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自考力の源流を歴史に学ぶ5 ~自然との和合が生み出す日本建築~

みなさんこんにちは。
先ずは、下の写真をご覧ください。写真は、11月に撮影した京都東山区の東福寺です。鮮やかな紅葉の中、見事な程風景の中に建物が溶け込んでいます。
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日本の建築や庭園には、「借景」と呼ばれる造られ方があります。借景とは、建築や庭園を周辺の山や樹木と一体化させ、風景の中に取り込む方法です。
「自考力の源流を歴史に学ぶ」シリーズ。今回は、日本の寺社建築の基点であり、現存する世界最古の木造建築「法隆寺」にスポットをあて、「建築の造られ方」を掘り下げてみたいと思います。


先ずは、シリーズ1で扱った宮大工、故・西岡常一氏のことばから、「建築の造られ方」を探ります。
西岡氏は、法隆寺や薬師寺の解体・再建を行った宮大工の棟梁です。西岡氏によれば、自分は飛鳥時代の建物を再建しただけで、本当にすごいのは飛鳥時代の大工だといいます。西岡常一著『木の文化』より、西岡氏のことばを引用します。

飛鳥の頃に、伽藍(がらん)造営の新しい技術が大陸から入ってきます。仏教と共に流れ込んでくるんです。ところが、中国に行ってみるとわかりますが、法隆寺のように軒の深い建物はひとつもありません。現在中国に残っている建物で一番古いのは、佛宮寺(ぶつぐじ)という八角系のお寺です。その建物は、直径が29メートルあるんですが、それで軒の出は2メートルほどしかないんです。
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(中国山西省 佛宮寺 創建1056年) 写真引用元 [3]
それに対して法隆寺の金堂や塔は、軒の出が4メートルあるんです。大陸から入ってきた建物の作り方には、こんなのはなかったと思います。それが、大陸からの技術を鵜呑みにせんと、雨が多く、湿気の多い日本の風土に合わせて、こういう軒の深い構造を考えたんですな。
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(奈良斑鳩 法隆寺 創建607年) 画像引用元 [5]

写真を見ていただくと解るように、同じ寺社建築でも、中国大陸と日本ではそのあり方が大きく異なります。軒の出も違いますが、法隆寺の特徴は、塔と金堂が左右に配置されており非対称です。大陸の建築、特に宗教建築は左右対称(シンメトリー)を絶対とするの対し、日本においては左右非対称が好まれます。この違いはどこから来るのか。。。?
武澤秀一著『法隆寺の謎を解く』に、中国大陸と比較した日本寺社建築の背景が考察されています。
●法隆寺の特殊性

中国大陸は広大であるだけに地形は多様ですが、日本列島と対比される典型的な風景を挙げるとすれば、見渡すかぎりの大地でしょう。東西南北どこを見ても捉えどころがなく、平原が万里の彼方まで広がっています。高い山並みが見えても、それはかげろうのように遙か遠くに浮かんでいる。このような茫然とした広がりの中で、確かな拠りどころ、明確な定点が求められ、際立つこと、高さ、垂直性への希求を生む。
それに対して日本列島に住む人びとは、穏やかで変化にとんだ風土に馴れ親しんでいました。視界には常に山並みが近くにあり、ときに雲に隠れる。よく霧が発生し、また霞がかかる。飛鳥・奈良時代、伽藍(がらん)の多くは低山に囲まれた盆地に建てられました。
変化にとんだ山並みを背景とするとき、高さより安定が求められるようになる。それが自ずと落ち着きや安らぎをもたらす水平線の構図へと向かう。こうして建築は高さより水平に伸びることを求めるようになり、それは横長のプロポーションに帰着します。

広がりにただよう、おごそかな気配。中空を介したあやうい、しかし精巧なバランス。押し付けがましくない、柔らかな調和。周囲の自然に連続する建築の水平性、開放感。自然との一体感。たたづまい、うつろい、ながれ。。。
大陸には見出しがたい日本の上質な空間とは、これらのことばでかろうじてすくい取ることが出来るような、きわめて繊細な性格のものです。
では、法隆寺を作ったのは、どのような人たちだったのか。武澤氏の著書から再び引用します。
●法隆寺を作った人びと

古くから列島に住みついてきた人びとが育み共有してきた空間感覚が、大陸の技術とからみ合い、法隆寺の創建に大きく作用した。技術の中心にいたのは朝鮮半島から来た人たち、あるいは既に帰化した人たちだったでしょう。そしてこの時期、彼らから技術を吸収し十分に習得していた在地の人びとも育っていたと考えられます。そこにはさまざまな出自があった。実態として法隆寺は大陸から来た人たちとの、いわば合作であったと見られます。
海に囲まれた日本列島の変化にとんだ自然、おだやかな風土、盆地という地形が彼らの柔らかな感性を育て、それに大陸伝来の技術が加わって法隆寺が生まれた。法隆寺にいたって、ようやく日本列島に住む人びとの空間感覚が伽藍の中にはっきりと表現されたといえるでしょう。

法隆寺の造られ方には、古くから列島に住みついてきた人びとが育み共有してきた空間感覚が反映されていると述べられています。この空間感覚とはどのようなものか?参考となる記事を紹介します。
●日本人の空間感覚、その源流は何か?

『今どき伝えたいはなし100』 [6] より
縄文の森で日本人は、「もののけ」を全身で感じ取りながら生きていた。自然の微妙な変化をも見逃すまいと生きてきたのだ。もっといえば、自然の中に「神々の揺らめき」さえ見出そうとしたのである。多様な自然への対応が、おのずから細やかな感受性を生んでいったのではないだろうか。
それに加え、日本人は物づくりにおいて、自然の素材をできるだけ生かそうとする。日本人は建築技術において、レンガや石造りの技術を知らなかったわけではないが、明治に至るまでまで「木造り」にこだわった。
素材を生かす中でも特に「木を生かすこと」には特別な意味があるように思う。アニミズムつまり木に潜む霊威、もっといえば木を依り代として神が降るというマナイズムなど、森の中で育まれた意識があるのではないだろうか。
例えば、木の人形を見ていると不思議な感覚に襲われる。木の人形には魂が宿っているような錯覚に襲われる。日本の著名な彫刻師にこの木をどう彫って仏像を作るのかと尋ねると、その彫刻師は「木の中にある仏を彫りだすのにすぎない」と答えたのだという。アニミズム的な心性をあらわす言葉であると思う。アニミズム的心性においては、自然を征服しようとはしない、自然を生かそうとする。 日本人が工芸や料理などで素材を生かそうとするのはその表れである。

元々、中国大陸では、寺社建築は権威の象徴でした。象徴たる建築物が、日本にくると自然の中に溶け込むように変わっていきます。その変化は自然環境の違いに起因します。中国大陸や西洋など、自然環境が厳しい場合、自然は自分たちを苦しめるも(=否定の対象)であり、そこから制御すべきものとして捉えられていきます。そして、観念的な象徴としての建築が希求されます。
それに対して日本では、自然の中に神々(精霊)が宿っている意識があります。従って、建築おいて日本人が何を自考してきたかをみたとき、常に自然との同化がありました。とことん同化していった結果、建築の造られ方も、自然との調和というより、むしろ自然との和合といういった方がしっくりします。
古い建物を見たとき、建物が建っているのではなく、佇んでいると感じるのは、私たち日本人の潜在意識の中に、残っているからなのではないでしょうか。

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