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高句麗、百済、新羅における仏教とは?

るいネットサロンで日本の仏教について話してみましたが、支配者と庶民との関係がはっきりしませんでした。そこで、仏教を持ち込んだ朝鮮の渡来人の仏教とは何だったのかを調べて見ました。まず仏教が伝来した朝鮮の高句麗、百済、新羅の時代をhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 [1]「朝鮮の仏教」の抜粋から見てみます。
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三国時代の初期仏教
朝鮮半島への仏教の伝来は、高句麗へは372年(小獣林王2年)に伝来し、 百済へは384年(枕流王元年)に伝来、 新羅では少し遅れて、528年(法興王14年)に公認された。 五胡十六国時代および南北朝時代の中国から伝えられ、これら三国においてはその後の律令制度の整備に伴い、国家建設の理念としての役割を果たすようになった点が特徴的である。特に新羅においては、護国仏教としての性格が強いのが特徴で、唐の侵攻に対し先頭に立って人民に徹底抗戦を促して、新羅の朝鮮半島統一に大きな影響を与えた。

■3国に共通する仏教の公認の流れは以下です。
建国史から幾つかの部族の連合から生まれて、族内で王位を廻していた。
       ↓
兄弟相続へ
       ↓
王権を強化する為に父子相続へ=共同体の解体
      ↓                 
国家統合する為に律令、大学等の制度の制定
      ↓
国家の精神的基盤として仏教を公認する。
*隣国・中国からの領土侵犯の外圧*

以下、高句麗、百済、新羅の順番で見て行きます。
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長くなりますがお付き合いをお願いします。
http://jpn.korean.net/wcms/list.jsp?bID=22240&pageID=03025238&byid=4 [4]「韓国歴史国定教科書」から引用します。
■高句麗
三国の中で最も早く発展した高句麗は、2世紀後半になって体制の中央集権化と王権の強化に新しい進展をもたらした。従来の部族的伝統の5部が、行政的な5部に変わり、王位継承は兄弟相続から父子相続へ変わった。
3世紀中頃に衛が高句麗とのはさみ打ちで、満州一帯で独白な勢力を育ててきた公孫氏を滅亡させるや、高句麗は中国勢力と正面から対決するに至った。この過程で衛の侵入をうけたこともあったが、4世紀はじめに高句麗は楽浪郡を討って中国勢力をわが国から追い出すことに成功した(313年)。しかしその後、北から前燕、南から百済の侵略をうけて国家的な危機を迎えることにもなった。
 高句麗が危機を迎えることになったのは、部族別に散らばっていた力を組織的に統率できなかったところにその原因があつた。
 こうした状況を克服して国家体制を大きく改革しながら、新しい発展の土台を整えたのは小獣林王のときのことだった。すなわち、仏教の受容、大学の設立、そして律令の頒布などは、まさしく地方に散在した部族の勢力を効果的に統制し、中央集権国家への体制を強化しようとするものであった。
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引用終わり
■百済
【韓国歴史地図:平凡社】から抜粋
3世紀後半のコニ王の時代に6佐平と16等級の官職体系が整備され、地方の勢力が中央の貴族に編入された。また、百済の公服が制定されたり律令が施行されるなど、国家制度が整備された。さらに、国家の公式事務を担当する官庁が新たに設置され、中央集権的な国家体制が強化された。
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抜粋終わり
http://jpn.korean.net/wcms/list.jsp?bID=22240&pageID=03025238&byid=4 [4]「韓国歴史国定教科書」から引用します。
近肖古王 (346-375)の代に至って、百済は中央執権的な貴族国家としての体制を完成する。彼は偉大な征服君主でもあった。近肖古王24年(369)、馬韓を征服してその領土を占領した。引き続き26年(371) 高句麗の平譲城まで侵略して故國原王を殺した。今の京畿、忠清、全羅道全域と江原、黄海一部まで含む巨大な領土を所有した。彼は西のほうでは 東晋、南のほうでは日本と関係を結んで国際的な位相を確固たるものにした。王権の強化は必然的であった。父子相続による王位継承が定着し、博士高興に「書記」を編纂させた。枕流王元年(384)には古代国家の精神的な支柱になる仏教を受け入れた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終わり
■新羅http://www.koreanfolk.co.kr/folk/japanese/03/b2.htm [5]【三国及び統一新羅】から引用します。
新羅は高句麗や百済より国家体制を遅く整備した。新羅は朴,石,金の3氏が入れ代わりに王位を継承したが、17代の奈勿王(346ー402)の以後は金氏が王位を独占した。6世紀に入って律令を頒布し仏教を公認した。真興王(540-576)の時から飛躍的に発展して洛東江流域と漢江一帯を掌握し、咸鏡道まで北進して高句麗の地域までに進出した。あの征服事業は巡狩碑によって 立証されていて、三国を統一した基盤を揃えたのである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/siragirekisi.htm [6]【仏教による護国と国力の拡大】から引用
6世紀に入ると、正式に「新羅」を名乗り、統治者が「王」を名乗る。それまで天変地異などを原因に王権が移っていたものが世襲制に変わる。法興王(514-540)のときに律令制を整え、中国北部の遼と関係を結び、仏教を公認した(532)。受容までかなり時間がかかったようで、百済や高句麗に比べて、三国の中ではもっとも遅く、百済が都を扶余に移して日本で仏教が伝来したとされるとき(538)とほぼ同時期である。このときに土着勢力とかなり軋轢があったようである。法興王は、さらに金官伽倻を併合するなど領土の拡大を図った。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり
律令制度を補完するように仏教が公認されていますが、元々の仏教の教えを
ウィキペディア「仏教」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99 [7]から見てみます。以下引用
仏教が当時のインドの他の教えと異なったのは特に出世間法における教えと実践法であった。それは生きることの苦から脱するには、真理の正しい理解や洞察が必要であり、そのことによって苦から脱する(=悟りを開く)ことが可能である(四諦)とするものである。そしてそれを目的とした出家と修行、また出家はできなくとも善行の実践を奨励することが特色である。
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引用終わり
上記の教えが、どのように律令制度を補完するかが分からないですね。ではどのように使われたのか?を次に見てみたいと思います。ヒントは常に隣国と中国からの縄張り闘争=外圧による不安が国民全員にある。この不安を払拭する役割があったみたいです。新羅の事例から追いかけてみます。 🙂

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