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2009年08月17日

中国と北方遊牧民の関わりをはじまりから考える

中国の歴史は、当の中国の脅威を冷静に分析するためにも、また我々日本人の起源を解明する上でも、不可欠なテーマですね。
中でも、日・韓・中各国に共通的に影響を与えている北方騎馬民族の影響を知ることは、北方騎馬民族を通じて、西方の歴史とも連続してくるため、とりわけ重要なテーマだと考えています。
そこで、以前にも紹介した岡田英弘先生の著書から中国と北方騎馬民族のつながりにアプローチしてみたいと思います。今日紹介するのは「世界史の誕生」からです。
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今回は中国のはじまりの時代、「夏」「殷」「周」について、みてみましょう。

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中国の歴史は司馬遷によると「五帝の時代」から始まる。「五帝」とは「黄帝」「顓頊(せんぎょく)」・「帝嚳(ていこく)」・「尭(ぎょう)」・「舜(しゅん)」と呼ばれる伝説の人物である。この五帝は、夫々、前帝の息子だったり、曾孫だったりと様々だが、基本的に同一の血統とされている。しかし「帝」は同一の血統とはいえ、長子相続となっている訳ではない。
岡田氏によると「帝」とは「配偶者」を意味し、守護神である大地母神の配偶者を表すという。しかも、その後の「殷」「周」「秦」の始祖の母はこの五帝の妃である。そして、この妃たちが、鳥の卵を呑んで、新しい王朝の始祖たちを生む。これは、中原周辺に定住を始めた北方民族が、中原の帝と政略結婚を結びつつ、軍事的主導権を掌握していったという流れを示しているのであろう。
●南方起源の「夏王朝」
もともと氾濫を繰り返す黄河流域は農業に適した場所ではなかったようだ。しかし治水事業によって領土が拡大していくと、「単一集団の長」を超えた指導者が必要となる。その魁と思われるのが、「舜」の後を継いだ「夏」の始祖「兎(う)」である。
兎(う)は蛇を意味し、そしてその父は魚辺に糸とかいて「こん」と読み、卵を意味するという。「こん」は治水に失敗して処刑されたが、兎は十三年間、休まず治水に努力し、黄河デルタ地帯を開いたとされます。この業績が当時の皇帝「帝瞬」に認められて、天子となったのです。「卵生神話」及び「蛇を始祖とする神話」は明らかにこの「夏王朝」が南方由来であることを意味しています。
恐らく、もともと黄河流域で雑穀農業を営んでいた現地民たちと南方から来た民族が融合したところに夏王朝が出来上がったと考えられる。
● 北方起源の殷王朝
この夏王朝を滅ぼして出来たのが殷(商)王朝である。
殷の始祖契(せつ)の母を簡狄(かんてき)という。簡狄は「帝嚳(ていこく)」の妃となったが、ある時、水浴びをしていると、玄鳥(黒い燕)が卵を落とした。簡狄はこれをとって呑み身ごもった。生まれたのが契である。契の十三代子孫の湯は、夏王桀(けつ)が暴虐であったため、諸侯を率いて、夏群を破ったという。
「狄」は北方の狩猟民を意味し、「女神が水浴の場で、天から降りてきた鳥の卵を呑んで男子を産む」というのは北方狩猟民や遊牧民に共通な始祖神話である。つまり。殷は北方起源国家である。
●西方起源の周、秦王朝
続く、周王朝の始祖周は殷を倒して王朝を立てた。周は西方に起こり、しだいに東方に移動した。周の始祖后稷は農業(麦)を中国人に教えた(伝えた)と言われる。
周王朝の始祖の母は「姜原」という。姜原は「帝嚳(ていこく)」の妃となったが、ある時、野に出でて,巨人の足跡を見て,これを踏んでまもなく妊娠し子を生んだ。これを不祥だとして,これを狭い路地に棄てたが、通過する牛馬も皆、避けて踏まない。林の中に移して放置したが,都合よく山林でも多く人が見つける。橋梁から氷上に棄てるが,鳥が翼でこれを草で覆う。姜原は神の子だと思い,遂にこれを引き取って養育した。初め棄てようとしたので、名を棄とした。これが周の始祖「后稷」の出生奇談で、后稷は帝堯の下で農業を司っていたとされる。
そして、この周を滅ぼした秦も西方の遊牧民だとされる。
帝顓頊(せんぎょく)の末裔で女脩という女がいた。ある時、機を織っていると、燕が卵を落とした。女脩はこれを呑んで大業を生んだ。大業の子孫は西戎(じゅう)に住み、周の考王の馬飼いとなり、その後、秦の始皇帝が多数の都市国家を征服して、始めて天下統一を果たしたとされる。
●漢民族とは?
以上のように、南方の治水文化、北方の軍事力、西方の麦作文化が複合して出来たのが、「原中国=漢民族」である。しかし、この周代に固まったかにみえた「原中国」だが、北方からの遊牧民の侵入により、その後も安定することがなかった。
>漢民族の政治史は極端にいうと、古代以来北方民族からの不断の侵略の歴史である。第一に周そのものが西北からの侵入者であり、それ以後でも4-5世紀には五胡、5-6世紀には北朝、10世紀の遼、12-13世紀の金、13-14世紀の元、17-20世紀の清と歴史の主要な動きは全て北方からの侵入者によってひきおこされている。北方以外の侵入はわずかに西方から8世紀に吐反があったがこれはほんの一時的なもので、漢民族の形成には大きな影響をおとしていない。万里の長城が華南や華西にないのも、ゆえなしとしない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=135969
中国は北方からの侵略に常にさらされてきた。ウイグルでの残虐は、そのような漢民族の「北方コンプレックス」に由来しているのかもしれません。

投稿者 staff : 2009年08月17日 List  

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コメント

面白いのは、掠奪システムを作って置きながら、誓約や和合、祭りや神楽という芸能を使いなから、土着民と氏族を緩やかにまとめていったということ。
また、アニミズムという自然信仰(畏れ敬う)という信仰をベースに神格化された神を人々の精神の拠り所にして統合してきたという支配の方法は、支配ではなく、共認ではなかったか?とも思えます。

投稿者 2310 : 2009年9月26日 23:55

2310さんこんばんは、
>また、アニミズムという自然信仰(畏れ敬う)という信仰をベースに神格化された神を人々の精神の拠り所にして統合してきたという支配の方法は、支配ではなく、共認ではなかったか?とも思えます。
なるほどね。でも、神社に貢納させたりとかしてたらやっぱり支配に傾くかな。
征服部族も、できるだけ共認にみせかけるように腐心して制度をつくっていった感じがします。

投稿者 Hiroshi : 2009年10月3日 23:33

渡来人は新しい生産様式である稲作を持ち込んだから、庶民の労働力が必要だった。
一方の庶民としても新たな可能性は魅力的に映ったことでしょう。一方的な支配というよりは両者の取引が成立しやすかったようにも思えます。

投稿者 ET : 2009年10月4日 00:21

日本の成り立ちを無理矢理朝鮮半島に結びつけるこの手法は、半島系マスコミ、学者らの常套手段でしょ。別に珍しくもないし、興味もそそらない。勝手な空想をもっともらしい仮説として世間に振りまくのは、やめてほしい。

投稿者 匿名 : 2011年4月8日 15:30

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