2009.02.21

マリタ遺跡~極寒のシベリアで暮らすモンゴロイドの暮らしとは

寒冷地適応した北方モンゴロイドの暮らしぶりはどのようなものだったのでしょうか?
今日はその暮らしぶりについて、もう少し詳しく見てみたいと思います。
まずは当時のシベリアの状況のおさらいをしておきましょう。
>コケを食みながらトナカイが移動する荒涼とした極北のツンドラ地帯、ダフリアカラマツの森林が打ち重なるように続く東・中部シベリアのタイガ地帯、みずみずしい草原が盆地から山の頂にまで延々と展開する南部シベリアのステップ地帯、大小無数の沼沢が広がる西シベリア地帯、モンスーンの影響を受ける極東の針広混交林地帯など、およそ北緯50~75度、東経60~170度に広がるシベリアは、様々な顔を見せている。<(「マリタ遺跡からのメッセージ」より)
特に注目すべきは南部シベリアのステップ地帯。
今とは違って広大な草原地帯だったようです。
このようなシベリアを舞台に、どのような暮らしを展開していたのか見て行くことにします。
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posted by saah at : 2009年02月21日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2009.02.20

なぜユダヤ人は金融業に特化していったのか?

(リンク)(リンク)の通り、ユダヤ人はどこに行っても迫害 されていました。
ヨーロッパでは正業につくことや土地を所有することを禁じられたり 、ユダヤ人が作ったものはユダヤ人にしか売ってはならないとされたり 、ユダヤ人はほとんどの職業から追放されていました。
そんなユダヤ人にとって数少ない収入源として残ったのは、高利貸しや両替商など、利子を取り扱うことの多い金融業でした。
なぜなら、キリスト教 では金利を取ることは罪と見なされていた一方、ユダヤ教は異教徒からは利息を取っても良いとされていたため 、ユダヤ人はそのニッチに収束したのです。
シェークスピアの「ベニスの商人」で有名な悪役ユダヤ人シャイロックがそれです。「ヴェニスの商人」
当時ユダヤ人がキリスト教徒からどんな目で見られていたのかがよくわかりますね 😥
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posted by pingu at : 2009年02月20日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2009.02.19

タルムードから見たユダヤ人の可能性

こんばんは、カッピカピです。
 
 長い間、迫害され続けてきたユダヤ人。そのユダヤ人が、これまで数々の偉業をなし遂げてきたのは、ユダヤ教による厳しい規律と勉強の成果であることが、前回のぴんぐーさんの記事『ユダヤ人の頭脳はどのように作られている?』で、分かってきました。
 宗教といえば、「神に祈りを捧げて、その恵みを受けるもの」と今まで捉えていましたが、このユダヤ教に限っては、そんな他力本願的な思想は一切なく、自ら学び、自らの生きる道を創り出してゆく、そのための拠り所となる行動規範群として、ユダヤ教はユダヤ人の間で位置づけられているようです。
 そこで、今日はユダヤ教の経典とも言うべき「タルムード」について、その内容を紹介しようと思います。
untitled.bmp
↑の絵は、タルムードの一ページです。 ページ中央の凸の部分が本文で、左右が世界のラビのコメントだそうで、全訳すると、このページだけで数十ページにものぼるそうです。
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posted by hi-ro at : 2009年02月19日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2009.02.18

イスラムの夜明け ~メッカと国際情勢~

こんにちは
【チーム宗教】です 😀
先日のMITSUKOさんの記事に引き続き、イスラム教の背景となる、当時の国際情勢や部族の内情について調べてみました
今回のテーマは大きく3つ
①イスラーム以前のアラビア半島はどんな感じだった?
②当時の国際情勢は?なんでメッカは繁栄したの?
③イスラム創始者のムハンマド(マホメッド)の家系について
ここからイスラム教が「商人の宗教」と呼ばれる所以がさらに分かります
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posted by maru at : 2009年02月18日 | コメント (3件) | トラックバック (0) List  

2009.02.18

半島への仏教伝来

韓国はもちろん、日本にも大きな影響を与えた仏教は何時頃、半島に伝わったのでしょうか?
今回は、高句麗・百済・新羅への仏教伝来の状況をまとめてみたいと思います。
     三国の仏教の受け入《引用・抜粋》
     【三国の仏教受容関連年表】

372年 高句麗に中国の前秦から仏教伝来
384年 百済に晋より仏教伝来(摩羅難陀の到来)
527年 新羅、仏教を公認(異次頓の殉教)
6世紀末~7世紀前半 渡来人系僧侶(行基、慧慈)、仏師(鞍作鳥)らが大和で活躍

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posted by naoto at : 2009年02月18日 | コメント (6件) | トラックバック (0) List  

2009.02.17

日本の風土が蘇生させた仏教文化~和辻哲郎「古寺巡礼」より

大正7年5月、20代の新進気鋭の哲学者が、奈良に遊び、唐招提寺・薬師寺・法隆寺・中宮寺の印象を熱く記した。度重なる印刷に紙型が摩滅して改訂の必要が生じた、というくらい流行ったらしいが、戦時下の情勢で絶版。「近く出征する身で生還は保し難い、一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい。ついては写したいからしばらく貸してくれ」という要望も1,2で止まらなかったという。
さて、今回は、コーヒーブレイク。
著者自身、「若さの情熱」が書かしめたと恥じらうほど熱い、しかし彼の、後世の思考の原型があるとも言われる和辻哲郎の名著、「古寺巡礼」を紹介します。
大作です(たぶん)。
しかもマジメです(メイビー)。
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posted by urara at : 2009年02月17日 | コメント (4件) | トラックバック (0) List  

2009.02.17

2月の優良ブログ・HPの紹介ページ

遅れましたが、このコーナーの2月板 を入れておきます。 😀
2月の探求活動で出会った優良ブログ・HPへコメント又はトラックバックを入れた方はこの記事のコメント欄に報告をお願いします。また、「これぞ紹介したい」というお勧めサイト・記事もここに紹介してください。
せっかく探してたどりついたのですから、ぜひ皆さんにも紹介してあげてください。

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posted by tano at : 2009年02月17日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2009.02.16

国家統合と神社の歴史

神社には長い歴史がありますが、歴史的には紆余曲折を経て、現在の形・体制に至っています。
特に、現在のような神社体制が確立する過程は、日本という国家が誕生する過程とほぼ重なってきます。
国家体制の中に「神社」という仕組みが存在する以上、国家統合と神社は切っても切り離せません。そこで、今回は国家統合と神社システムの歴史を追ってみます。
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posted by staff at : 2009年02月16日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2009.02.15

高句麗、百済、新羅における仏教とは?

るいネットサロンで日本の仏教について話してみましたが、支配者と庶民との関係がはっきりしませんでした。そこで、仏教を持ち込んだ朝鮮の渡来人の仏教とは何だったのかを調べて見ました。まず仏教が伝来した朝鮮の高句麗、百済、新羅の時代をhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99「朝鮮の仏教」の抜粋から見てみます。
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三国時代の初期仏教
朝鮮半島への仏教の伝来は、高句麗へは372年(小獣林王2年)に伝来し、 百済へは384年(枕流王元年)に伝来、 新羅では少し遅れて、528年(法興王14年)に公認された。 五胡十六国時代および南北朝時代の中国から伝えられ、これら三国においてはその後の律令制度の整備に伴い、国家建設の理念としての役割を果たすようになった点が特徴的である。特に新羅においては、護国仏教としての性格が強いのが特徴で、唐の侵攻に対し先頭に立って人民に徹底抗戦を促して、新羅の朝鮮半島統一に大きな影響を与えた。

■3国に共通する仏教の公認の流れは以下です。
建国史から幾つかの部族の連合から生まれて、族内で王位を廻していた。
       ↓
兄弟相続へ
       ↓
王権を強化する為に父子相続へ=共同体の解体
      ↓                 
国家統合する為に律令、大学等の制度の制定
      ↓
国家の精神的基盤として仏教を公認する。
*隣国・中国からの領土侵犯の外圧*

以下、高句麗、百済、新羅の順番で見て行きます。
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posted by sakashun at : 2009年02月15日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2009.02.13

邪馬台国は朝鮮半島にあったのか-2 朝鮮半島説での行程問題

😀 くまなです。
邪馬台国は朝鮮半島にあったのか-1 倭国は朝鮮半島にあったでは、倭国の所在地について、山形明郷氏の朝鮮半島説を紹介しました。その著書は「邪馬台国論争 終結宣言」です。
その中で、魏志倭人伝の行程問題について課題が残りました。
行程問題とは、魏志倭人伝に記述された帯方郡(魏の領土)から倭国の国々や邪馬台国への行程が記された部分の解釈をめぐる問題です。その定説について詳しくはnaotoさんの邪馬台国ってどこにあるの?・・・近畿説と九州説やウィキペディアの邪馬台国を参照してください。
山形氏は、邪馬台国について書かれている当の魏志倭人伝をほとんど扱っていません。なぜなのでしょうか。魏志倭人伝及びその行程問題に対する山形氏の考え方が「邪馬台・其の国名と実像推測」の中で述べられています。以下がその引用です。

 抑々(そもそも)『倭人傳』と称されるものが研究なされるようになって、可成(かなり)久しい年月を閲(けみ)して来た筈であるが、その間にも、優秀であるべき頭脳陣が、雁首揃えて研究に取組み、過去現在、多少なりとも納得出来る史的見解が披瀝されたであろうか、推理小説まがいの説は雑多に輩出しているが、文献史学的に真面(まとも)に受取れる様な説は、今日に至るまで出ていない筈である。
 最近では吉野ヶ里遺跡に代表される如く、各地で我が国古代の遺趾遺構(いしいこう)が発掘されるたび、各人各様の立場から、如何にして「邪馬台国」と結びつけて語れるかと云う事にのみ齷齪(あくせく)している様だが、最早(もはや)、こうなると里程も方角も糞もへったくれもあるまい。研究年月を費やしているにも拘らず、結論が出ないと云う事は、『倭人傳』の記述そのものに信憑性がないと云う事と、又、その信憑性のない文献記述中から、多少なりとも史実臭のする残片を読取る為に必要な知識が、判読する側に無いとしたら、所詮は「千年、河清(かせい)を俟(ま)つ」の類(たぐい)的研究でしかないであろう。ましてや、我が国古代史の一端でもないものを、何を勘違いしたのか、日本国内に位置づけて語り出した為、三百年たった今日に至っても結論の出ない所以(ゆえん)の一つと云える。過去の儒教かぶれの学者の弊害を、現在に引き摺っているのがアカデミストと云う階層である。千九百七十九年と記憶するが、倭人伝に関する北京大学の見解は「かなり杜撰であり、方角里程等については信憑性が全くなし」であった。

痛烈です。
そんな山形氏も、帯方郡の所在地について検証するために魏志倭人伝の行程について扱っています。しかし、そのことで朝鮮半島説がおかしなことになっています。
行程問題をどのように扱っているのでしょうか。
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posted by kumana at : 2009年02月13日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

 
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