| メイン |

2008年04月02日

古代エジプトのノモスは村落共同体?

こんばんは~
古代エジプト、がんばって明らかにしていきたいです!
さて、そもそもエジプト文明の舞台、ナイル流域 はどんな様子だったのでしょうか?

ナイル川流域では「都市なき文明」といわれるように,文字,金属器,壮大な建築物など文明の多くの要素は出現し,国は成立しますが,特殊な状況下を除くと都市と呼べるようなものはありません。ピラミッドや葬祭殿あるいは神殿など壮大な建築物はありますが,日常生活に関連する居住地のような遺跡ははっきりとしていません。初期王朝,古王国,中央国,新王国という古代エジプトの3千年にわたる歴史を通してこのような状況は続きます。そもそも都市的な性格のものがなかったのか,これまで調査された地点とは違った場所にあり見つかっていないのか,よくわかりません。どうも西アジアとは違った形で国が成立しているようです
『都市の広がり』さんより

ふむふむ 🙄
昨日の記事でちわわさんの言うように、古代メソポタミア文明と比較できそうですね!
でもぉ、ノモス=都市国家と表現されているものもあったりして。。。
うーん、古代エジプトに都市国家はあったのでしょうか 😮 ? 
うーん、気になる 😀 !って方、応援よろしくお願いします
Blog Ranking
にほんブログ村 歴史ブログへ
ありがとうございます

 にほんブログ村 歴史ブログへ


●まず、都市国家って何?からですよね  

都市を中心に,政治的に独立し周辺地域を支配する国家。
この場合の都市は,城壁や市街などをもつ,きわだって重要な集落のこと。古代の統一国家が成立する以前の段階で,世界各地で見られた。とくに古代メソポタミアの都市国家や,古代ギリシャのポリスが典型とされる。(はてなブックより)

ふむふむ 😀
城壁という点では、遺跡からも古代エジプトにはありませんでした。
なぜでしょうか?
その理由として、エジプト研究で有名?な吉村氏は、

この頃エジプトでは他の文明と少し違う形で都市ができていく。どう違うかというと、エジプトは都市の周りに外壁や防御壁をつくらなかったのである。その理由としては、エジプトは他から異民族が侵入してくる度合いが少ないこと、周囲の農村との交流を大切にしたこと、そして交通路がナイル川に限られていたため、街を囲う必要がなかったことが挙げられる。各都市には中心に神殿を置いたが、それは都市の形成がその地域の守護神を中心に行われたからである。それに対して、西アジアやギリシャなどでは都市は他の民族からの攻撃を防ぐための都城を構えていた。古代エジプトへの旅「ナイルの水を飲むものはナイルに帰る」より

と言っています 。
なるほど
メソポタミアの遊牧部族同士による、肥沃な土地の奪い合い というような外圧は低かった という理由は確かに大きそうです。
が防壁代わりになっていたというのも有り得ますね。
ただ、二つ目の『周囲の農村との交流を大切にしたこと』というのは、どういうことなのでしょうか
●エジプトの本源性
もともとエジプト人は警戒心が薄く本源的 だったということでしょうか?
確かに、当時のナイル川流域では、西アジアから伝わったムギ類と何種類かのマメ類の農耕とウシ、ヒツジ、ヤギの牧畜が結びついた農牧を生業としており、遊牧民ほど生存圧力は過酷ではなかったとも言えます。
また、それ以前の旧石器時代には狩猟・漁労・家畜の飼育を行っており、自然や万物への感謝というような意識も強いと思われます。

ナイルの水を飲むものはナイルに帰る
という言葉もあるそうで、そこからはなんでも受容する イメージを浮かべます。同じナイルの恩恵を受けている者同士なんだから みたいな感じでしょうか?
残念ながら、詳細については参照したページには書かれていませんでした
●ノモスの実態は?
少し時代を下ると、ノモスは次のようになってきます。

古代エジプトの地方行政州であるノモス[3]に関する記録がはじめて登場するのはエジプト第3王朝時代である。ノモスは、その原型を統一王朝時代以前から存在する地域共同体か、初期王朝時代に設置された行政州かのいずれかに持つと考えられており、古王国時代より前から存在すると考えられているが、古王国時代になってそれについての史料が登場することは行政州としてのノモスの整備が進んだことを示すと考えられる。第3王朝時代の記録には「長官」、「耕地指揮官」などの称号があったことが記録にある。初期段階では恐らく、王族や王の任命による州侯が定期的にノモスを巡察して収穫状況などを把握し、徴税を行った。第3王朝時代の行政組織はまだあまり体系だった組織ではなく、その国家機構は未熟であったといわれている。ウィキペディアより

一方、こんな記述もあります。

古代エジプトの各州はそれぞれ独自の守護神と標章をもち、州都には守護神の主神殿がおかれた。経済単位としての自律性も強く、国内が混乱し、中央政府の力がおとろえると独立国家の様相を呈した。州の長官は本来、王によって任命されたが、現実的には世襲化され、地方豪族を形成することが多かった。『ためになる西洋史』さんより

どうもまだ統一王朝の力が弱い初期は、地方豪族化というのが実態に近いのではないかな~と思いました 8)
とすれば、逆に、地方豪族化していたノモス(上下エジプト合わせて44ノモスあったそう)を統合しえたのは、なぜか?
という新しい疑問が浮かんできますね
それは、次回のお楽しみに
ノモスについては、まだまだ実態が漠然としています。
なんで?とか本当?って思うところあれば、どしどしコメントくださいね  
追求していきます

投稿者 mituko : 2008年04月02日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2008/04/482.html/trackback

コメントしてください

 
Secured By miniOrange