集合である村と、村の集合である郡郷に再編し、村には固定化した村長を置き、郡郷には族長を置いて「公」とか、「君」を付けた姓を与え、朝貢と軍役を任務させました。しかし、この族長が心底大和朝廷に隷属していたわけではありません。大和朝廷による侵略行為に抵抗し続けるうちに、馬と金属製武器による防衛力を次第に身に付けていったのです。
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【蝦夷征伐はエミシの側からすれば、侵略国家に対抗する自衛抵抗戦争】
8世紀に入って「蝦夷征伐」が大和朝廷の命運をかけた国家事業になってきた。軍事最高指揮者として征東使、陸奥鎮守将軍、さらには征夷大将軍などが設けられ、「蝦夷征伐」が本格化し始める。
国史の中では「蝦夷」は未開野蛮のように描かれ、日本武尊の「蝦夷征伐」阿部比羅夫の「蝦夷平定」が当然のことのように記されている。
日高見郷は大和朝廷からは「化外」とか「外蕃」とかいわれ、大和国家に組み込まれないいはば外国のように扱われてきた。しかし、先住民からいえば、大和朝廷こそが日本列島に侵入してきた「化外」「外蕃」である。彼らを構成した天皇家、公家、豪族、神官、軍人のすべてが「渡来系」侵略者である。
大和朝廷の支配を受け入れたエミシの族長は俘囚長という、いわば奴隷頭の地位を与えられ、官位や姓名や文物も与えられ、それと引き換えに俘因たちを朝貢と役務・軍務に当たらせる役割を担った。しかし、彼ら「賊中の頭」は「一をもって千に当たる」ほど強敵であり、敵に回らせれば極めて手ごわい相手であった。
774年、いよいよ「三十八年戦争」の幕が切って落とされる。エミシの組織的な抵抗が開始されたのである。
それは、大和朝廷の側からは土地と資源を略奪する植民地戦争であった。エミシの側からは、大和朝廷による侵攻、掃討、略奪、奴隷政策に対する自衛抵抗戦であった。エミシは決して侵略目的で戦争を起こしたわけではない
【アテルイは本当に強かった~大和朝廷に壊滅的打撃を与えたヒタカミの戦い】
桓武天皇の延暦年間に、胆沢エミシが、10倍以上の朝廷軍を向こうに回して互角以上に戦い、大勝利をあげたヒタカミの戦いは日本列島で最大の先住民抵抗戦争であった。
この戦争を指導したのが、胆沢エミシの族長アテルイでありモレであった。
彼らは胆沢の部族連合、ヒタカミの種族連合の戦士を見事に組織し、神出鬼没のゲリラ作戦によって大和朝廷に大打撃を与えた。
エミシ軍は百戦錬磨の騎馬軍団であり、地理を知り尽くしている。エミシの抵抗の仕方は「攻めれば山藪に奔走し、退けば城塞を侵掠する。一をもって千に当たる」つまり、千倍大きい敵でも、相手が攻めれば自然を背に退却し、油断すればアキレス腱を叩き、何度も何度もこれを繰り返して相手を消耗させ、決して降伏せず、相手が奮い立っているときは静かに待機し、勢力が弱まれば攻撃を仕掛ける。このようなものであった。
【アテルイは策謀によって拉致された】
国史は大和朝廷の「蝦夷征伐」が坂上田村麻呂によって大きな戦果をあげ、エミシは敗北したように記している。今から1200年前「夷大墓公阿弓流為、盤見公母禮等 種類五百人を率いて降る」と田村麻呂から桓武天皇に報告されている。これは「アテルイ・モレの降伏」と一般にはとらえられているが、国史の記述をそのまま受け入れることはできない。
10万の軍勢にも一歩も引かなかったアテルイ軍である。胆沢城ができて穀倉地帯が占拠され平地での稲作ができなくてもエミシたちは、山河での採集、漁労、狩猟で十分生活できる。屈服した族長が何人かはいたが、周辺の部族連合が総崩れになり孤立したわけではない。
戦況によっては再び同族とともに戦うはずである。むしろ、孤立していたのは、エミシの戦いに疲弊し、桓武王朝に反対する豪族、貴族の反抗、殺戮した怨霊のタタリを恐れてせっかく造った長岡京も諦め、平安京を作り直さなければなくなった桓武王朝の方である。
「田村麻呂とアテルイは通じ合った」とか「共に協力して東北経営にあたろうと考えた」とか数々の美談が語られているが信用できるはずがない。
アテルイは狡猾な田村麻呂の「講和」という罠にひっかかってしまったのだろう。
田村麻呂は大和朝廷と日高見国の講和すなわち、天皇と種族長との直接の講和を持ちかけてわざわざ京都まで連れて行ったのだろう。いうまでもなくアテルイは交渉と調印のつもりで出かけたのである。
彼らは河内国杜山で無残にも斬刑に処されてしまった。
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【大和朝廷(桓武王朝)は何故「蝦夷征伐」を敢行したのか?】
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桓武天皇
第一の理由は、渡来人の亡命貴族のための土地と奴隷の獲得である
桓武の百済王朝ができると、白村江の戦いに敗れ畿内に上陸した大量の百済王族の救済要求に応じ、東北に土地と奴隷の獲得のために蝦夷征伐を大義名分に侵略戦争に打って出たのである。
第二は、武器や農具や工具としての鉄の生産地や権力や富の象徴としての金の産地を押さえることと、戦闘用、農耕用の馬の獲得など、資源を押さえるためである
第三は、陸奥に退却し、エミシとともに大和朝廷に敵対していた高句麗勢力の一掃である。彼らは治金技術、軍事技術を持っていた。これらの勢力がエミシと手を組み、対抗勢力となることは、大和朝廷にとって最大の脅威だったに違いない。
【「蝦夷征伐」は大和朝廷の大敗北~坂東武士の台頭へ】
国史ではアテルイの斬刑をもって蝦夷征伐はあたかも終了したかのように書かれている。
しかし、大和朝廷が「蝦夷征伐」の停止を宣言した後も、エミシとその血を受け継ぐ人達の抵抗は収まらなかった。朝廷はヒタカミノクニのエミシを律令体制に組み込んでも、完全には支配することができず、俘囚国家として俘囚長によって支配させることしか出来なかった。
俘囚国家は大和朝廷に形式的には従属していたが、賦貢や賦役の義務を果たさず、律令体制は陸奥国では衰退していった。
アテルイ軍に対して最後まで武力で制圧できなかった大和朝廷は、事実上蝦夷に敗北したといってもよいのではなかろうか。
北方の狩猟系渡来民と混血を繰り返しつつも、縄文体質を残した関東人、東北人は渡来系の侵略民に決して無抵抗で従ったわけではない。集団の共認力を下敷きにした団結力と組織力。自然をも味方にした洞察力と想像力で武器による近代化戦争にも十分対抗できる闘争能力も備えていたし、圧政に抵抗する精神力も持ち合わせていた。
しかし、彼らの戦争はあくまで侵略民からの防衛戦争であって、侵略目的で戦った史実はどこにもない。
寄せ集めの大和朝廷軍と違って、集団を守るために戦った蝦夷連合軍は軍事的にも精神的にも朝廷の正規軍よりもはるかに強かったのである。
こうした気骨を持った集団の中から後の坂東武士が登場し、朝廷の権力をしのいでいくことになるのです。

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