7,8世紀の法及び制度の変遷の意味するものは? |
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2008年11月26日
アッカドの王、サルゴン
こんにちは!
メソポタミア文明における戦争についてお送りしていますが、
今回はシュメールの都市国家群を征服したアッカド王国のサルゴン王のご紹介です。
シュメールの初期王朝時代(約4500年前)は、ウル市やウルク市などをはじめ、都市国家の群雄割拠の時代でした
その中で、ウルク第三王朝のルガルザゲシ王(元々はウンマ市の王)が勢力を伸ばしていましたが、
このルガルザゲシ王を破り、ウルク市を征服し、その後シュメールの各都市を落としていったのが、アッカド人のサルゴンでした。
なぜ、群雄割拠時代だったシュメールの都市国家を次々と打ち破ることが出来たのか?
それは・・・
ポチッとしてから読んでくださいね
ありがとーございます
このサルゴン王、ある方法を持って各都市国家を打ち破り支配地域を広げていきました。
その広さたるや、相当のものだったようです。
サルゴンはウルク市を征服し、その城壁を破壊した。
彼は戦闘でウルク市に勝利した。
ウルク市の王ルガルザゲシを戦闘で捕らえ、
軛にかけエンリル神の門まで連行した。
さらにウル市、ラガシュ市そしてウンマ市に勝利し、
その城壁を破壊したと書き、
次のように続ける。
国土の王サルゴンにエンリル神は敵対者を与えない。
エンリル神はサルゴンに上の海(=地中海)から
下の海(=ペルシア湾)まで与えた。
下の海から(アッカドまで)アッカド市の市民に
(シュメル諸都市の)エンシ権(=王権)を選び与えた。
マリ市とエラムは国土の王サルゴンの足下に服した。
(略)
「上の海から下の海まで」、
つまり地中海からペルシア湾までの広大な帝国を支配したと
サルゴン王は豪語している。
http://bloghistorygallary.blog10.fc2.com/blog-entry-234.html
すごいですね~
さて、彼はなぜ勝ち続けることができたのか?
その強さの秘密は「常備軍」を持っていることだったのです 😈
サルゴン王はなぜシュメル地方の諸都市を破ることができたのだろうか。
強さの秘密は常備軍を持っていたことであった。
次に引用する王碑文にもそのことが書かれている。
この王碑文もシュメル語とアッカド語の二カ国語で書かれ、
後世の写本である。
キシュ市の王、サルゴンは34回の戦闘で勝利を得た。
彼は諸都市の城壁を海の岸まで破壊した。
彼はアッカド市の岸壁にメルッハの船、
マガンの船そしてティルムンの船を停泊させた。
王、サルゴンはトゥトゥリ市でダガン神に礼拝した。
ダガン神はサルゴンに杉の森(=アマヌス山脈)と
銀の山(=タウロス山脈)までの上の17国、
つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた。
5400人が、エンリル神が敵対者を与えない王、
サルゴンの前で毎日食事をした。
(略)
サルゴン王が毎日の食事を提供した5400人の兵士がいたことが書かれていて、
王に忠誠を誓う戦士集団を育成していたことがわかる。
メルッハはインダス河流域地方(エチオピア説もある)、
マガンはアラビア半島のオマーン、ティルムン(シュメル語ではディルムン)は
ペルシア湾のバハレーンおよびファイラカ島周辺地域にあたるといわれている。
三カ所ともに銅の交易拠点であった。
また、マガンからは閃緑岩、ディルムンからは玉葱が輸入されていた。
サルゴン王は常備軍の力によって、ラガシュ市やウル市に替わってペルシア湾を
中心とした交易を掌握し、富を得た。
この当時、常備軍を持っていることは珍しく、都市国家では有事の際にのみ強制的徴兵を行い、
戦争に臨んでいたようなのです。
そりゃ普段他の仕事してる人に比べれば、戦闘のための訓練をしている軍に敵うわけがありません。
遊牧民族から始まった略奪、それが戦闘・侵略に発展し、「戦争」へと変わっていった一つのプロセスですね
ご存知の通り、戦争はその規模をどんどん広げ、現在では人類の存亡レベルでの危険性を有するまでになってしまいました。
歴史を学ぶことで、これからの未来を少しでも良い方向にもっていければ・・・
その役に立てれば、と思いながら歴史の勉強を続けていきたいと思います
読んでくださってありがとうございました
投稿者 maru : 2008年11月26日 TweetList
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