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夏休み特集~棟梁にみる“教えない”人育て

みなさま夏休みm019.gif [1]をいかがお過ごしでしょうかicon_biggrin.gif [1]

さて、「教える」「教えてもらう」って行為、みなさん普段どこで見かけますか?

学校、塾、習い事、子育て、そして何より職場の人材育成。実は人の人生のどの場面でもあるんですよね。しかし、そんな風に日常に当たり前にあるように見える「教える」「教えてもらう」なんですが、学校教育をはじめとして限界がきているようです。なぜなら、一方で主体性をはぐくみたい!主体性が欲しい!などとも良く言われるからです。後輩にはもっと主体性が欲しいんだよね!なんて言っているそばから、せっせとマニュアル作りをしていたり・・・(笑)。教えてしまうと主体性が育たない、自分で考えなくなるってことには、なかなか気づけていないものです・・。

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本日は、夏休み特集として、宮大工の棟梁小川三夫氏の著書『木のいのち木のこころ』から、大工たちに伝わる、教えない人育てを紹介します。実体験に基づく彼の発言にハッさせられますし、また何より、“教える側”の姿勢、心の有り様が問われるのだと気づかされます。
m282.gif [1]場、空気を作る
「納屋を掃除しておき」これだけや。
「はい」って答えて納屋へ掃除に行ったよ。そこには棟梁の道具が置いてあったし、鉋屑なんかがあったな。
「納屋を掃除しろ」ということは、「そこには自分の道具が置いてある。よくわしの道具をみてみろ。わしがおまえの鑿や鉋がまったくあかんというてる意味がわかるはずや。道具も道具やけど、研ぎもなっとらん。そこにはちゃんと研いだ鉋で削った鉋屑もあるやろ、それが本物や。道具を研ぐというのはそういうことや「掃除をしながらわしの仕事をよーく見ろ」ということだった

 

m282.gif [1]心を空にして
俺なんか棟梁から「これはこうやって、ここはこうや」なんてこと、一つもおそわってないもんな。二階の納屋に上がって、「鉋屑はこういうもんや」って鉋を一回かけてその鉋屑をくれただけや。
これが訓練校で少し教わってきたら違うんだよ。「こうやれば削れる」って説明してくれるだろ。だからその説明が頭から離れないんだな。できるだけそれに近づこうとする。そのことが頭からずっと離れないんだ。それに凝り固まっちゃうんだな。そのためにかえってわからなくなる。

弟子のなかにも、早く覚えたいからといって本を読むやつがいる。鉋の刃はこうしたほうがいい、こういうときはこうすればいい、って書いてある。そいつがそのことを仲間に話すわな。みんな、なるほどと思う。言葉っていうのは便利で、なるほどと思えばそれで自分でできる気になるからな。俺にも聞いたようなことを質問してくる。しかし俺は言葉では教えんよ。やって見せるんだ。しかし本で覚えたことは自分の手でやっていないから、俺が手本を見せてもなかなかわからんわ。そういう意味では本を読んでも無駄や。それどころかそんなことに気を使い、意識するだけ上達は遅くなる。棟梁が俺に手紙をくれて、「心を空にして指導教示を受け入れる様に」って書いてあったけど、そのとおりなんだ。

 

m282.gif [1]すぐにはわからなくてもいい
そのときは何でこんなこと話してくれるのかわからず、「ふーん、なるほどな」と思って聞くだけや。しかし後で考えると、そのときそのときの俺の力量や、次の仕事に関係のあることを話してくれてんのや。だからその一言が後で俺のなかで大きくなるんやな。

 

m282.gif [1]わからないことをきくときは
聞きに行くと、
「おまえの考えは?」
こう聞かれるし、答えを教えてくれる前に、
「では、あれはどうなっていた?」
って逆に質問される。

だから棟梁には下手に質問できないよ。間違っているかもしれないけれど、自分はこう思うんだというのを持っていないと質問ができない。だから聞く前に考えるようになるんだ
「自分がわからないとき、わからないから、教えてくれっていうのは失礼なんだ」

棟梁は教えられるんやなくて自分から「学べ」っていってたんだな。

 

m282.gif [1]教える側の心得、教わる側の心得
みんなはなんでも言葉や文字で伝わると思っているが、そんなのは一部や。匂いや音、手の感触なんてものが文字で伝わると思うかい。
学校や訓練所で、勘が養えるか?なんでも学校で襲われると思ったら間違いや。
勘をどうやって養うかっていったら、自分の師匠から写し取るしかないんだ。だけど、人はみんな性格も、持っている才能も違う。教える方は弟子の性格や才能に合わせてタイミングをはかって、ここまで来たらこうしてやろうということを考えなくちゃならないんだ。勝手に教えておしまいってわけにはいかないんだよ。

 

個性なんてものがなければ、誰にでも同じ方法で教えてやれるけど、人は木と同じでそれぞれ癖があるんだ。それを無視したらだめになってしまう。癖を生かすように、それを伸ばしてやるのが教える側の勤めや。棟梁はこういっている。「人間は生れたままの個性を持っている。本当の教育というのは、その個性を伸ばしてやることだ。」
こうなると教わるほうも教えるほうも大変や。学校のように教室に集めてみんな一緒に、同じペースでというわけにはいかない。
(略)
俺は、師匠と一緒に飯を食って、いつも一緒にいて、同じ空気を吸って、何を感じ、それにどう反応して、どう考えているかを知らなくちゃならないと思っているんだ。これは自分の体験からもそう思う。俺は棟梁の家に住み込んで毎日一緒に暮らして、棟梁が触ったものに自分も触って、とにかく棟梁のやるとおりにした。
なにより大事なのは、一緒に暮らし、同じ釜の飯を食うことや。教えてくれる人と教わるもんは同じ空気を吸わなならん。このように時間をかけてものを教えたり、教わったりすることはなかなかできにくいわ。人間はみな不揃いなんだ。そのことを忘れているから教育が問題になるんやないか。

 

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いかがでしたでしょうか?

宮大工はおよそ千年のスパンで仕事をするそうです。千年前の大工たちは何を想いこのように建てたのか?千年後に今建てている建物はどうなっているだろうか?
常もそういった長いスパンで物事をとらえます。人育ても同じ。性急な成果を求める学校教育とは違いますね。また、木を扱うので、自然への同化力が高い。彼らは木の癖を見極めて組んでいきます。注視して対象に迫る力が問われるのだと思います。

誰かがどうにかしてくれるやろという時代、考えなくても生きていける時代は終わりました。これからは自考力、追求力が問われる時代ですm040.gif [1]
だからこそ、この棟梁たちの言葉は、大工という職業を超えて普遍的に私たちに響いてきます。
ぜひ夏休み明け、職場で意識してみてくださいicon_biggrin.gif [1]m051.gif [1]

 

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