2014.01.21
女たちの充足力を日本史に探る5~女たちが紡ぎだす言葉の力
前回は、平安時代は、大陸由来の私権社会が浸透していくという社会状況の中、「女にとって、男にとって受難の時代」だったことを取り上げました。
女たちは、社会的役割を奪われた上に商品価値として求められるようになり、結果、本来女たちがもっていた充足性や活力が奪われた時代でした。しかし、その一方で、和歌や文学、そしてそれらを作る基盤となった平仮名が広がり、女性文学が次々と登場する時代でした。
今から2000年ほど前、文字を持たなかった私たちの祖先は、中国生まれの漢字に遭遇し、この漢字を“自分たちの言葉”を書き表す文字として採用します。しかし、漢字で“自分たちの言葉”を書き表す困難に直面した彼らは、外来の漢字に様々な工夫を重ね、ついに平安時代に至り、日本独自の仮名文字(片仮名と平仮名)と漢字仮名交じり文という表記方法を創造し、“自分たちの言葉”を自在に書き表せるようになりました。ここに“自分たちの言葉”が“日本語”として書き表せるようになったのです。
それ以降、仮名文字で和歌や散文を書く女たちが、それまでの男性貴族の漢詩を押しのける勢いで、「文学」の表通りに急速に、しかも大量に進出していきます。そして彼女たちの優れた才能は、現代でも読み継がれる多数の優れた文学作品を作りだしてきます。また、この時代に、初の勅撰和歌集「古今和歌集」が編纂されています。
『古今和歌集』(元永本)「仮名序」の部分(こちらよりお借りしました)
今回は、この「和歌」「文学」、「平仮名」に焦点を当てて、“女たちの充足力”を考えてみます。
↓ポッとして続きをどうぞ。
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posted by sai-yuki at : 2014年01月21日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2014.01.19
自考力の源流を歴史に学ぶ7~百姓は農の民ではなく万能の民
このシリーズでは縄文の土器づくりを原点にした、さまざまな職人の姿を見てきました。どの時代を切っても、自然と同化し、共同性に重きをおく日本人の精神性が、職人たちの活躍を支えてきました。そして、彼らは特別な身分や才能を持っているわけではなく、ただ仕事に打ち込み、切磋琢磨し、追求を続けてきた庶民の一人だったのです。
そこで今回は日本庶民の代表?ともいえる『百姓』にスポットを当て、その本質に迫ってみたいと思います。
元来、百姓(ひゃくせい)は、氏姓制度(うじかばねせいど)から来たもので、広辞苑で「ひゃくせい」を引くと「一般の人民」とあります。また中世以降の各地の村落をみると、皆ある程度の田畑はもっているので農民的側面はありますが、個々にみれば、大工、鍛冶屋、石屋、炭屋、材木屋、さらには商人、船持等々、多様な専門職を別に持っていたことがわかっています。
現代の百姓=農民というイメージとは大きく異なり、農業に携わりながら、様々な仕事をもって、商品生産・物流・販売など社会活動の基盤を担っていたのが現実の百姓でした。百姓は「農の民」ではなく「万能の民」だったといえるでしょう。
それではこれから彼らの活躍を辿ってみながら、なぜ日本の百姓は万能の民たりえたのか?を考えてみたいと思います。
<百姓の仕事ぶり>
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posted by abe-kazu at : 2014年01月19日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2014.01.07
女たちの充足力を日本史に探る4~平安時代は女にとって、男にとって受難の時代だった。
シリーズ4回目は平安時代に進みます。
第3回で女性天皇が平安時代と共に擁立されなくなったという事象を書きましたが、京都に遷都した平安時代を通して貴族社会の女たちにとっては大きな転換期を迎えます。
平安時代は百済系桓武天皇が伽耶、新羅系を完全に押さえきり、百済一系で皇族を押さえた現在にいたる皇室体制の始まりの時です。桓武、嵯峨天皇は着任すると同時に唐からの文化を強力に取り込み、厳格な律令制と仏教を用い、それまでの日本で育まれた縄文土着と大陸渡来文化の混交社会からの脱却を図ります。平安京には1600人の貴族が集結し、あらたな百済系中心の日本社会が形成されていきます。
桓武天皇の絵~こちらよりお借りしました
律令制や仏教は平安以前にも日本に渡来していましたが、厳格なものではなく日本風に改変され、あるいは部分的な取り込みに留まる不完全なものでした。部分的故にそれまでの縄文土着社会の慣習が影響し、それが奈良時代にかけての女性天皇擁立だったり、上流社会へ長く婿入り婚の習俗として表れていました。
縄文社会が共同体を紐帯とする共認社会であり、渡来文明が天皇、大王を中心とする国家社会、その下に序列が形成される私権社会と位置づけた場合、大和朝廷、奈良時代は移行期、過渡期であり、平安時代以降が私権社会の成熟期、完成期と見ることができると思います。
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posted by tano at : 2014年01月07日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2014.01.03
匠の技を読み解く ~法隆寺五重塔はなぜ地震で倒れないのか?~
『自然との和合が生み出す日本建築』でも取り上げた、世界最古の木造建築「法隆寺」。
法隆寺境内にある五重塔は、地震国日本にあって、1300年以上も創建時の姿を現在にとどめています。歴史上、五重塔や三重塔など、木塔といわれるものは全国に500ヶ所以上ありますが、地震で倒れた事例はほとんどありません。’95年の阪神大震災でも、兵庫県内にある15基の三重塔は1基も倒壊していません。
★五重塔はなぜ倒れないのか?
先ずは法隆寺を例にとり、その構造上の特徴をあげます。
【1】庇の張り出しが大きく、建物全幅の50%以上が庇で、重い瓦屋根となっています。その結果、法隆寺五重塔の総重量は1200トンにも及び、単純平均すれば1層あたり240トンとなります。
【2】五重の各層は上に行くほど細くなっており、各層は下の層の上に乗せているだけで一層ごとに独立しています。※通し柱で各層をつなげていないため、現在の建築基準では違反になります。
【3】中央に心柱(しんばしら)と呼ばれる柱があります。心柱の周囲は吹き抜けになっており、各層の荷重を支えていません。塔全体の荷重は、心柱の周りにある4本の四天柱と12本の側柱によって支えられています。
画像引用元 『法隆寺の建築物』
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posted by matuhide at : 2014年01月03日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2014.01.01
和食にみる縄文的心
写真はこちらからお借りしました。
http://tetsu-o.com/archives/tag/%E7%94%BB%E5%83%8F
みなさん、あけましておめでとうございます。
いつも縄文ブログをご覧いただき、本当にありがとうございます。
本年も、縄文を始め歴史から様々なことを学び、現在の私たちの有るべき姿、進むべき方向を追求していきたいと思います。
さて、2013年は私たちの暮らしに大きな影響を及ぼす様々な出来事がありましたね。
消費税8%増税決定、食材偽造、特定秘密保護法の成立、そして国の借金1000兆円突破、などなど。
一時的な経済政策や世論誘導を図るマスコミ報道に浮き足立つことなく、本当に何が必要か、必要でないかを一人ひとりがしっかりと判断して、2014年は是非とも新しい光が見える、良い年にしていきたいものです。
年明け最初の記事は、お正月にちなみ「和食」について考えてみたいと思います。
みなさんも今おせち料理を食べているのではないかと思いますが、2013年12月4日、ユネスコによって「和食」が無形文化遺産に登録されました。
具体的な特定の和食が登録されたのではなく、日本の歴史や生活風習と密接に関わった日本独自の「文化」として「和食」が登録されました。
私たちが忘れがちな日本の文化、日本人の心を見直す良い機会ではないかと思いますので、一緒に「和食」の魅力を通じて考えていきましょう。
何時ものように応援お願いします。
posted by sinkawa at : 2014年01月01日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.12.31
今年の「るいネット記事」から学ぶ歴史・日本・縄文魂~年末特集
みなさんこんばんは。今年ももうすぐ終わります。
大晦日は今年1年の様々な出来事に想いを馳せ、清算し、来る新年に備えるという日です。
除夜の鐘は108つの煩悩を1つずつ叩いて払い、新しい気持ちで新年を迎えるという仏教の教えがあります。
この縄文ブログでは今年1年の るいネット記事に想いを馳せ、来年の活力や課題に繋げていければと思います。
知恩院の除夜の鐘~こちらよりお借りしました
さて、ちょっと時間がある正月に10の佳作記事をひとつづつ味わってみてください。
オムニバスなので抜粋で掲載しますが、タイトルをクリックすれば本編に辿り付けます。
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posted by tano at : 2013年12月31日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.12.27
自考力の源流を歴史に学ぶ6~インタビュー:うどん職人 かわ平氏 に追求の原動力を学ぶ
「大阪のうどんってこんなに旨いんですか!?レベルめっちゃ高いですね!」
東京から出張で来ていた後輩が驚いた表情で話す。
「いや、大阪のうどんは確かに東京とは違うけど、大阪のが特別うまいわけじゃない。あの店が別格だからだよ」と先輩が返す。食の味には煩い先輩だが、曰く、いままで食べたうどんで一番だとの事。確かに味は一品で、会社に近い事から同僚ともよく行く。社内でもファンがとても多い店だ。
新大阪から地下鉄御堂筋線で一駅、西中島南方にうどん屋「かわ平」がある。店頭に飾られている額には「今日のうどんに明日は勝つ」という文字。
以前、店主の方と少し話した時、店主の言った言葉が気になっていた。その時店主がおっしゃっていたのは「長年うどん屋をやっているけれど、これだ!というスープは月に2度くらいしか作れないんです」という言葉だ。
けして驕る事なく追及し続ける職人の姿勢が垣間見えるのだ。
シリーズ自考力の源流を職人に学ぶ。今回はうどん屋「かわ平」氏に直接インタビューをし、その飽くなき追求の原動力を探ってみたいと思います。
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posted by shinichiro at : 2013年12月27日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.12.25
女たちの充足力を日本史に探る3~時代が求めた女性天皇たち。
こんにちわちわわです。
これまで2回の投稿で、女性の充足力が集団を支えてきたことを明らかにしてきました。
今回は国の長として君臨した「女性天皇」に焦点を当ててみたいと思います。
日本では過去に8人10代の女性天皇が存在しました。そのうちの6人8代は6世紀末から8世紀後半の飛鳥時代~奈良時代に集中しています。その間、14代の天皇のうち、実に半数以上を占めていることになるのです。
◆歴代の女性天皇
1.推古天皇(第33代、在位592年 – 628年) – 第29代欽明天皇の皇女
2.皇極天皇(第35代、在位642年 – 645年) – 敏達天皇の男系の曾孫
3.斉明天皇(第37代、在位655年 – 661年) – 皇極天皇の再登用
4.持統天皇(第41代、在位686年 – 697年) – 第38代天智天皇の皇女、第40代天武天皇の皇后
5.元明天皇(第43代、在位707年 – 715年) – 天智天皇の皇女、天武天皇皇子の妃
6.元正天皇(第44代、在位715年 – 724年) – 草壁皇子の娘
7.孝謙天皇(第46代、在位749年 – 758年) – 第45代聖武天皇の皇女
8.称徳天皇(第48代、在位764年 – 770年) – 孝謙天皇の再登用
以後江戸時代
9.明正天皇(第109代、在位1629年 – 1643年)
10.後桜町天皇(第117代、在位1762年~1770年)
何故これほどまでに女性天皇が多かったのでしょうか?
これまで、皇位継承をめぐる危機的状況の中で、一時的な回避策として擁立された中継ぎ天皇たちであるという説が主流でした。果たしてそうでしょうか?
初代女性天皇 推古天皇が登場するまでの時代から紐解いていきたいと思います。
天皇は女性がいいと思った方↓↓ぽちっと!!
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posted by tiwawa at : 2013年12月25日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.12.19
自考力の源流を歴史に学ぶ5 ~自然との和合が生み出す日本建築~
みなさんこんにちは。
先ずは、下の写真をご覧ください。写真は、11月に撮影した京都東山区の東福寺です。鮮やかな紅葉の中、見事な程風景の中に建物が溶け込んでいます。
日本の建築や庭園には、「借景」と呼ばれる造られ方があります。借景とは、建築や庭園を周辺の山や樹木と一体化させ、風景の中に取り込む方法です。
「自考力の源流を歴史に学ぶ」シリーズ。今回は、日本の寺社建築の基点であり、現存する世界最古の木造建築「法隆寺」にスポットをあて、「建築の造られ方」を掘り下げてみたいと思います。
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posted by matuhide at : 2013年12月19日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2013.12.08
女たちの充足力を日本史に探る2~渡来人と進んで和合を求めた縄文女性~巫女の役割
前回の記事で、定住化によって集団が安定し、そこで女性の充足力が育まれていったこと、そして女の充足力の基盤に集団があることを示しました。
縄文時代1万年間に維持し、育まれた女性の充足性はその後、どのような道程を辿っていったのでしょう。当然、現在の日本人の中に残ってはいるのですが、弥生時代以降の、動乱の社会の中で、この女の充足力も時に利用され、時に後退し、徐々に男社会の中に見え隠れしていきます。
これからのシリーズの展開はその過程を追いかけていく事になるのですが、初回は最大の動乱であった渡来人を迎える時の集団の意識、女たちの意識について見ていきたいと思います。
画像はこちらとこちらからお借りしました。
縄文時代は温暖化により植生が変化し、自然環境に恵まれた時代だったと言われています。つまり、それまでの狩猟時代に比べて飢餓の圧力が減少した時代に当たります。自然外圧を一定克服したこの時代の男女関係を見る上では実現論の下記のくだりが参考になります。弥生の女達を考える上でもこの時代をおさらいしておく事が重要です。
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posted by hi-ro at : 2013年12月08日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList