2014.09.21
宗教が国家を上回った国:イスラムとは?【5】イスラムはなぜ商業を重視するのか?
こんばんは。涼しくなってきた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
今日は、 イスラムの商業について取り上げます。バザールはあまりにも有名ですね。
イスラムの世界ではこのように商業が重視されますが、それは何故なのでしょうか?
イスラム教の始祖 :ムハンマドが商人出身だったからなのでしょうか?
それだけではない、深い理由があるようです。
その理由を解明して行きましょう。
私たちが抱く『商業への印象』が180度変わる事、請け合いです。 それでは行ってみましょう。
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2014.09.16
仏教に未知収束の志を見る~第4回 儒教が成した未知収束とは?
こんにちわちわわです。
これまで、仏教が「未知収束」に基づく追求の中で生じた思想であることを検証してきました。今回は、同じ時代、中国で起こった儒教について考察してゆきたいと思います。
儒教は日本でも規範や学問として江戸時代に庶民にまで浸透したことは以前このブログでも紹介しましたが、仏教と儒教はかなり別物ととらえた方がよいでしょう。
仏教が瞑想によって対象、世界観を追求しようとした抽象的思考、その地平にたどり着くのが困難であるのに対して、儒教とは同じ抽象的思考ではありながら、判り易く、直ぐにでも実践できる規範、心得の思想です。仏教が未知そのものを追求したのに対して儒教とは追求をする前の心得、志を指し示したものでした。その真髄は「仁」にあったのです。
儒教とは何か?果たして儒教もまた未知収束なのか?それを知る上で、まずは儒教を起した孔子を見ていきます。孔子の生涯は「史記」によると以下のように書かれています。
西周中期以降、礼楽は廃れ、諸侯はおこないを恣(ほしいまま)にし、強国が政治を牛耳った。孔子は、王道が衰え、邪道が興ることを傷み、詩書を整理し、礼楽を整えた。しかし、世の中は混濁を極め、孔子を任用することができる諸侯はいなかった。それゆえ、七十以上の君主に仕官を求めたが、徒労に終わった。
司馬遷は、孔子を、混濁しきった世の中を立て直すべく高い理想を掲げ、努力を重ねながら、誰にも理解されなかった人物ととらえています。儒学は漢の武帝が国学とするまで、日の目を見ることなく秦の始皇帝の焚書坑儒に見られるように徹底的に弾圧されてきました。
今回は孔子の生きた春秋・戦国時代とはどんな時代だったのか?を紐解きながら、孔子の目指した「仁」とは何かに迫っていきたいと思います。
孔子あわれと思った方↓↓ぽちっと!!
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2014.09.11
ロシアの歴史に“民族の本源性”を探る~③防衛のためにウクライナという毒を飲み込んだロシア
こんにちわちわわです。
これまで、ロシア民族形成の起源と、現在に至るロシアの拡大の過程を地勢的観点から考察してきました。
今回は、いよいよロシア帝国形成までの過程を、他の国と違うロシア独特の視点から切開していこうと思います。
ロシアは多民族国家です。
ロシアは、その歴史の初めから諸民族との接触を運命付けられていました。黒海の北方に横たわる南ロシアの平原は、遊牧民の居住地であり通路であり、早くには、イラン系のスキタイ人、紀元後には匈奴の裔といわれるフン族が東から西へ通って以来、さまざまな民族がこの地を駆け抜けました。
他方、ロシアの北部地帯は、フィン系諸族の生活圏でした。
この様に常に四周から異民族の脅威にさらされてきたスラブ人は、農業を基盤にした村落共同体の連合国を形成しており、周辺国家と婚姻関係による友好関係を築きながら、共生関係で民族を守ってきました。
草原の遊牧民からのがれ、北の森に定着し、村落共同体を残存させてきたロシアの歴史は、他民族からの防衛の歴史といっていいでしょう。
しかし、その南方に広がる草原の穀倉地=ウクライナ支配をめぐってロシアの歴史は歯車が狂ってしまいます。ロシアという国で連想される革命や殺戮のイメージは、このウクライナ支配から始まったといっていいでしょう。
ロシア深いと思った方↓↓ぽちっと!!
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2014.09.02
仏教に未知収束の志を観る~第3回 釈迦が求めた世界観とは
第3回はいよいよ今回のテーマの本丸、仏教の登場です。
仏教と言えば念仏、仏像、輪廻、祈りといったものを想像します。そして祈る先には仏が居て、仏とは超越存在であり、実在しない架空のものです。しかし、それら全て釈迦が滅した後の大乗仏教の教えです。大乗仏教と小乗仏教は別宗教と言えるくらいに異なり、今回扱う仏教は小乗仏教、釈迦が開いた仏教の話です。
【仏教が目指した世界観】
釈迦が開いた仏教はキリスト、イスラム、ユダヤといった一神教、そしてインドに最初に発生した多神教のバラモン教とも異なる神の居ない宗教です。宗教というより科学や哲学に近い位相にありました。仏教とはひと言で言うと瞑想をもって悟りを開くことを目的とした宗教です。そしてその悟りとは世界を因果律で理解しようとする態度です。つまり、超越的な存在を頼りにするのではなく精神世界を追求し極める事であたらな世界観~世界を見る~を獲得しようとしたのです。
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2014.08.29
ロシアの歴史に“民族の本源性”を探る~② シベリア征服はスラブ諸民族による開拓であった
プロローグ、①ロシア民族の本源性の秘密は、その起源にあり。森と共に生きてきた民族に続いて、今日は、『②シベリア征服はスラブ諸民族による開拓であった』を紹介します。
大航海時代のヨーロッパ諸国(スペイン、ポルトガル、イギリス、フランス)が、先住民を大量殺戮し、又は伝染病や重労働で人口を激減させ、黒人奴隷を使った植民地支配を世界中で繰り広げていたのに対して、シベリア征服はそれらとは全く様相の異なる領土拡大であった。
出発点は毛皮を求めての東進であったが、それは先住民の生活様式にも文化にも干渉せず、ロシア人自らが辺境を開発し、南方の遊牧騎馬民族から防衛することだった。そしてその後農民たちが農地を求めてやってきて定着したことで、領土が拡大した。
出羽弘氏(ロシア語翻訳家)の『ロシア人のシベリア征服』(1987年初出/2001改定)を元に紹介します。
(写真はエニセイ川。こちらよりお借りしました。)
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2014.08.28
仏教に未知収束の志を観る~ 第2回:ヴェーダ思想は、私権追求⇒自民族結束のために生まれた正当化観念
シリーズ第二弾です。今回は仏教以前のアーリア人の思想について扱います。
ヴェーダ思想(≒バラモン教)成立の背景
ヒンドゥークシ山脈を越えインド亜大陸に侵入したアーリア人はインダス文明人であるドラヴィダ人と覇を競い、紀元前1800年頃にはインド北西部パンジャーブ地方に定住したと考えられます。インド定住後、アーリア人の宗教的思索は、「リグ・ヴェーダ」として結実します。インド・アーリア人にとってこれがいかに大切なものであったか、これ以降に著された宗教的・哲学的文献が「ヴェーダ」として総称されたことから察することができます。
ヴェーダ(veda)とは「知る」と言う意味の「ヴィッド」から派生した言葉で、知識、宗教的知識を意味します。「リグ・ヴェーダ」はおそらく紀元前1200年ごろから前1000年頃にかけて原型が成立し、前800年ごろまでに現在のような形に成ったと考えられています。(この投稿はパンジャーブに定住した時代=初期のヴェーダについて追求します。)
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2014.08.28
シリーズ 宗教が国家を上回った国:イスラムとは?【4】~イスラム法とその集団規範~
みなさん。こんにちは。
これまでのシリーズではイスラム教の特性について紹介してまいりました。
イスラム教の信者は一日5回の祈りをささげることに始まり、断食や生活を送る上での様々な規律が法律として存在しています。その他の宗教との大きな違いは人々は神の前で平等と見なされ、厳しい修行と規律を遵守することといえます。イスラム教のは、政教一致、つまり宗教が国教となり、かつ法律となっていることのが西欧と決定的に異なる点です。西洋諸国はほとんどが(日本も含めて)、「国>宗教」の構図であり、宗教の入信は自由ですが、政治からなる法律は上位に位置します。一方でイスラム国家では、「宗教>国」となり、宗教がそのまま法律となっています。国際市場における加わり方においてもイスラム法で規制がかかっており、自由に取引することはできません。
このように説明すると、一見厳しいと感じられるイスラム国家ですが、その厳しさをもっても今もなお全世界に15億人を越える教徒を誇る一大宗教となっています。今回は、イスラム法について調べていき、どういった特徴があるか、またどのような可能性をもった宗教=法なのかを読んでいきたいと思います
写真はこちらからお借りしました。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55562004.html
■イスラム法って何?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=294438
人が人を裁くために法律がある、と我々は知らず知らずのうちに思い込まされているが、本来的にはそうではない、ということを、イスラム法を調べていて気づかされた。イスラムでは『神の啓示(法源)』から法則を『発見』し、それを共有することが法律であると説く。そして、イスラムの成り立ち上、この『神の啓示(法源)』は、『共同体の維持をどうする?』という志に貫かれており、私利私欲といったものが入り込む隙は一切ない。『法律』というものを考えたり、または作り出そうとした場合、西欧的思考に染まった頭をリセットして、イスラム的思考に切り替えることによって、新たな可能性が開けてくるだろう。
《以下引用》リンク
【イスラム法とはなにか】
人類普遍の法であるイスラム法に忠実に従った生活を送る・・これが、ムスリムの基本です。イスラム法は聖典『クルアーン』を根本に、それ以外の法源にもとづいてイスラム法学者が構築したものです。その組み立ては、ユダヤ法とよく似ています。イスラム法によると、人間の言動はすべて、イスラム法のなかに対応する判断(hukm)を持ちます。法判断は、該当する明文(法源)から直接・間接に導かれます。法源から法判断を導くのが法学の仕事です。西欧には、人間が法律を作ってよい、という考え方があります。議会がまず立法を行ない、法律ができます。それを解釈・運用するのが法学者の仕事です。しかしイスラム教になると、法律は神が作ったもので、永遠不変です。その法律を発見するのが法学者です。法学者がいなければ、法律もないわけで、彼らの社会的な地位はきわめて高いのです。【イスラム法の法源】
イスラム法の法源は、全部で10種類ありますが、大事なのは最初の4つです。第一法源は、『クルアーン』。神の啓示がそのまま、人間との契約=法になります。第二法源は、スンナ(伝承〓 使徒ムハンマドの行為・言葉が、今日まで伝承され、法源となっています。『クルアーン』で解決のつかないことの多くが、これで解決します。第三法源は、イジュマー。新しい事態が生じて法判断に困る場合、イスラム世界のすぐれた法学者(ムジュタヒド)全員に手紙で呼びかけて、返事をもらい、その一致があれば以後、それが法源となってムスリム全体を拘束します。第四法源は、キヤース。明文がなくて判断に困る場合、法学者が論理的な推論によって判断を下すことです。ただし、英米法の場合、ある判事の判断は判例としてほかの判事を拘束するのですが、イスラム法の場合、キヤースはほかの法学者を拘束しません。判例として法学者を拘束できるのは、ムハンマドの下した法判断だけです。イスラム法の体系は、千年も前に成立しましたが、現代数学と同じ公理論的構成(axiom- atic construction)をとっています。ローマ法の影響もあるようですが、形式的に完備した法によって、多民族・全人類規模の共同体をつくりあげたのは驚嘆に値します。【クルアーンとスンナ】
『クルアーン』が法源として正当なのは、それが神からのものだからです。それは、・神でなければ不可能なほど完璧な作品だから、・『クルアーン』のなかに、もし疑うなら人間が作ってみよと挑発があるのに誰も作らなかったから、などで証明されます。『クルアーン』には、・信条的規範(ムスリムが信ずべきこと)、・倫理的規範(ムスリムが行なったほうがいいこと)、・行為規範、の三種がありますが、・のみが法規範です。
スンナとは、神の使徒(ムハンマド)から出た言葉・行為・承認です。スンナの伝承には、イスナード(伝承の鎖)がついており、その違いでスンナの信頼性に差が出ます。ムタワーティルのスンナ(大勢の人びとが使徒から伝え……現代に伝わったスンナ)が、もっとも信頼のおけるスンナです。例をあげるなら、【イジュマーとキヤース】
第三法源のイジュマーとは、使徒没後のある時代に、すべてのムジュタヒド(イジュティハードを行なう資格のある法学者)が全員一致で示した判断のことです。後代の法学者は、これを覆すことはできません。ムジュタヒドは、『クルアーン』およびハディースに精通している人びとで、イジュティハード(法源から法判断を導く努力)を行なって、質問に回答します。キヤースは、明文のない事件と明文のある事件を、明文に示された判断で結合することです。キヤースには、「基本」と「枝」があります。例をあげれば、基本=ブドウ酒(飲んではいけない)、枝=ナツメヤシ酒、があった場合、その禁止の理由(酔っぱらうからいけない)をあいだに挟めば、ナツメヤシ酒も飲んではいけないと結論できます。これがキヤースです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=294433
シャリーア=イスラム法においては、盗みを犯した人物の腕や足を切断するなどのハッド刑、婚外セックス・同性愛・離教などに対する石打ちや斬首による公開処刑など、現代社会においては過酷とされる刑罰が存在し、西洋社会・西洋法体系から見れば、人権侵害であるとして批判されている。しかし、それはあくまで西洋個人主義を前提とした偏った見方であり、元々部族共同体の秩序崩壊を食い止めるためにムハマンドによって始められたイスラム教の生い立ちからすれば、至極当然であると思われる。(参考:宗教が国家を上回った国:イスラムとは?【2】同じ神を信じるキリスト教・ユダヤ教と何が違う?リンク
つまり、共同体が崩壊しバラバラの個人に分断されてしまった西洋人の法体系が「集団<個人」を前提としているのに対し、創設当時より現代まで部族共同体が生き残っているイスラム法は「集団>個人」であり、あくまでも共同体の秩序を守ることを第一とし、個人の自我を戒める“規範体系”であると考えられる。
上記の通り、神そのもの=教えがクルアーンいわゆるコーランが法の根源になっています。次にムハンマドの言葉(神の啓示)がスンナ、そしてそれらでは判断できないケースの判断がイジュマーとキヤースです。イジュマーとキヤースは法学者がクルアーンとスンナを解釈しなおして判断した記録になります。つまり徹底してクルアーンとスンナを軸として、それを解釈しているのです。また、法に違反したものに対する、罰則は大変厳しいですが、彼らは当たり前のようにその規範を守ります。それだけ、集団規範を守ることが最優先となっているのです。「集団>個人」といえるのです。
次にイスラム法の成立過程についてみてみましょう。
写真はここからお借りしました。
http://sxwounded-ap.jugem.jp/?eid=14
■イスラム法の成立の背景
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/83-islam3.html
ウマイヤ朝はアラブ第一主義をとり、征服地の非アラブ系改宗者(マワーリー)を差別したので、彼らは”アッラーの前に平等である”と説く「コーラン」の教えに反するとしてウマイヤ朝の政策に不満を抱いた。特にシーア派を信仰するイラン人がその中心であった。またアラブ人の中にもウマイヤ朝の政策を批判する者が出てきた。 こうしたシーア派や非アラブ系の改宗者の不満を利用し、イラン人の協力を得て、ウマイヤ朝を打倒し、アッバース朝(750~1258)を開いたのが、アブー=アルアッバース(サッファーフ(カリフ名)、732頃~754、位750~754)である。アブー=アルアッバースは、ムハンマドの叔父のアッバースの曾孫で、父の反ウマイヤ運動を引き継いで、サラサーン(イラン東部)で挙兵し、イラクに進出してクーファでカリフに推戴され(749)、翌年の戦いでウマイヤ勢力を掃討し、750年にアッバース朝を開いた。 激しい性格の持ち主であった彼は、政権を握るとウマイヤ家の人々を皆殺しにし、またアッバース朝の樹立に協力してきたシーア派の人々を殺戮し、スンニ派を採用し、自分の近親者で政権を固め、中央集権化をはかった。
~中略~
第5代カリフのハールーン=アッラシード(763頃~809、位786~809)は、第3代カリフと奴隷出身の母との間に生まれ、異母兄が暗殺されたあとカリフの位に就いた。 ハールーン=アッラシードは歴代のカリフ中最も傑出した君主とされ、彼の時代にアッバース朝は黄金時代を迎えた。 彼は遠くインド王や有名なフランクのカール大帝と使節や贈り物を交換したと言われている。しばしば小アジア遠征を行い、ビザンツ帝国を圧迫した。 この頃、首都バグダードは世界一の大都市として繁栄した。最盛期の人口は100万人を超えた(150万人、200万人と書いている本もある)。このバグダードの繁栄ぶりは、有名な「アラビアン=ナイト(千夜一夜物語)」に描かれている。
ハールーン=アッラシードはこの「アラビアン=ナイト」に度々登場することでも有名である。しかし、彼は中央アジアの反乱鎮圧に向かう途中にトゥーズで病没した。 ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えたアッバース朝も、彼の死後まもなく帝国内の各地で自立の動きが盛んとなり、エジプトやイランには独立王朝が次々に成立し、アッバース朝は次第に衰退していく。 アッバース朝のカリフは、神の代理人としてイスラム法に基づいて政治を行い、官僚制を整備し、中央集権化を進めた。
写真はこちらからお借りしました。
http://ogawakeiic.exblog.jp/14562507
イスラム帝国(アッバース朝)はアラブ人第一主義に反する形(平等を求める意思)で成立しましたイスラム帝国は世紀ごとの地図をみればわかりますが、領土を順調に拡大し、8~9世紀に全盛期を迎えましたし。カリスマ的なカリフ=ハールーン・アッラシードの時代に、勢力を大きく勢力拡大しましたが、彼の死後、一気に国家統合力が衰弱し、独立する国家が増えていったことから、官僚制の整備と中央集権化を進めつづ、いまだにのこるアラブ人第一主義を断ち切るためにイスラム法が成立していったのです。これにより、国家は安定し、人々は真の意味で平等となりました。この時代に成立したイスラム法ですが、当然ムハンマドが残したイスラム教(シャリーア)には当時の生活の様々な問題を解決するに当たる判断材料までは記されていません。そこで、彼らは、シャリーアを元に様々な解釈が必要となっていったのです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=294438
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ムハンマドの死後、正統カリフ時代を経て、アラブ人至上主義を取っていたウマイヤ朝が750年に滅んだ後アッバース朝が成立した。アッバース朝は非アラブ系であったペルシア人からの支持もあって、アラブ人以外のムスリムたちにも道を開いた世界帝国へと変わっていった。この支配下には、ペルシアやエジプトといったギリシア文化の影響が色濃く残っている地域も含まれており、そこには哲学をはじめとする医学・数学・天文学などの諸学問が、ギリシア時代のものからエジプトやシリアなどの東地中海沿岸の各地に残っていた。アッバース朝は、バグダードにシリア人学者を招いて、シリア語のギリシア文献をアラビア語に翻訳させた。
————————-こうした、異民族のイスラムへの参入・支援とイスラム社会の異民族への寛容から、多くの社会統合観念が持ち込まれ、一定、哲学を要する事態となってきたと思われます。
wiki(リンク)によれば、
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このような翻訳活動は確かにイスラムに哲学をもたらしたが、これだけではイスラーム哲学の成立の契機とは見なせない。彼らが、本当に哲学的方法を必要としたのは、イスラム法(シャリーア)の解釈が多様化してきたためであった。すでにムハンマドの頃とは違い異民族のムスリムたちを抱えた世界帝国になっていたイスラム帝国は、もはやクルアーンとハディースだけでは、収まりきれないものとなった。収まりきれない場合は、学者たちの合意によって決定されるものとされ、孤立した推論は忌避されていた。柔軟に制定されているイスラム法に対しての正確な解釈が必要とされてきたし、多くの学者が他者の異説よりも、自説が正しいと考えていた。このようなまちまちな解釈では合意にも支障がでるので、客観的妥当的な立場からの見解を持つために、哲学的方法が歓迎されたのである。
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写真はここからお借りしました。
http://japanese.irib.ir/news/最新の話題/item/37016-「イスラム法学者とイスラムの目覚め」国際会議
■まとめ (イスラム法の可能性)
イスラム法の体系はクルアーン、スンナ、キヤース、イジュマーの構成となります。現代においても、四大法学派に見られるように、基本的にイスラム教をベースに様々な規律・判断軸を規定しているので、その解釈が分かれてきています。ここでいえることは、その他の宗教、国家と比較して、新たな法律や規律を人為的に作り出すのではなく、あくまで「クルアーン」を軸に解釈を施していることです。たとえば、人為的なトラブルが発生してもその解決にあたって、その為だけの法律は作らず、法を解釈して判断する。西洋であれば、法律の成立過程にも市場原理や利害関係が密接にかかわるケースが少なくありません。しかしイスラム国家ではそのような個人・組織あるいは国家の利益を優先した判断はありえず、あくまでイスラム教の解釈によるのです。これは共同体規範の軸をイスラム教に求め、それを遵守することで社会秩序が保たれることをみなが理解しているから(教育されているから)でしょう。当然個人の自我などは許されず、前述の通り、規範を逸脱したものには厳しい罰則が与えられます。それも社会的にそれだけ規範破りがご法度であることが共認されているのです。つまり西洋が「個人>集団」であるのに対して、イスラム国家では、「集団>個人」であるのです。この根本的な思想の違いが現代の統合体系の違いにもあらわれ、秩序が保たれている大きな要因といえます。まとめると、イスラム社会は個人・組織・国家の利益よりも集団の秩序を第一に考えているという点でしょう。現在、イスラム諸国が社会的にバッシングを受けている様も、どうやら、強固な秩序を嫌がっている勢力がいる可能性がありそうです。
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2014.08.15
夏休み特集~「マタギ」のはなし
みなさんこんにちは。夏休みいかがお過ごしですか?
山へ、川へと自然散策に、また帰省で都会を離れて田舎生活をされている方。今回は東北に今でも残る狩猟民「マタギ」の文化に触れてみたいと思います。
現在マタギの事を調べており、その途上に山岳民について書かれた書物があります。
宮本常一氏の「山に生きる人々」の著書の中に記載された「山と人間」という一説です。最初の書き出しが非常に興味深い内容です。
>日本に山岳民とよばれる平地民とはちがった民族が存在したかどうかということについて、私は長いあいだいろいろ考えてみてきつつ、最近までそのまとまったイメージについて頭に描いてみる事ができなかった。しかしごく最近になって、やっとある推定を持つことができるようになった。そのことについてまずのべてみたい。
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2014.08.14
夏休み特集~棟梁にみる“教えない”人育て
さて、「教える」「教えてもらう」って行為、みなさん普段どこで見かけますか?
学校、塾、習い事、子育て、そして何より職場の人材育成。実は人の人生のどの場面でもあるんですよね。しかし、そんな風に日常に当たり前にあるように見える「教える」「教えてもらう」なんですが、学校教育をはじめとして限界がきているようです。なぜなら、一方で主体性をはぐくみたい!主体性が欲しい!などとも良く言われるからです。後輩にはもっと主体性が欲しいんだよね!なんて言っているそばから、せっせとマニュアル作りをしていたり・・・(笑)。教えてしまうと主体性が育たない、自分で考えなくなるってことには、なかなか気づけていないものです・・。
本日は、夏休み特集として、宮大工の棟梁小川三夫氏の著書『木のいのち木のこころ』から、大工たちに伝わる、教えない人育てを紹介します。実体験に基づく彼の発言にハッさせられますし、また何より、“教える側”の姿勢、心の有り様が問われるのだと気づかされます。
posted by tanog at : 2014年08月14日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2014.08.13
宗教が国家を上回った国:イスラムとは?【盆休み特別企画】数学から見る二大文明の『世界の捉え方』・・・代数学のイスラム。解析学の西欧。
みなさん、こんにちは。
盆休み、いかがお過ごしですか?
今回は、特別企画として『数学から見る二大文明』をお送りします。
なにやら難しそうですが、これがお勧めなんですよ。
教科書では絶対に教えない、『2大文明の真の歴史』と『数学との関係』を解明。
そして最後には、2大文明ですら成し遂げられなかった『これからの可能性』を提起します。
それでは行ってみましょう。
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